第十八章 諦めなきゃ、負けじゃない。にゃん☆


 隙だらけで最高のタイミングだった。渾身の一発を放つのに躊躇いはなかっただろう。

 もし橘がグローブをつけていたら、俺は脳を揺らされリングマットに倒れていたはずだ――が、素手の拳は当たる面が狭い分衝撃が半減し、拳側にも負荷がかかる。

 そして拳を構成する細い指の骨に対して頭蓋を守る厚い骨。この二つが勢いを持って同時にぶつかれば、壊れる方は明白だ。


「やっぱり、グローブはつけてた方がよかったんじゃないか?」

 

 苦痛と憤怒に染まった橘の表情を見て、軽口混じりに俺は言う。


「俺の一番の長所は丈夫さでね。打たれ強さは天宮先輩の折り紙付きだ。そして――」


 少しばかりズキズキとする額を人さし指で叩き、出会って初めて、俺は彼に笑みを投げかけた。


「頭の方も、石頭だとよく言われる」

「……ウザい……ホントにウザいな、君……!」


 右手を振り、握り直しながら橘は低い声で言う。


「こんな泥臭い手で……僕に勝てると思うなよ……」

「天宮先輩は華麗な組手であんたを仕留めたんだろうな」


 再び、俺は顔面よりもガードを低くした空手の構えを取る。


「残念ながら俺にそこまでの才能はないんでね。手段は選ばん」


 卑屈さからではなく、絶対の自信をもって、俺は告げた。


 鬼神の形相で橘は前へ出る。ジャブ。俺は左手でそれを流しつつ、こちらの射程に入ったのを狙って右の横蹴りを放つ。咄嗟に捌こうとした橘の右手が一瞬止まり、そこに蹴りが当たる。


「――っ!」


 激痛、顔が歪む。止まらず俺は左の上段回し蹴り放つ。左手で首を囲うようにして橘は顔を守ったが、ガード越し、蹴りに押されてバランスを崩す。


「くそっ!」


 その体勢から左のインロー。早い蹴りだが重さはない。勝機。前へ出る。右の膝。橘の身体がくの字に曲がる――が、膝は鳩尾には入っていない。自ら身体を曲げ直前に左腕を前にして受けたのだ。


「キックには――」


 近距離。痛みに歪んでいた橘の顔が笑う。右。パンチは打てないはず。にも拘らず、俺の左のこめかみに鋭い痛みが走る。


「これがあるんだよっ!」


 肘撃ち。眉の上が切れた。吹っ飛びそうになった首を俺は強引に前へ戻す。橘の表情。動揺と焦燥が浮かぶ。

 密着する手前の位置、それは空手の突きの間合いだ。


「空手には――」


 離れようとする橘。だがそれよりも早く、体軸を最小限に回した俺の左下突きが彼の右わき腹に突き刺さる。


「これがある」 


 ざくり、と深く入った左拳。引き抜くと同時に橘は膝から崩れ落ちた。

 残心。ゆっくりと、俺は下突きの構えを取った。


 ※


「…………負け……か……」


 一分ほど膝を着いたまま痛みに悶えていた橘は、大きく息を吐きそうつぶやいた。

 右下腹、レバーのダウンは地獄の苦しみだ。俺も何度も効かされ道場の床を転げ回った。

 橘はリングの上に大の字に寝転んだ。口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。


「惨めだな、まったく……散々煽り倒しておいてこのざまだ。やっぱり僕には、才能なんてなかったんだ……」

「違う。あんたには才能があったし努力もしてきた。でないと、あんなローキックや動きは身に着かない」


 彼を見下ろし、俺は言い切った。橘の目がこちらへ向く。


「……見てきたようなことを言うな。君に僕の何がわかるんだ?」


 俺は自分の左脚、橘の蹴りを受けたところを擦った。


「あんたのローを受けたからわかる。それは才能だけに任せた蹴りじゃない。何度も何度も反復して、血の滲むような努力をしてきたヤツの蹴りだ」


 橘は苦笑した。


「正直、今ならそう言われるのも悪い気分じゃないな。でも……僕は諦めたんだ。君だって本当はわかってるだろ? 圧倒的な才能を持ったヤツの前じゃあ小さな才能や努力は無意味だ。さくらちゃんと同じ道場にいたなら、嫌っていうほど思い知らされただろ?」

「ああ。でも俺は諦めない」


 答えて、俺は自分の拳を見た。


「天宮先輩は強い。自分が強くなるほどその差がわかり、遠ざかる一方な気さえする。……でも、彼女がどんなに強くても、俺はいつか追いついてみせる。百回負けたら千回。千回負けたら二千回挑めばいい。いつか勝てる日がくるまで、稽古を続ける」


 橘は呆けたような顔をして、それから視線を伏せた。


「バカだな……本当にバカなんだな、君は………………でも……そうだな。諦めきれないなら、そうするしかないんだよな…………」


 痛めた右拳。橘はしばし目を向け、それから腕を顔に押し付けた。


「あの時……僕があいつに倒された時、もし君みたいなヤツが近くにいてくれたら……僕だって……」

「今からでも遅くはない」


 左のこめかみに手をやる。浅く切れていたが、大した血は出ていなかった。


「俺が認める。橘さん、あんたは強い。そしてもっと強くなれる。また始めればいいさ。打倒ムエタイは、キックの目標なんだろう?」


 鼻を啜り、橘は低い笑い声を漏らした。


「また知ったようなことを……本当、暑苦しくて無神経で……ウザいよ、君は……」

「よく言われる」


 笑って、俺は橘のつぶやきに同意した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る