第41話 別行動
「今日からは馬で移動するぞ」
朝食の席でメルヴィンからさらりとした口調で告げられたが、陽香に乗馬の経験はない。
「一緒に乗るから大丈夫だ」
思わず眉を下げた陽香を安心させるようにメルヴィンは小さく笑って言った。普段通りの声、普段通りの表情だからこそ、そのことに違和感を覚えた。
「うん、分かった」
心に芽生えた小さな予感を口にすることなく、陽香もまたいつも通りの態度を心掛けながら答えたのだった。
宿の裏手には既に馬が用意されていた。黒い毛並みは艶やかで美しいが、どっしりと大きな体躯は威圧感があり、少々気圧されてしまいそうだ。
落ち着かないのか足踏みをする馬にメルヴィンが声を掛けながら触れると、すぐに甘えるように頭を擦りつけている。
馬の扱いが巧みなこともあるが、きっと頭が良く優秀な馬なのだろう。
不安要素が一つ消えたことで、陽香は小さく安堵の息を漏らした。
メルヴィンに抱えられて馬に乗ると、随分と視界が高い。陽香の身長とほぼ同じ高さなのだから当然といえば当然だが、見慣れた景色なのに随分と印象が変わって見える。
鐙に足を掛け危うげなく飛び乗ったメルヴィンに感心していたが、背後から抱き込まれるような体勢であることに気づいた途端に落ち着かない。
(一人で乗れないし、危なくないようにっていう配慮なんだろうけど……)
伝わってくる体温や、耳元で響く声に逃げ出したくなる衝動をぐっと堪える。
恥ずかしいと思うのは、まるで異性として意識しているようではないか。
「身体が辛かったり下りたくなったらすぐに言うんだぞ」
(ただの護衛で、保護者代わりだから。そう、お父さんやお兄ちゃんにドキドキするのはおかしいよね!)
手綱を握りながらも両腕で器用に身体を支えてくれるメルヴィンに、陽香は無言で頷いたのだった。
「ここで一旦休憩にしよう」
馬が小川の水を勢いよく飲んでいる音を聞きながら、陽香は背筋を伸ばす。耐えられないほどではないが、お尻や背中が辛くなってきたところで、まるで見計らったかのような声掛けだった。
(以前にも女性と馬に乗ったことがあるのかな……)
筋肉量や体力が違う男性では気づきにくい点だと思うのに、さり気ない気遣いは過去の体験に基づくものだと考えるのは自然だろう。
公爵令息なのだから婚約者がいてもおかしくない。
(そういう相手がいるのに、こんなとこまで連れ回しては駄目だよね)
メルヴィンに頼りっぱなしの自分が情けなくて、申し訳なくて、気分が沈んでいくのが分かる。
「ハルカ、念のためだ」
覗き込むように視線を合わされて、一瞬何のことだと混乱しかけたが、ようやく二人だけで移動することになった理由を明かしてくれたのだと思い至った。俯いていたせいで思い悩んでいるのだと勘違いされたようだ。
「エディットさんとジェイさんは大丈夫?」
「ああ、あっちにも町に着くまで別の護衛を付けているから心配いらない」
二人が安全ならば陽香に異論はない。メルヴィンのすることにはきちんとした理由があるのだと思ったから、何も聞かないことにしたのだ。
(ごめんね……)
心の中でそう呟く。たくさん迷惑をかけているからこそ、口にしてはいけない言葉だった。謝るのは自分の中の罪悪感を減らしたいからで、相手のためではない。
「ほら、少し酸っぱいがうまいぞ」
そう言ってメルヴィンは小さな赤紫の実をぱらぱらと陽香の手の平に載せた。一粒食べるとすっきりとした甘さと疲れに聞きそうな酸味が癖になりそうだ。
「美味しいね。ありがとう」
不安がらせないように、気分転換になるように、そんなメルヴィンの優しさが伝わってくる。嬉しくて素直に感謝すれば、温かい陽だまりのような笑みが返ってきた。
(優しくて穏やかな時間なのに何故か苦しくて……とても幸せに感じるなんて)
矛盾だらけの思考の中で、陽香はこの光景を覚えておこうと強く思った。平穏なひと時はいつだって突然ひっくり返されてしまうのだから。
怒声に混じって悲鳴が聞こえてくるたびに肩が震える。荒々しい物音や金属がぶつかり合う音は本能的な恐怖を呼び起こす。奴隷時代に慣れたと思っていた荒事とは比べ物にならないほどの激しさに、ただ蹲っていることしかできない。
そのことがやるせなくて、惨めで、不安なのに、陽香に出来るのはメルヴィンの邪魔をしないことだけだ。
潮が引くように辺りに静けさが戻ると、小さな足音が近づいてきた。
「ハルカ」
名前を呼ばれてようやく呼吸ができるようになった気がしたが、顔を上げた途端に鼻につく濃厚な血の臭いに吐き気が込み上げる。
分かっていたことなのに、反射的に胃がぎゅっと縮こまるのを止められない。
「無理をしなくていい。慣れていない方が当たり前だからな」
何でもない振りをしたいのに、メルヴィンにはあっさりと見抜かれてしまう。自分を護るための結果なのに、そんなことを言わせてしまったことが悔しくて、だけどどうしていいか分からない。
「……メル、怪我は?」
薄闇の中でも目につく鮮やかな深紅の色は返り血だと聞いて、ほっとする。
「バゼーヌ侯爵の手の者じゃない。……恐らくは王妃だろう」
安堵した途端に、ざらりとした嫌な予感を覚える。
「……気づかれたってこと?アンリは……」
大丈夫なのかとは聞けなかった。陽香に言われずともメルヴィンが考えないわけがない。
「疑念は抱かれているようだが、確証は得られてないはずだ。アンリの側を離れたことで、邪魔な俺を排除するいい機会だと刺客を放った。そこにハルカがいれば尚良しといったところだろう」
淡々とした口調で告げたメルヴィンの言葉に陽香は思わず目を瞠った。王妃に命を狙われることを当然のように捉えていたからだ。
「何で……王妃が」
「ああ……。もう亡くなったが俺の母は現王の姉なんだ。母に心酔している王は俺が王位継承権の放棄することを認めない。だから王妃は何かにつけて俺を排除しようとしているんだ。巻き込んでしまってすまないな」
何故アンリと気安い間柄なのか、王太子の立場に言及した時ジゼルが反応した理由など、色々な事が一気に腑に落ちた。
過去を反芻するのに忙しく無言になった陽香をどう捉えたのか、突然メルヴィンが膝を付き深々と頭を下げた。
「そのような立場にありながらハルカの召喚を止められなかった。そんな俺に護られるのは不快かもしれないが、もう少しだけ我慢してほしい」
「嫌じゃないよ!むしろメルヴィンじゃないと………困る」
メルヴィンじゃないと嫌だ。そう口にしかけて慌てて別の言葉を選んだが、あまり大差がない気がする。
自分が思っていた以上にメルヴィンを信頼していたことに気づかされた。
(信頼できて優しくて側にいてくれるのが心地よくて――私、もしかしてメルヴィンに………依存しちゃってる?!)
「そうだな。俺はハルカの専属騎士だもんな」
ショックを受ける陽香をよそに表情を緩めて安堵を浮かべるメルヴィンに、陽香は頷くのが精一杯だった。
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