第141話

 フェンは激しく興奮し、鼻筋に皺を寄せ、犬歯を剥き出しにして唸っている。唾を飛び散らせ、逃げ惑う神々に牙を剥き、頭を振り回しながらその体をあっちやこっちに吹き飛ばした。悲鳴や呻き声と共に、鮮血や、あるいは内臓や四肢が床や壁に打ち当てられた。

 真っ白なはずのフェンの体毛がみるみるうちに赤く染まっていく。


「でかいな」


 オーディンが毒づき、腰を低く身構えたのがロキの視界の端に映る。その手に携えたグングニルの槍の穂先が、真っ直ぐにフェンに向けられていた。


「だ、ダメだ!!」


 ロキは絶叫した。

 オーディンに駆け寄り、槍を持つ腕にしがみついた。


「な、なんだ! なにする、チビ! 離せっ!」

「ダメだ! こんなものフェンに向けるな!」

「バカか! 食われるぞ!」


 トールが駆け寄り、ロキをオーディンから引き離した。


「トール離せ! くっそ……いってぇ! 骨折れた!」

「えっ!」


 咄嗟のロキの方便に、トールは驚き力を緩めた。

 そしてロキのその声に、フェンリルがびくりとその体を揺らす。薄いブルーの双眸がロキを捉え、その次に再びロキがしがみつこうと手を伸ばしたオーディンに向いた。

 フェンリルは頭部を伏せ、前足を構える。低く唸り、牙を剥き、そして後ろ足で地面を蹴り上げオーディンに飛びかかった。

 グングニルの槍は穂先をフェンリルに向けている。


「よせっ! オーディン、やめろ!」

「くっ、どけ、チビ!」


 槍を持つ腕にしがみつこうとしたロキを、オーディンは大きく振り払い、遠ざけようとその体を押した。 

 ロキは肩を押され、バランスを崩し後ろに倒れ込んでいく。視界には黒髪を振り乱す、オーディンの姿があった。しかし次の瞬間白い閃光がその体を一瞬にして消し去った。

 ロキが崩れ落ちたのと、弾き飛ばされたグングニルの槍が壁に衝突したのはほぼ同時だった。


「そ、そんな……オーディンが……」


 呆然としたままのロキに変わるかのように、誰かが戦慄の声を上げた。


「オーディンが、フェンリルに食われたぞ!」


 ロキは眼球が溢れそうなほど目を見開き、下顎と喉の奥を震わせた。

 最高神オーディンが、なんの痕跡も残さず、フェンリルの口に呑み込まれていった。

 赤に染まった白い体毛、血走ったブルーの瞳、涎を垂らし低く唸るその姿は、あの愛らしいフェンの姿とは大きくかけ離れている。


「なんてことだ!」


 傍のトールが声を上げた。その左手が血管を浮かび上がらせ、いつのまにか彼がいつも携えていた槌を握りしめている。

 ロキは本能的にトールの腕にしがみついた。


「や、やめっ……やめてくれっ!」

「ロキ! なぜだ! 仕留めないとこちらも食われるぞ!」

「違う! フェンは普段こんなことするやつじゃないんだ! きっとなにかっ……!」


 ロキがそこまで言ったところで、周囲がどよめいた。

 翼の羽ばたく音にロキが顔を向けると、砕かれた神殿の門からニーズヘッグが飛び込んでくる。背中に必死にしがみついているのはフレイだ。


「フレイ!」

「うっ、うぇぇぇっ! フェン、ま、待ってって、何回も言ったじゃないかぁぁぁ!」


 いつも落ち着きを装っていたフレイは、今回ばかりは取り乱して、赤子のように涙と鼻水を垂れ流して泣き叫んでいる。


「フレイ、これはいったいどう言うことだ!」


 ロキらの前に羽を下ろしたニーズヘッグの背中から、トールが泣きじゃくるフレイを抱き上げた。







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