第143話

 またフェンが激しく唸り、苦しげにのたうち回る。ロキは宥めるように必死にその体にしがみついた。


「フェンッ……しっかりしろよぉ……」


 ロキがいくら撫でても、フェンは苦しそうに唸るだけだ。

 トールは他の神々に、神殿の外で迎撃の準備をするようにと身振り手振りで指示を出している。

 広間にいる誰もが、戦々恐々としながらも、必死にこの状況に対応しようと動き回っていた。

 だからこそ、その中に紛れた一人の男にロキの目が止まった。

 動き回る神々に紛れ、その男はその場に立ち尽くしたままだったのだ。その視線は苦しみのたうち回るフェンリルに向けられている。


「ミーミル……なんで……笑ってるんだ……」


 ロキは表情を強張らせ、ミーミルに尋ねた。

 恐怖や焦りが渦巻くこの空間で、ミーミルただ一人が、目を爛々と輝かせ恍惚とした笑みを浮かべているのだ。


「あー、だって……だって本当に来た。フェンリルが、本当に、オーディンを食った、食ったんだ……」

「はっ? あんた何言って……」


 ロキは言葉を止めた。ミーミルが突然口元を抑え俯くと肩を震わせたからだ。

 泣いているのか?とも思ったがそうではない。笑っている。カタカタと陶器がぶつかり合うような音がしたと思ったら、その後で破裂したような高笑いが響いた。ミーミルは繋ぎ合わされた首を持ち上げ、天を仰いでいる。


「最高だよ! 黄昏だ! 黄昏だよ! ロキがフェンリルを連れてきて、オーディンが食われる! そして最高神を失った神殿に巨人族たちが押し寄せユグドラシルに火を放って、ぜーんぶ何もかも終わるんだ!」


 狂ったように笑いながら叫ぶミーミルに、叡智の預言者たる面影はない。

 あまりの変貌ぶりにロキは言葉を失った。

 代わりにミーミルの胸ぐらを掴み問い詰めたのはトールだった。


「貴様、フェンリルがオーディンを食うことを知ってたのか! 知ってて何故伝えなかった!」


 ミーミルはこうなることを予見していた?

 それなのに、フェンの首輪を外し、ロキと出会うように仕組み、そして何度も命を救った。


「それって……フェンに、オーディンを食わせたかったってこと? あんたは、こうなって欲しかったのか? 黄昏を……引き起こしたかった……?」


 恐る恐る、ロキは尋ねた。

 トールが「どうなんだ」と言いたげに、さらにミーミルの襟首を締め上げる。

 苦しげに唸りながらも、ミーミルはその口元に肯定を意味するかのような笑みを浮かべていた。


「なぜだミーミル……オーディンはヴァン神族に斬首されたお前を生きながらえさせた恩人のはずだろ?」


 意味がわからないと言うように、トールは首を振った。


「恩人? 生きながらえさせた?」


 ミーミルの表情から笑みが消え、その眉が大きく歪んだ。


「これが生きているというのか? 痛みも快楽もない、何を食べても砂の味だ。温もりも冷たさも感じない、唯一感じるのは息苦しさだけだ!」


 そう言ってミーミルは、襟首を掴んだトールの手を強く払い除けた。


「トール……僕はね、夢を見なくなってしまった」

「……夢?」

「そう、そうだよ。夢だ。預言者にとって夢は最も重要なものだ。夢を見ないと言うことは、予言を失ったと言うことだ」


 あらゆる感覚と、予言の力を失ったミーミルは、全てに絶望したということか。


「しかし、オーディンをフェンリルに食わせたいがために黄昏を引き起こすなんて……」

「何言ってるんだ」


 トールの言葉を、ミーミルの低く呻くような声が遮った。


「オーディンだけじゃないよ? 僕はね、神族に滅んで欲しいんだよ」

「は……なぜ……」

「なぜ? なぜと聞いたかいトール?」


 ミーミルは不気味に目を見開いた。呆れたとでも示すようにわざとらしくため息をついている。


「僕をこんな風にしたのがお前らだからだよ? 種族間の争いに、僕だけを犠牲にして! 僕だけだ……僕だけが生きながらにして死ぬ羽目になった! こんな地獄あるかっ! 快楽も温もりも、予言も……全て失った! 全てだ‼︎」


 ミーミルは声を張り上げ、地面を踏みつけた。

 トールは返す言葉がないのか、拳を握り押し黙っている。







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