第33話 本心
マガリーが去ったのを見届けると、メルヴィンは会話が聞こえない程度の距離を取る。ジゼルの本心を引き出すためには、メルヴィンの存在はあまり好ましくないだろう。
「ハルカ様、当家の侍女が失礼いたしました。先ほどおっしゃったコイバナというものが私に分かると良いのですが……」
少しだけ困惑を浮かべたジゼルに、陽香は意識的に笑みを浮かべる。
「そちらについてはお気になさらず。それよりもジゼル様、少しお手をお借りしても?」
「え……ええ。これでよろしいでしょうか?」
おずおずと差し出された左手を、陽香はくるりと向きを変え互いの手の平を重ねた。そしてそのままテーブルへと下ろして手首の辺りに指を置く。
「あの……ハルカ様?これは一体……」
「ジゼル様、人間というものはどんなに感情に蓋をしても、心の動きによって生じる脈拍や生理的な反応を抑えられないのです」
感情を表に出さず振舞うことは高位貴族であればあるほど、幼い頃から訓練を受けるらしい。会話の裏を読み、交渉事を有利に進める上では当然の処世術だ。
侯爵令嬢であるジゼルも自分の振る舞いを完璧にコントロールしているはずで、そんなジゼルを相手に情報を引き出すには、陽香の経験不足は否めない。
生理反応についてもそこから判断し追及するのは難しいと分かっているので、ほとんどはったりなのだがそれを知らないジゼルはどう思うだろうか。
相手よりも優位な立場にいると思わせることが大事なのだ。
「まだ二度しか会っていない私を信用して欲しいとは言えませんし、私もジゼル様を信頼に足る方なのか判断できません。ですので失礼ながらこのままお話ができればと。率直にお伺いしますが、ジゼル様はアンリ殿下が王太子でなくても婚約者になりたいと思われますか?」
重ねた手を振り払われてもおかしくなかったが、ジゼルはそれを気にする素振りもなく陽香を見つめている。
僅かに細めた瞳に浮かんだのは怒りだろうか。そこに潜む負の感情は果たして何に起因するものか。
じっと観察する陽香にジゼルは落ち着いた口調で告げた。
「何故そのような仮定をされるのか分かりませんが、私はアンリ殿下をお支えしたいと思っておりますの。あの方が努力を重ね、築いてきた物を台無しにするようなことがあれば到底許容できませんわ」
仮定であっても不愉快な話題だと断ち切るような言葉は、アンリを擁護しているように聞こえる。まっすぐに陽香を見据える瞳に嘘は見当たらない。
「ハルカ様は王太子に相応しい方が他にいらっしゃるとお考えですか?」
先程と変わらない態度なのに、少しだけ距離を置かれた感覚がある。陽香の回答次第でジゼルは心を開くどころか閉ざしかねない。
(ちょっとミスったかな……)
表面上はにこやかに、だが内心にさざめきのように焦りが広がっていく。
アンリにもメルヴィンにも無理はしないように言われている。ジゼルの本心を知りたいと思うのは陽香の我儘に過ぎない。
バゼーヌ侯爵の奸計を挫くことが重要なのであって、ジゼルの思惑がどうあれ問題はないからだ。
(だけど、それだと私だけだから……)
アンリの望みを叶えるために陽香ができることならば、途中で放り出したくはない。
「ご兄弟がいらっしゃらないと聞いていますし、王太子になれるのはアンリ殿下だけなのではないですか?」
「でしたら何故そのようなことを?アンリ殿下の失脚を望んでいるように取られかねませんわ」
稚拙な陽香の返答など物ともせずに、ジゼルは畳み掛けて来る。どちらが優位なのかは明らかだ。元々駆け引きなど得意でない陽香は、遠回しな探りを入れることを諦めた。
「ジゼル様のアンリ個人への想いを知りたいと思ったから」
目を瞠り呆気に取られた表情は、想定外の問いかけに驚いているようにしか見えない。
「誰のどんな思惑があろうと、その想いが本物なら力になりたい。私はアンリの運命にはなれないけど、幸せになって欲しいとは思っているよ」
誰かを恨んだまま幸せになることは出来ないのだと思う。アンリへの恨みを手放してから過ごす日々の中で少しずつ心が軽くなるのを感じていた。
そんなアンリを弟に重ねてしまうのは寂しさのせいかもしれないが、それでいいのだと自分を許せば凝り固まった心が解れていくようで、アンリの幸せについても素直に考えられるようになったのだ。
「私はアンリ殿下を――お慕いしておりますわ」
そう告げるジゼルは恋をする少女というよりも覚悟を決めたような表情を浮かべている。懐から取り出した1枚の紙を広げながらジゼルは言った。
「ハルカ様が私を婚約者と認める推薦状ですわ。こちらに署名をいただければ以前お話したようにハルカ様が望む環境をご用意させていただきます。ご決断を急かして申し訳ございませんが……あまり時間がありませんの」
「ジゼル様、署名はしません」
切実さを感じるジゼルの言葉にきっぱりと拒絶の意を示す。署名がどれだけの効力を持つか、奴隷に落とされた陽香は身を持って知っているだけにどうしても警戒してしまう。たとえジゼルの言葉が本当であっても、素直に信じる気にはなれなかった。
「ハルカ様、どうかお考え直しください。私はハルカ様を、殿下の運命のお相手を護りたいのです」
「それはバゼーヌ侯爵家の総意なの?」
淀みなく答えていたジゼルの声が止まった。紙を取り出す際に手は離れてしまっていたが、揺れる瞳は雄弁にそうでないことを物語っている。
「……当家の中でも色々な考えがあるようです。それでもハルカ様が殿下の婚約者としての立場を望んでおられないと表明すれば、父も耳を傾けてくれるはずです」
「バゼーヌ侯爵の考えは、いやジゼル様はお父様がどう考えていると思う?」
ジゼルは僅かに俯いたが、すぐさま気づいて顔を上げた。それでも陽香の顔を見ることが出来ず視線を逸らしている。
自分の回答次第で侯爵家の先行きが大きく変わってしまうことを理解しているのだろう。
そしてそれはジゼルの望みを自らの手で台無しにしてしまうことに他ならない。
沈黙が流れる中、陽香は静かにジゼルの言葉を待つ。
「お父様はハルカ様を排除する方向で動いています」
固く引き結んだ唇からこぼれた言葉と同時に、ジゼルの瞳から一筋の涙が伝っていた。
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