第144話

 その時、突然フェンが先ほどとは様子を変え、床に顎をついて伏せたまま、荒い呼吸で唸りはじめた。体はなおもガクガクと震え、涙もとめどなく流れ続けていた。


「も、もしや……これは、オーディンが……フェンの体に魂を移し替えようとしている……のか?」


 フレイが言った。ロキはその言葉に目を見開き、呼吸を激しく震わせた。


「そ、そんなっ……ダメだ! フェン! くそっ! オーディンなんて食べちゃダメだ! 吐き出せっ! 口開けろってフェン!」


 ロキは両手でフェンの上顎を持ち上げようと口を押したが、皮膚がめくれて犬歯と歯茎が覗くばかりで、フェンは口を開こうとしない。


「魂を移し替える? そんなこと、してもらっちゃ困るよ!」


 ミーミルはフレイの言葉を聞くなり、傍に転がったグングニルの槍に飛びついた。巨大な槍を持ち上げようと両手で握るが、それが叶う前にその手をトールが踏みつけた。

 ミーミルは痛みを感じない。しかし、踏んで押さえつければ動きは止められるのだ。


「吐けるか、フェン? 頑張れ、口開いて……吐けよ、吐いてくれっ」


 フェンはなおも苦しみ唸り続けている。

 ロキはフェンにしがみついたまま、必死にその体を撫でた。


「フェン? フェン……苦しいなっ……大丈夫だよ、俺がここにいてやるから、ほら、ここんとこ撫でてやるよ、耳の後ろ好きだろ? フェン、うぅっ……苦しいなぁ……苦しいよなぁっ……」


 やがてフェンの呼吸音が不規則になる。

 時折弾けるように吐き出す息に紛れて、鼻水や涎が飛び散っていた。眼球には赤い血管が浮かび上がり、気づけば綺麗な薄いブルーの瞳は瞼の裏側に隠れ、白目を剥いている。


「フェン! しっかりしろって! いつもみたいに鳴いてよ! あのバウフンッてアホみたいなやつ……聴きたいなぁ、あれ大好きだよ……大好きだよフェン……やだ、やだよ、行かないでっ……!」


 ロキはフェンの鼻先を掻きむしるように腕を動かした。涙と鼻水だらけの顔を、赤く染まった毛並みに縋るように擦り付ける。


「ダメッ……ダメだっ……ぅぅっ……」


 フェンがまた激しく低く唸る。かと思ったら、大きく体を跳ね上げた。衝撃で、ロキの体は跳ね飛ばされ、床に倒れ込んでしまう。

 手をついたものの、うっかり頬と肩を打ちつけて鈍い衝撃が走った。

 ロキの胸元から、首に下げていた小さな麻袋が飛び出し、緩んだ口から朝日のような光を含んだその鉱石が床に転がった。

 冥界のドラゴンニーズヘッグの歯に挟まっていたものだ。フレイに見せたが結局正体が分からず、ロキはずっとそれを持ったままだった。

 煌めく光に反応したのか、今まで高窓の窓台でこちらを見下ろしていたオーディンの鴉が一羽だけ翼を広げ、真っ直ぐ鉱石めがけて滑空する気配があった。

 顔を上げたロキがハッキリと状況を把握するより先に、フェンが前足を持ち上げた。瞼を持ち上げ鼻筋に皺を寄せると、フェンは犬歯を剥き出しにして大きく口を開いた。


「ロキ! 危ない!」


 フレイの声が聞こえ、トールが咄嗟に手を伸ばそうとする姿が視界の隅に映ったが、間に合う距離ではなかった。

 ロキの目は大きく開かれたフェンリルの口内を捉え、次に犬歯、そして口蓋が迫る。

 バチンと弾けるような、否、何かが突然断たれたような衝撃の後で、周囲の音が途絶え、それと同時に、ロキの視界は暗転した。









 

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