第28話 変化と迷い

「ハルカ、口を開けて?」


にこにこと嬉しそうな表情とは対照的に陽香はじっとりとした視線を向けるが、アンリは気にする素振りもない。


「食べないと良くならないよ。他の物なら食べられるかな?」

「……自分で食べられるから」


そう言っても引くことなく、これならどうだろうと一口大に切ったハムを差し出すアンリに、何故こうなったのだろうと陽香は遠い目をして記憶を辿った。



怪我をしたせいでアンリを酷く動揺させてしまったことに、陽香は少し後ろめたさを感じていた。あのまま消えてしまいたいと考えていたことも、要因の一つだろう。

医者が打撲と擦り傷だと診断しても、まるで不治の病に掛かってしまったような絶望感を浮かべたままだ。


さらにメルヴィンが目敏く気づいて蹴られた部分もしっかり晒されてしまったことにより、悲痛な声が聞こえた。紫色の痣になっていたため見た目は酷いが、痛みはそこまで感じていない。


「勝手に転んだだけだし、もう痛くないから大丈夫です」


そんなアンリの様子に宥める側に回った陽香はそう声を掛けるが、アンリは痛みを堪えるように顔を歪めて首を振る。

常にない頑固な様子に、弟の姿が少し重なった。甘えん坊の末っ子だが、自分よりも人の痛みに敏感な子だ。


「……ハルカの怪我が治るまで私が世話をしよう。私のことは専属侍従として扱ってほしい」


そんな感傷から一気に目が覚めるような言葉を堂々と告げたアンリの目は決意に満ちている。


(いやいやいや、それは無理でしょ!)


流石の陽香も王子を使用人扱いしようとは思わない。そもそも世話が必要なほどの怪我でもないのだ。


「殿下、心配してくれるのは有難いのですが――」

「敬称も敬語もいらないよ。ああ、むしろ侍従なのだから私がそうするべきですね」

「本当に、冗談にならないから止めてください。――止めて、アンリ」


きゅっと目を細めたアンリの瞳に切実な色がよぎったようだが、すぐに穏やかな笑みに変わったため定かではない。


「分かった。じゃあ対等な関係での世話なら問題ないよね?私がしなくてもメルヴィンがするのだろうし、それともハルカはメルヴィンのほうがいいのかな?」

「どちらもいらないんだけど……」


まるで捨て犬のような眼差しでアンリは悲しそうに陽香を見ている。先ほど弟の姿を重ねてしまったこともあり、強く拒絶できず結局押し切られてしまったのだった。


(つまるところ自業自得ではあるんだけど……)


アンリに対して許せないという思いが完全になくなったわけではないが、以前よりも刺々した気持ちにはならない。


『護ると決めたから』


あの時のメルヴィンの一言で、終わりにしなければと強迫観念のように感じていた思いや、心の中で凝っていた負の感情は憑き物が落ちたように無くなっていた。

夢の中で兄が幸せになれと言ってくれたことを思い出す。都合の良い夢なのかもしれないが、今の陽香にとって何よりの励ましの言葉だ。


だが聞こえてきたメルヴィンの言葉に、陽香の心は呆気なく沈むことになる。


「ハルカ、エディットに会わないか?」

「……………」


一体どんな顔をして会えばいいのだろう。あの時陽香は確かに逃げたのだ。

エディットは陽香をひたすらに心配し気にしているとメルヴィンからは聞いていた。だけどあんな風に巻き込んでしまったし、また巻き込んでしまったらと思うと怖くて会えない。


「メルヴィン、まだ傷も癒えていないのにハルカに負担を掛けるな。ハルカは何も気にしなくていいからね。今は怪我を治すことに専念しよう」


無言で俯く陽香に、アンリが間に割って入った。メルヴィンに対するアンリの態度が妙に攻撃的なことに気づいていたが、話を続けたくなかった陽香はそのまま口を噤んだ。

このままで良いとは思っていないが、あんなに優しい人が傷つくことも不幸になることも望んでいない。


(手紙でも書こうか……)


謝罪と二度と会わない旨をしたためて誰かに託せば、それで終わる。

この世界で初めて陽香の想いを理解してくれた人、理不尽だと怒って護ってくれた人。

会えなくなると思うと胸が苦しい。


「ねえ、ハルカ。ゲームは好きかい?」


顔を上げるとアンリがにこりと笑みを浮かべている。部屋に来た時に色々な箱を運び込んでいたが、どれもボードゲームだったらしい。

突然の誘いに戸惑ったものの、次から次へとゲームの説明をするアンリを見て気遣われたのだと分かる。


何もせず部屋で過ごしていれば、どうしても悪い方向にばかり考えてしまう。小さく笑みを浮かべて、陽香は遊んだことのあるボードゲームを選んだ。


(……ほんとに光瑠くんみたいだな)


「ハルカ、もう一回だけ勝負をしよう!」


リバーシ、いわゆるオセロを選んだのだが、意外にもアンリは弱かった。少し拗ねたような表情が妙に微笑ましく、何だか力が抜けてしまう。

あまり争いごとが得意ではないようなアンリも勝負事に熱中するあたり、男の子だなという気がする。


「いいけど次は別のゲームにする?」


真剣に迷っているアンリに思わずくすりと笑いが漏れた。顔を上げたアンリのはっとするほど優しい眼差しに目が離せない。


「ハルカ――」


アンリの声に重なるようにノックの音が響き、扉の近くにいたメルヴィンが動く。しばし押し問答を重ねていたようだが、室内に入ってきたのは身なりの良い中年の男性だった。

慇懃な挨拶をするものの、アンリは冷ややかな視線を隠そうとしない。


「公務に支障が出ております。どうかお戻りください」

「私でなくとも良い仕事のはずだ。1日2日休んだぐらいで影響が出るような状況のほうが問題だろう」


取り付く島もない対応に男は目を丸くして、忌々しいとばかりに陽香を一瞥した。ほんの僅かな時間だったが、アンリはテーブルを指で弾き不快感を示す。


「私の運命の相手に何か言いたいことでも?」

「いえ、そのようなことはございません。ただあまりお母上に心配を掛けるのは殿下のためにもならないと思いまして」


親切めいた忠告含まれた意味を陽香は明確に理解していないものの、何らかの意趣返しなのだと察しがつく。あの王妃について言及する以上、碌なことではないのだろう。


「人の心配をする余裕があるなら、仕事の一つや二つ増えても問題ないな。下がれ」


退出を促された男に続いてメルヴィンも部屋から出て行く。そのまま帰すのは何か問題があるのだろうかとそちらに気を取られていると、アンリから呼び掛けられた。


「もし私が王太子でなくなったら、ハルカはどう思う?」


笑みを浮かべているものの、アンリの顔にはどこか怯えを含んでいるように見える。どう返したものかと迷っているうちにメルヴィンが戻ってきた。


「何でもないよ。変な質問をしてごめんね」


誤魔化すように笑ったアンリに陽香は一抹の不安を覚えたが、それ以上触れられたくなさそうな空気を感じて、結局何も聞かなかったと自分に言い聞かせたのだった。

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