第十六章 負け犬は言い訳をする。にゃん☆


 翌週、芸術学部棟二階205号室。


「――また君か……今日は一人なのかい?」


 講義終わり、教室から出てくる学生たちの群れ。入り口から少し離れたところで待っていた俺に橘右京はすぐ気づき、口元にシニカルな笑みを作り声をかけてきた。


「はい。橘さんと、もう少し話がしたいと思いまして」


 彼をまっすぐ見つめ、俺は言った。ふん、とつぶやき、橘は右手で前髪を触る。


「鈍感というか無神経というか……ふてぶてしいな、キミ」

「すみません」

「悪いと思ってないなら謝らなくていいさ。――そうだな、〝話す〟のはいいけど、また途中で邪魔が入るのもなんだね」


 言って、背中を向けて歩き出す。


「ここからだとちょっと離れてるけど、今度は絶対に人が来ない場所がある。〝話したい〟んならそっちにしよう」


 歩みを止め、橘は俺の方を振り向いた。


「それとも……僕の言うことに従うのは怖いかい?」


 張り付けられた笑み。視線が交錯する。


「いいえ」


 無表情のまま、俺は答えた。


 ※


 キャンパス内、芸術学部とは反対側にある工学部から校門へ向かう途中の分かれ道に橘右京は向かって行った。

 木々や草の生い茂る獣道めいた細道だ。下って行くと、林の中に建てられた運動部の部室棟へ行き着いた。


「この先だよ」


 言われてそこからさらに下へ。急に視界が開け、並の一軒家よりもやや大きいぐらいの四角いプレハブ小屋が現れた。


「ここだ」


 上着のポケットから出した鍵で錠を開けると、橘は中へ促した。

 靴を脱ぎ、壁に立てかけた棚に入れて上がる。天井が高い。こもったような臭い。

 広さは三十畳以上あるだろうか、室内の中心には巨大なリングがあり、その横には鉄パイプに括りつけられたサンドバッグが三つほど並んでいる。

 入り口からリングまでにはいくらかのスペースが設けられ、向き合う壁は一面鏡張りだ。隅には物置が置かれ、ミットやグローブ、レッグガードなどが詰め込まれている。


「ボクシング部やキックボクシング部が使っている格技場でね、友達が部長をやってて、合鍵作ってもらったんだ」


 橘は指に引っかけた鍵をくるくると回し、上着のポケットに戻した。

 俺は室内を見回す。なかなか広い。複数のサンドバッグにリングまであるとは設備も充実している。

 うちの大学が格闘技で強いとは聞いたことがないが、近場のこの環境で稽古できるのは羨ましい。


「それで、何を話す?」


 入り口を閉め、照明の電源を入れると橘は不敵に言った。窓はあるが夜間まで練習するなら明かりは必須なのだろう。


「そうだな……さくらちゃんを抱いた時のことでも聞きたいかい? 君の憧れる先輩が、どんなふうに喘いだか……」


 壁に背をもたれさせ、ねっとりとした口調で言う。芝居がかった仕草だ。俺は短く息を吸う。


 ……大丈夫だ。動揺はない。俺は平常心を保てている。


 張り付けられた笑みを浮かべる彼を見据え、俺は口を開いた。


「天宮先輩とも、ここで〝やった〟んですか?」


 瞬間、橘右京の顔が引きつる。俺は視線を外さない。

 微かに震える唇。心の揺らぎを抑えるよう一文字に結ぶと、橘は微笑を見せた。


「……どういう意味かな」

「下世話な意味じゃないです。それに誘ったのは、天宮先輩の方だったと思います」


 俺は言葉を続けた。


「あなたは、ここで天宮先輩と〝戦った〟んですね――」


 橘右京は俯いた。沈黙。ややあって上げた顔からは、表情が消えていた。


「彼女からそれを聞いたのか?」


 低い声で問う。


「いいえ。訊いてもあの人ははぐらかすだろうし、言わないです」


 それでも橘右京を思い出した時に、気づいた。

 俺の知ってる〝天宮さくら〟がどういう人か。中学の頃、試合でいい動きをすると評価した橘右京と出会い、彼女がどういう行動に出るか。

 もし俺が知っている頃と変わっていないなら、やることは一つだ。


「ここで……あなたは天宮先輩にも〝やられた〟んですね」


 橘右京の目が殺気立つ。怒りと屈辱に満ちた表情。それは張り付けられた笑顔と違い、彼の内心を晒していた。


「……にもって………どういうことだよ……」


 つぶやくように言う。

 少しだけ躊躇う。今日はそれを言うために会いに来た。だが、それは彼の心に土足で踏み込む行為だ。傷つけることは避けられない。


 ……しかし、俺にはこういうやり方しかできない。


「シンラック。あなたがムエタイ修行へ行った時、対戦した選手です。地方のスタジアムでもタイにはあんなに強い選手がいるんですね」


 息を飲み、橘は目を見開いた。


「何で……君があいつを……」

「知り合いに調べてもらいました。高校時代、OSGのトーナメントで優勝した橘さんがタイに行ったあと、どうして格闘技の世界から消えたのか」


 市ヶ谷先輩が見つけた動画――そこに映っていたのは、無名のタイ人相手に圧倒される橘右京の姿だった。

 何度も転がされ、ミドルを腕に受け真っ赤に腫らせ、それでも立ち上がり向かっていった。

 観客は怒号と嘲りの声を上げていた。対戦相手の選手でさえ、蔑んだ笑みを湛えていた。

 結局ダウンさえさせてもらえず、橘右京は三ラウンド徹底的に痛めつけられて判定負けした。試合後、彼は人目もはばからず泣いた。リングの上で孤独に泣いていた。


 ……その姿を見て、彼が格闘技の世界から姿を消した理由はわかった気がした。


 ――バンッ! という音がして、プレハブ小屋が揺れた。橘が壁を拳で殴りつけたのだ。溢れそうになる激情を抑えるように、橘は俯き目蓋を閉じていた。

 黙ったまま、俺は彼を見つめた。


「……そうか。あの時の試合、日本から来てるヤツらが撮ってるってあとで聞いたな……」


 押し殺した声で、橘は自嘲するようにつぶやいた。


「あの試合を、君も見たのか……」


 橘の顔が俺に向く。

 力の抜けた薄い笑み。張り付けられた笑顔でもなく屈辱と怒りに湧く鬼相でもない。負け犬が浮かべる顔だ、と思った。


「……あの時さ、僕が対戦した選手、いくつだったかわかるか?」


 妙に落ち着いた口調で、橘は滔々と言った。


「十三歳だよ。あの時の僕よりも五つ下で、当然ランキングにも入っていない。そんな駆け出しみたいな選手に、僕は手も足も出ずに負けたんだ……」


 ふっ、と息を吐き、橘は首を振った。


「OSGトーナメントで優勝して、自分ほどの才能を持つヤツなんてそういないと思ってた。僕は天才で、これからいくつもベルトを獲って、いずれはラジャやルンピーニのリングに立つんだ、って。……そう舞い上がってた馬鹿だった。僕程度のレベルなんてタイや世界にはごまんといるのにな」


 自身を卑下して語る橘に、苛立っている俺がいた。

 ……苛立っている。そう、腹立たしい気分だった。

 天宮先輩が認め、俺も強いと思った。そんな男が惨めな弱音を漏らしている。それが無性に耐え難かった。


「いいえ。俺は橘さんには優れた才能があると思います。天宮先輩もそう評価していた。だから、あの時は敵わなかったとしても、努力を重ねれば――」

「うるさいなぁっ!!」


 俺の言葉を遮って、橘右京は怒鳴った。


「ホントに……ホントにもう、イライラさせるなぁ……。大した才能もないクセに、努力でどうにかなるとかほざいてる身の程知らずはぁ……」


 ゆらり、と壁から背を離し、橘は俺に一歩近づく。


「夢見ていいのはそれに見合う才能を持つ人間だけなんだよ。それなのに……知ったようなことを言って人を煽るヤツが……僕は二番目に嫌いだ」

「じゃあ、その才能のない俺とやりますか?」


 向き合った彼に俺は言った。


「あなたの才能は俺より上かもしれない。その俺でも、今のあなたを倒すことができたら――努力の価値を少しは認められますか?」

「……ふっ、ふふふふ……」


 唇を震わせ、橘右京は強張った笑みを浮かべる。


「言ってくれるじゃないか……いいよ、教えてやる。綺麗ごと信じてるヤツが、それを破られた時見るのがどういう光景なのか……」

「胸を借ります」


 一礼し、俺は上着を脱いでリングに上がる。

 下から忌々しそうに見上げる橘の顔に、もう笑みは浮かんでいなかった。

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