月夜の逢瀬

第130話














 揺らめく水光の向こうに手を伸ばすと、その姿は当たり前のように、ロキの体を引き上げる。

 しっとりと濡れた皮膚、水滴の落ちる白い髪、ロキが鼻筋にキスを落とすと、薄いブルーの瞳が愛しげに細められた。


ーー帰りたい


 明確に言葉にしたと言うのに、その声はどこか朧げだ。

 ウテナの砂浜、スヴェルトの閑散とした街道、寒い寒いヨトの雪山、暗闇に浮かぶ冥界の泉、アースガルドの壮観な星空。


ーーどこでもいい、お前がいるなら、どこでもいいんだ。早く帰りたい。


「また泣くのかチビ」


 差し込む日差しに瞼を照らされ、ロキはゆっくりと覚醒した。

 視界に映った薄いブルーの瞳は、同じはずなのに全く違う色に感じる。

 ロキはベッドに仰向けに寝ていた。いつのまにか涙が耳を濡らしている。

 どうやら力尽きたロキは、昨夜オーディンの寝所で眠ってしまったようだ。


「おい、なんか言え」


 オーディンはロキの隣で体を起こし、顔を覗き込んでいる。しなやかな黒髪が肩から流れ落ちていた。

 言葉を紡ごうとするのに、声が出てこない。体が酷い怠さを感じていた。

 オーディンの髪を掴んでやろうと持ち上げた手は、ほとんど力が入らないままだらりとシーツの上に落ちていった。


ーーもういいや、めんどくさい


 ロキはもう一度瞼をゆっくり閉じていく。


「おい、人のベッドで二度寝する気か、起きろ、おいチビ」


 オーディンの指が無理やりロキの瞼を持ち上げる。目が乾くしうざったい。

 ロキはどうにかみじろぎして、その手を交わすと、毛布を持ち上げ頭まで被った。


「おーい、こら、おいって!」


 オーディンは何度も何度も毛布越しにロキの体を揺らしたり突いたり。とにかくしつこかった。

 反応を返す気も起きなくて、ロキはそれを無視し続ける。

 やがてベッドのスプリングが揺れ、背後の体温がなくなった。諦めたのだろうかと思った矢先、扉を開けたオーディンが廊下に向かって何か声をあげている。


「おい、トール! トールはいるか!」


 程なくして足音がすると、呼びつけられたトールが部屋に現れた。


「なんだ? どうした、朝から騒いで」


 どこか呆れたようなトールの声がする。


「トール、これはどうなってるんだ、チビが俺のベッドに入ったまま動かないぞ? ゆすっても突いてもダメだ」

「は⁈」


 慌てたようなトールの足音が近づいてくる。と思ったら、バサリと毛布を捲られた。

 ロキが薄らと目を開けると、ベッドの傍らに膝をついたトールがロキの顔を覗き込んでいた。

 ロキの生存を確かめて、トールは一旦安心した表情を見せたが、すぐにその眉は険しく寄せられていった。


「オーディン、ロキに何かしたのか」

「何か? 別に大したことはしていない。昨日は多少強めの香を焚いただけだ。まあ、それから、少し遊んだが……でも、別に大したあれでは……」

「人間はか弱いから優しくしろと言っただろ!」


 まるで父親が子供を叱るかのようなトールの声音に、オーディンがぐっと息を飲んだ気配がある。


「だ、だから昨日は優しくした! な、おい、チビ? チビスケそうだよな?」


 またスプリングが揺れ、ベッドの上にオーディンが膝をついたようだ。両手でロキの肩を掴んで揺らしてくる。


「やめろ、オーディン」


 トールが嗜めるようにオーディンの手を叩いた。


「ロキ、大丈夫か? 具合が悪いのか?」


 ロキは声に出さないまま、力のない表情でトールの問いに頷いた。








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