第十七章 VSキックボクサーにゃん☆


 橘右京が小刻みに放つジャブをかわしつつ、俺は右に回った。互いにグローブは無し。試合をするつもりはない、という橘の言葉に俺も乗った。


「フルコンなら素手の方が得意だろ? 僕の方が年上だからね、後輩に合わせてやるよ」

「どっちでもいいですが。慣れないことすると拳壊しますよ」

「先週、顎揺らされたのをもう忘れたのかい? 気遣いはいいからかかってこいよ」


 皮肉を交わし、そこから先は身体で会話をすることにした。

 その方が俺も得意だ。


「しっ!」


 回ると同時、左中段回し蹴り。後退しつつ橘は左手で捌き、返しの右ミドルを放つ。俺は左腕で受け、すかさず手を前へ出し牽制。

 リーチでは俺が有利。橘は距離を嫌がり左前蹴りを打つ。下がって回避。少し間が開く。

 出鼻、互いに手の内は見せていない。俺が知る限り橘の最大の武器は足を使った出入りの速さとあのローキック。今までの攻撃は単発で、先を取りに来るが激しい追撃もない。

 俺も相手を観察している段階だ。まだ高い蹴りを出す隙は掴めない。


「ずいぶん慎重じゃないか」


 顔の横に上げたガードを下ろし、橘は挑発するように言った。


「近くでやりたくない――距離を取りたがるってことは、蹴り技が得意なんだろ?」


 読みが早い。やはり相当の試合経験はこなしている。


「橘さんこそ、試合で見せたフットワークとローを出さないんですね」

「こっちの手の内は知られてるようだからね。まずはスタイルの検分さ」


 ふふん、と橘は薄く笑った。


「だから、もう少し攻めてきてほしいんだけど。……君さ、そんなに臆病だから、さくらちゃんにも相手にされないんじゃないのかい?」

 うるせぇと思ったが、口には出さず平常心に努める。

 ……でもまあ距離を取った以上、ぼちぼちこちらから仕掛けるのも悪くない。


「じゃあ、今度はこっちから行きますよ」


 視界を遮るよう左手を前へ突き出し、俺は踏み込むや左の前蹴り――からの軌道を変化させた上段回し蹴りを放つ。


「っ!」


 橘は反応し、右腕で受けると同時に俺の軸足にカウンターのローキックを入れた。

 ――重い! 右の内股に痺れるような感覚が走る。

 何とかバランスを保ち、俺は下ろした左足で横蹴りを放つ。橘は軽やかにステップして右へ飛ぶと、ワンツーと俺の顔に連打を浴びせてくる。

 咄嗟にガードを上げたが慣れない顔面へのパンチで次の行動が遅れる。ワンツーは防いだが、両腕で視界が阻まれた瞬間、左の大腿にバットで殴られたような衝撃が走る。


 ……くそっ……効かされた……!


 苦し紛れに打った右ストレートは空を切り、橘はフットワークを使い距離を測る。


「いいね、大分あったまってきた……」


 ややクラウチング気味に重心を移したポジションはOSGのサイト写真にあった攻撃態勢に切り替えた時の構えだ。

 俺は左手を前へ突き出し、橘の攻撃の初動を探る。


「さんざん舐めたこと言ってくれたんだ。今日はもう少し、痛い目にあってもらうよ……!」


 橘の顔に、攻撃的な笑みが浮かぶ。

 足を使い、橘はリングの上を縦横無尽に移動する。巧みなステップワーク。無駄な動きはなく、俺の攻撃が届かないギリギリのところでフェイントを混ぜつつ行き来している。


 ……このままペースに乗せられるのはまずい。まず、足を止める。


 橘の動きのパターンを見ていた俺は、次にヤツが移動する位置を予想し前蹴りを放った。橘の目が光る。速度が加速し、前へ出てかわし俺のボディへ右ストレート、返す刀で左のショートフックを打つ。

 腹に力をこめて耐え、フックは防御したが動きが止まる。コンビネーション、右のローキックをきっちり俺の前足大腿に決め、橘はまた離れる。

 技を上下に散らす見事なヒット&アウェイだ。俺はまだ橘のローをまともに防げていない。蓄積されたダメージはじわじわと身体を蝕むだろう。


「どうしたんだい? ロクに反応もできてないじゃないか」


 ステップを刻み、橘は不敵に言い捨てる。

 酷薄で憎たらしい表情。だが表面的な薄っぺらさはない。あの張り付けられた笑顔より俺は好きだ。


 ……ムカつくけどな。


 深く息をつき、俺は気持ちを落ち着ける。焦ってはいけない、相手は強い。高校時代とはいえタイ遠征を決めるトーナメントを制した実力者だ。

 顔面殴打ルールでの経験、技術は向こうが圧倒的に上。俺も昔天宮先輩に連れられてキックボクシングのジムに出稽古へ行ったことがあるが、そのルールでは選手クラス相手に歯が立たなかった。(ちなみに天宮先輩はあっさり対応し、そのジムの日本ミドル級ランカーといいスパーリングをしていた)。

 ならばどうするか。――決まっている。相手の土俵で勝負にならないなら、俺は俺がやってきた空手をするだけだ。

 二度ほど軽くジャンプして肩の力を抜き、俺はガードを胸の位置まで下げた。左手はやや前方に伸ばしたL字ガード。橘の唇が不愉快そうに歪む。


「……ロー警戒で顔面ノーガード? 僕のボクシングも侮られたもんだな……!」


 吐き捨てるように言って、マットを蹴る。

 侮ってはいない。慎重では勝てないと思ったから、リスクをとっても自分の空手をすることに決めたのだ。

 かつてフルコンタクト空手世界大会で優勝し、顔面ありの立ち技でも幾多のKOを築いたブラジルの雄、フランシスコ・フィリョ。

 顔面殴打有りの立ち技に挑戦した初期の彼は――ボクシング技術が未熟なせいもあったが――空手と変わらぬ構えをしつつ、間合いを遠くとる戦術を使った。

 パンチに対して十分な距離を取り、得意の蹴り技を放ちつつ繰り出される相手の攻撃に合わせて絶妙なカウンターをとる。

 フルコン空手から顔面有りの挑戦でそれは苦肉の策だったのかもしれないが、結果、その戦法は肉を切らせて骨を断つ〝一撃必倒〟神話を生み出した。

 もちろん俺が同じことをやるには技術も体力も経験も足りない。だが、身体に馴染んだ空手の技術を生かすにはこのスタイルがベストのはずだ。


「しっ!」


 橘の放つジャブを左手で弾き、俺は間合いを維持する。

 リーチ差、そして出鼻をくじかれるとリズムが崩される。反撃をもらわなくても攻め入るには厄介だ。


「ち……小賢しいな……!」


 苛立ちを露わにし、つぶやく橘。それでいい。もっと急いて攻めて来い。

 数発のやり合いのあと、橘は業を煮やしたように右に振るフェイントから身体を沈ませ、そのまま俺の左手をかいくぐり間合いを詰めてきた。


「ふっ!」


 浮かぶと同時に放たれた左アッパーは右手で防ぐ。が、返しの右は防御が間に合わない。

 笑みに歪む橘の表情――その顔が、次の瞬間苦痛に変わる。


「――つっ!? ……くっ……!」


 たたらを踏んで後退し、橘は右手首を左手で握る。

 迫りくる右ストレート――それが伸びきる直前、俺は相手の拳に自らの額を叩きつけたのだ。

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