第27話 理由

残り少ない時間だと諦めていたはずなのに、どうしてもっと真剣に考えなかったのだろう。命を狙われている可能性が高いと自分でも分かっていたはずなのに、その影響が自分以外に及ぶことを何故思い至らなかったのか。

なかなか手出しが出来ない相手に対し、人質や囮を使うなんて常套手段だというのに。


(殺されるなんて本気で思ってなかった?考えないことで逃げていた?)


自問自答を繰り返しながら陽香は全力で駆けていた。人にぶつかっても、荒い息を吐きながらも、あの場所から遠ざかりたい一心でひたすら足を動かす。


(もう巻き込めない、誰も傷つけたくない)


顔を見るなり逃げ出した自分をエディットはどう思っただろう。エディットが怪我をしたのは恐らく陽香に警告を発したせいだ。側に寄り添うどころか詫びの一言もない薄情者だと憤っているだろうか。


『ハルカちゃんの所為よ!』


そう責められるのが怖い。朗らかで優しい笑顔が嫌悪に代わり、優しくするんじゃなかったと後悔されたら、きっともう駄目になる。

自分の所為なのだから甘んじて受け入れるべきだ、そう囁く自分がいる。それが正しいことだと思うが、もう正しくなくていい。


大通りから人気の少ない路地裏を進んでいけば、徐々に雰囲気が変わっていく。普段なら避けるはずの危険な場所でも、今の陽香にはここしかないと思える。


(だって、もう何処にも行けない……)


滲む涙は息苦しさのせいなのか、それとも心の弱さからだろうか。


足が何かに引っかかり、勢いよく地面に倒れ込む。痛みよりも驚きと呼吸の仕方を間違えて激しく噎せた。いくつかの足音と馬鹿にしたような笑いに顔を起こしかけて、身体が跳ねた。

蹴りあげられたのだと視界に映る靴底を見て、ぼんやりと考える。


(何だ、ただのチンピラか……)


声に出さなかったものの陽香の視線から何かを感じ取ったものか、にやにやとした笑いが剣呑な顔つきに変わる。


「ガキでも一応女だな」


品定めするような目つきに下卑た笑み。何をされるか容易に想像がついて、陽香は落胆の溜息を吐く。


「……殺す度胸もないか」


強打した膝と擦りむいた手の平が、ようやくじんじんと痛みを訴え始めたことに気を取られていると、乱暴に胸倉を掴まれた。


「生意気な口を利きやがって!立場ってものを分からせてやるよ!」


うっかり口に出していたらしい。振り上げられた拳で殴られたらさぞ痛いだろう。


(だけど、エディットさんはもっと痛かったし、怖かったはずだから)


暴力を受けたからと言って帳消しにはならないけれど、無傷であることよりは溜飲が下がるはずだ。決して許されはしないし、自己満足に過ぎない行為であっても、こんなことしか出来ないから。


鈍い音がしたが痛みはなく、顔を上げれば男が驚愕したように目を見開いている。間を置かず暗がりの中で鈍い光を放つ刀身とともに低い声が聞こえた。


「今すぐその手を離せ」


凄みのある眼光と重い威圧感は決して逆らってはいけないと本能的に思わせるほどだ。だが恐ろしいと思えないのは、感情が麻痺してしまったのだろうか。

硬直した男たちが顔を蒼白にして立ち竦んでいるのを陽香はぼんやりと見ていた。


追いついた部下に男たちを任せると、メルヴィンは腰をかがめて手を差し出す。だが陽香は小さく首を振って地面に視線を落とした。戻りたくないと意思表示をしても無駄なことだとは分かっている。


「ハルカ」


促す声は穏やかで勝手な行動を取った陽香を咎める雰囲気はない。それでも陽香は無言で首を振り拒絶を示す。


「戻ろう」

「怪我の手当てをしたい」


決して急かすことなく、やんわりと告げられる言葉の全てに首を振っていると、メルヴィンはさらりとした口調で訊ねられた。


「どこか行きたいところがあるのか?」


行きたい場所はどうやっても辿りつけず、何処にも行けない筈だった。それなのにその声を聞いた途端に行き止まりのように感じていた場所に細い道が開いたような気持ちになって、陽香は顔を上げた。


「俺が行ける場所なら、何処でも連れていってやる。だから、今日は城に戻ろう」


連れて戻らなければならないなら、抱え上げて運べばいいだけだ。辛抱強く声を掛け、待つ必要など何処にもない。


「何で……?」


何で待っているの?何で怒らないの?何で我儘を聞いてくれるの?

色々な疑問が陽香の頭によぎったが、言葉になったのはそれだけだった。だがそんな疑問の全てに一言で答えてくれた。


「護ると決めたから」


その言葉でふらふらと彷徨っていた身体が少し重くなったような気がする。ずっと差し出されたままの手の平に陽香が指先を重ねると、ほのかな温もりが伝わってきた。



「ハルカ!――っ、怪我をしているじゃないか!至急医者を呼べ」


戻った途端にアンリが詰め寄ってきて、血相を変えている。ちょうど水の張った桶に手を入れたばかりだったため、赤く染まった水のせいで実際よりも酷く見えたのかもしれない。


「メルヴィン、君が付いていながらどういうことだ……」


抑えた口調が余計にアンリの憤りを表しているようで、陽香はぎゅっと手を握ってしまった。


「それについては申し開きのしようがありません。――ハルカ、傷が開く」


アンリに顔を向けていたはずのメルヴィンが気づいたことに驚いていると、メルヴィンは躊躇いもなく陽香の手を取り真剣な瞳で傷口を確認している。

まだ話が終わっていないのに切り上げられた形になったアンリは目を瞠っていたものの、毒気を抜かれたように先ほどまでの不穏な気配は消えていた。


「ごめんなさい。……私が勝手なことしたから」

「ハルカのせいじゃない。……痛かったよね、ごめん」


陽香よりも余程痛そうな表情のアンリに、思ったことがそのままするりと口に出た。


「殿下のせいじゃないよ。……心配、かけてごめんなさい」


驚いたようなアンリの表情が視界の端に映った。許す、許さないではなく、素直な気持ちを口にするのは随分と久しぶりな気がする。

それでも気分が重くなることはなく、陽香はやってきた医者にも抵抗を示すことなく淡々と治療を受け入れたのだった。

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