第131話

 何もかも最悪だった。気分も、体調も。


「まったく、いったい何をしたんだ……包帯も取れかけてるじゃないか、ひとまず部屋に戻って手当と薬を」


 そう言って、トールはロキの体を抱え上げようと手を伸ばした。しかしオーディンがそのトールの動きを制するように、ロキの肩をベッドに抑えた。


「いい、手当はここでやれ」

「は? し、しかし」

「俺がここでいいと言ってるんだ」


 ロキはしばらく、オーディンとトールの問答を聞いていたが、そのうち心底どうでもよくなり、遠のく意識に身を任せ、またゆっくりと瞼を閉じた。


 次に目を覚ました時、部屋は静かになっていた。

 仰向けに寝たままゆっくりと腕を持ち上げると、腕の包帯が巻き直されている。が、トールがやったにしては不器用だ。いったい誰が……と、途中まで考えて、ロキはその思考を止めた。

 開けられた窓から穏やかな風が吹き込んで、それに運ばれてくるのか微かに甘い香りが鼻をついた。それを辿って、首を傾けると窓際のテーブルに、カットされたフルーツの乗った皿が置かれていた。

 それを見て、ロキは自分のささくれだった唇に気がついた。そして酷く喉が渇いていると言うことにも。


「うまそう……」


 無意識にそう呟くと、傍で人の動く気配があった。ベッドのスプリングが揺れ、ロキの上に黒い髪が降り注ぐ。


「起きたのか」


 そう言って横向いていたロキの頬を、オーディンは手で少々強引に上向かせた。

 なんだいたのか、とロキは内心驚いたが、それを表情に出す気力はまだ湧かなかった。


「おい、チビ。チビスケ、起きたんだろ、おい」


 オーディンにペチペチと頬をたたかれ、ロキは眉を寄せて唸った。


「よし、チビ。これを食え。どれがいい? 色々あるぞ? 甘ったるいのと酸っぱいのと、あとちょっと青臭いのもあるな」


 オーディンは飛び跳ねるようにベッドから降りると、窓辺の皿を抱えてロキの枕元に歩み寄った。

 甘いフルーツの香りに、ロキは思わず顔を持ち上げる。


「甘いのは……どれだ……?」

「甘いのか? 甘いのがいいんだな? ほら、これだ口を開けろ」

「いや、自分で食えっ……あぐっ……」


 フルーツを刺したフォークをオーディンが強引にロキの口に捩じ込んだ。甘い果汁が口内を満たし、口の端からこぼれ落ちた。乾いた喉が潤っていく。


「もう一口か? ほら、食え」


 もう抗うのも面倒で、ロキは大人しくオーディンが差し出すものを口に入れた。誰に食べさせられようとも、乾いた体で食べるフルーツは美味いようだ。


「あれしきのことでぐずぐず泣いて、挙句寝込むとは……これじゃ、まるで俺がお前を虐めたみたいだろ」


 何を言ってるんだこの男は……ロキは思ったが、やはり言葉にする気力もなく、もう一口差し出されたフルーツを口に含んだ。

 その後、オーディンは酸っぱいのも青臭いのも食べるかとしつこかったが、ロキは一度だけ首を振り、あとは無視して枕に頭を戻すと、また瞼を閉じた。

 

 次に目を覚ました時、部屋の中に何やら言い争う声が響いている。

 煩いと身じろぎをしたが、言い合う二人はロキの仕草に気がついていない。


「だから、寝込んでいる原因の多くはストレスだとミーミルも言ってただろ」


 トールの声だ。聞き分けの悪い子供に困り果てたような口ぶりだった。


「何度も言うな、わかっている! だからこうして俺が体を拭いて世話をしてやろうと」

「いや、だから……ストレスの原因が世話をやくのは本末転倒だと言っているんだ」

「原因? 原因とは誰のことだ……俺……か……?」


 これは多分、起きたら面倒なことになる。本能でそう感じた、ロキは目を閉じたまま、再び睡魔に身を委ねた。

 そこから数日間、ロキの意識は覚醒と眠りを繰り返し、ようやく起き上がれるようになってからも、体の倦怠感が抜けきらなかった。

 オーディンは部屋に留まるようにしつこかったが、ロキは自室に移り、ただ寝て起きるだけの生活をしていた。

 だんだんと、心の中を諦めと絶望が蝕んでいく。

 このままこの神殿で黄昏を迎え、神々と共に死んでいくのだろうか。ぼんやりと窓辺に座っていると、そんな考えが浮かんだ。








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