第134話

 バランスを崩したのか、どたりと物音がして、ロキの手から尻尾の感触が滑り落ちていく。しかし、すぐに体勢を立て直したのか、フェンはまたロキの手のひらに頭を擦り付けた。

 生暖かく湿った舌がベロベロとロキの掌を舐める。やがて、それは躊躇いながらも、手首に巻かれた包帯に触れた。


「フゥンッ……」

「え? あぁ、大丈夫だよ。ちょっと熱いスープを溢しちゃってさぁ」

「フンフン……」

「そうだ! 神殿の料理すごいんだぞ? 分厚い牛のステーキが出てさっ!」

「ハフゥンッ!」

「フェン、牛食べたがってたもんな? ちょっとボリュームが凄くて俺は食べきれなかったんだけど、フェンなら楽勝かも」

「バゥフゥンッ……」


 ロキは腕を入れた穴の隙間を覗き込む。鼻先や三角の耳がかすかに見えている。

 必死に腕を伸ばすと、フェンが鼻でロキの指先を突いた。


「フゥンッ……」


 鼻の頭を撫でてやる。ここを撫でられるのも、フェンは好きだったはずだ。


「ふふっ……フェン、鼻すごい湿ってるぞ? いや、待て、びしょびしょじゃないか、鼻水かこれ? お前泣いてんの?」

「フンフゥン……」

「もぉー、汚いなー! 泣くなよ、バカ。 大丈夫だって、うまくいってるから、もうすぐ帰れる」

「フゥン……」

「絶対、帰るから。すぐだよ、すぐ。お土産にでっかいステーキ持って帰ってやるからさ、レイヤとフレイとみんなでパーティーしような?」


 しばし続いた月夜の逢瀬を、終える時がきたようだ。

 レイヤがロキの肩に手を置き、フレイが静かに「二人とも、そろそろ……」と壁の向こうで呟いた。


「アフゥン!」


 駄々を捏ねるみたいに鳴いたフェンが、前足を壁に擦り付ける音がした。


「フェン、あんまり長くいると気づかれるから……」


 ロキはそう言って嗜めると、伸ばした手でビシャビシャに濡れたフェンの鼻を撫でてやる。

 「行くぞフェン」とフレイが言うと、名残惜しげな温もりが、ロキの手から離れていった。

 最後に尻尾に触れられないものかと、ロキは手を伸ばしてみるのだが、それは何にも触れることなく空を切り、地面を踏み締める足音がどんどんと遠ざかっていく。


「フェン? ……フェン? もう行っちゃったか? 見つからないように気をつけろよ、フェン?」


 不恰好な鳴き声も、忙しない息遣いももう聞こえなかった。

 レイヤがロキの背中をさする。ロキはゆっくりと穴から手を引き抜いた。


「フェン……?」


 壁越しに足音が遠のいていった方に、ロキはもう一度呼びかける。しかし、もう応える声はない。


「フェン……ッ……フェン……?」


 どうしても名残惜しくて、ロキはまた穴に腕を通して呼びかけた。温もりを辿る手のひらは空を切り、名前を呼ぶ声は神殿の夜に溶けていく。


「フェン……ぅっ……ううっ……フェン……い、いかっ……行かないで……フェン……」 


 きっともう聞こえていないとわかっている。だからこそ、ロキはその言葉を口にしたのだ。その場で縋るように何度も名前を呼び、やがて地面に座り込んで膝を抱えた。

 洟を啜り、手の甲で目元を擦るが、涙も鼻水もどんどんこぼれ落ちてくる。


「ロキ、これ使って……」


 レイヤが差し出したハンカチを受け取ると、ロキは深く鼻から息を吸い込んだ。

 手のひらはフェンの鼻水でぐしゃぐしゃだ。ロキはそれを見ながら、息を漏らすように笑った。


「ごめんなさい、かえって辛い気持ちにさせてしまったかしら」


 レイヤの問いに、ロキは強く首を振った。


「ちがっ、違う……大丈夫……、ありがとうレイヤ……ありがとう……」


 声を震わせたロキの隣にレイヤがそっと寄り添った。

 ロキは強く瞼を閉じて、溢れ出した涙をハンカチに押しつけ、ぐっと唇を結んだ。まだ震えるその肩をレイヤの温かい手が優しく撫でた。








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