第40話 髪留め

ぐいぐいと力強く引っ張る小さな手をメルヴィンが握り返しても、振り払われることはない。未だに赤みが残る横顔を見つめれば、自然と口の端が上がっていた。


(可愛いな……)


固く張り詰めていた頃の名残は跡形もなく、柔らかい雰囲気と豊かな表情を見るたびにメルヴィンの胸に喜びが灯った。

甘やかしてやりたいというジェイやエディットの気持ちがよく分かる。


初めて街に連れて行った時には、警戒して差し出した串焼きを手に取ることはなかったのに、躊躇いもなく飴を受け取るようになったハルカに感慨深さすら覚えた。

信頼されていることが何よりも嬉しくて、だがその喜びを抑えるのに苦慮していることなどハルカは想像もしていないだろう。


(知らなくていいし、伝えるつもりもないが……)


護衛対象に特別な感情を抱いてはいけない。護りたいという想いが、変化したのはいつ頃だっただろうか。

同情をはき違えているだけだと思っていたが、死んだ振りをするハルカに対して冷静でいられない自分がいて、メルヴィンはハルカへの想いを自覚し、そして押し込めた。


報われることがなくてもアンリの想い人に変わりはなく、何より自由を望む彼女の邪魔をしてはならない。

幸いというべきか、ハルカはメルヴィンがアンリの言葉に傷ついていると思っている節がある。アンリの本音に全く動じないわけではなかったが、多少様子がおかしくてもそのせいだと受け取られることは有難かった。


誰に強いられることもなく、危険な目に遭うこともなく、平穏な人生を歩んでほしい。


「メル、あの乾燥肉は日持ちする?色んな種類があってジェイさんが喜びそう」

「問題ないだろう。買っておくか」


他愛ない会話の中で呼び掛けられる愛称が特別なようで心地よい。

手を繋いだままだったが、安全のためと判断されたのか解かれることもなく買い物を続ける。少々不純ではないかと思いつつ、結局言及することはなかった。


幾つか店を回り買い物を済ませて馬車に戻ろうとした矢先のことだった。


強い突風が吹いてハルカの髪が煽られる。鬘の下に黒髪がのぞいた瞬間、咄嗟に抱き寄せて外套の下に隠していた。

さり気なく周囲を見渡し、気づいた者がいないか確認するが、突然の恋人たちの抱擁だと捉えられたせいで好奇の視線が注がれている。

失敗したと舌打ちを堪えていると、ハルカが不安そうな声を上げた。


「……メル?」

「驚かせて悪かった。髪が乱れているから直せるか?」


その言葉だけでハルカは状況を察して、手探りで鬘の位置を直している。


「メル、ごめん。髪紐が解けてどこかに行ってしまったみたい」


外套の留め具を外してそのまま陽香に巻き付けると、メルヴィンは陽香を抱き上げて馬車へと向かった。目立ってしまうのは分かっているが、黒髪を目撃される方が後々まずい。


申し訳なさそうに身体を縮めるハルカを宥めるように肩を叩く。ハルカのせいではないのだが、きっと気にしているはずだ。

折角の笑顔を曇らせてしまったことを腹立たしく思うが、それをぶつける先はない。

大丈夫だと言ってやりたいものの、まだ油断が出来ない状態であることも事実である。


事前に打ち合わせた通りに、頃合いを見て合図を送り馬車のガラスを割ったのはメルヴィンだ。誰がハルカの命を奪ったのか、襲撃者たちが疑問を覚えていたとしても、結果的に王族への襲撃したためしばらく身を潜めるはずだ。またバゼーヌ侯爵の失脚により、これ以上累が及ばないよう距離を置くだろう。


問題は猜疑心が強く執念深い王妃を騙せたかどうか、その一点に尽きる。

ハルカの生存を知ればアンリを自分の良いように操るために、手に入れようとするに違いない。城内でハルカを害する動きは見せなかったものの、躾と称した虐待を行うのは時間の問題だったはずだ。


暫くは慎重に様子を見る必要があった。


馬車に戻り事情を説明して、すぐさま街を発つ。元々日が暮れるまでには次の町を目指す予定だったので大きな変更はないが、責任を感じているようでハルカはほとんど口を開かなかった。


移動中に何の役割も果たせていないことを気にしているのは分かっているが、本来はそれで良いのだ。する必要のない苦労をさせているのは召喚したこちらのせいで、命を狙われる羽目になったのだから、もっと我儘を言ってもいいくらいだった。

それなのに周囲を巻き込むことを望まず、アンリとメルヴィンのことまでも気に掛けている。


(どうやって甘やかしたら良いものか……)


そんな風に考えていたメルヴィンは、ハルカからの一言に凍り付くことになった。


「ねえ、髪切りたいんだけど鋏持ってる?」


宿に到着し荷解きを済ませたところで切り出された言葉に、室内がしんと静まり返った。


「ハルカちゃん……何かあったの?」


未婚の女性が髪を切るなど余程のことがない限りあり得ない。

慎重な様子で訊ねるエディットに、ハルカは首を捻った。


「今日みたいに髪が解ける可能性を考えると、短くしておいたほうがいいと……思ったんだけど、駄目ですか?」


ハルカのいた世界では、女性でも男性と同じぐらいに髪を短くするのは珍しいことではないと言う。貴族令嬢にとって髪の美しさは重要であり、髪を切るということは女性としての魅力を失うことだと言っても過言ではないという世界で育ったメルヴィンには衝撃的で言葉を失ってしまったほどだ。


「……そうそう起こり得ることじゃないし、心配しなくていい。後で渡そうと思っていたが、髪留めなら幾つか持っている」


以前露店で購入し渡せないままになっていた髪留めを差し出すが、ハルカは困ったように眉を下げている。譲らない時の表情だと気づいたが、ハルカに負担を掛けるつもりはなかった。


「それほど重要なら切ったほうがいいと思う。いざという時に男の振りが出来るし、鬘を被っていても髪は抜けるんだから、痕跡はなるべく残さないほうがいいでしょう?」


リスクを減らす意味ではハルカの言葉が正しい。

安全を取るなら、とジェイとエディットはハルカの意見を受け入れるような雰囲気に変わった。


「私が切りたいだけだから、メルヴィンは気にしないで。エディットさん、この辺りでざっくり切ってもらえますか?」

「俺がやる」


ハルカが望むなら叶えてやるのが自分の役目だろう。意外そうな顔をしたハルカだが、小さく眉を下げながらも笑みを浮かべたのがせめてもの救いだった。


「すごい!メルヴィンは器用だね!」


うなじが見えるほどに短く切りそろえた髪を見て、ハルカは楽しそうに笑っている。悲愴感がないのは何よりだが、拍子抜けしたような気分だ。


「髪が短いのも似合うわね」


エディットの感想に表情を輝かせているハルカを見ていると、罪悪感などすっかり何処かへ行ってしまった。慰めるつもりがまるで自分のほうが慰められているような気分だ。


「いつか必要になったら使ってくれよ」


そう言って髪留めを手の平に落とせば、今度は嬉しそうに頷いてくれた。

奪われ続けたハルカにこれ以上何も失わせないと決意を新たにしながら、メルヴィンはハルカの髪を優しく梳かした。

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