第十二章 奇襲するなら話す前に殴れ。にゃん☆


「――すみません。ちょっといいですか?」


 芸術学部棟二階にある205号室。二コンマ九十分の講義を終えて出てきた男子学生――橘右京を見とめて、俺は声をかけた。


「はい?」


 足を止め、橘右京は俺を見上げる。

 学部棟に入る時、一緒にいた女子学生は途中で別れて別の教室に行った。彼が講義を一人で受けているのを確認できたのは幸いだった。それでも面識のない上級生に話しかけるのは少し根性が必要だったが。


「何か?」


 橘右京は俺と俺の背後でそわそわしている矢木内を見てから、愛想のよい笑みを浮かべて言った。

 感じはいい。人に話しかけられるのに慣れているという対応だ。


「橘右京さん――ですよね。俺は文学部言語文化学科一年の蔵坂暁という者です。こっちは同じクラスの矢木内」


 微笑を湛えたまま、橘は俺の自己紹介を聞いている。矢木内は落ち着きなく、しきりに周囲を見回していた。

 彼の目を見て、俺は続ける。


「不躾で申し訳ありませんが、橘さんに聞きたいことがあって声をかけました」

「ふぅん……何かな?」

「天宮先輩――天宮さくらさんのことで」


 わずかに、橘は目を細めた。


「さくらちゃん、ね。君と彼女の関係は?」

「後輩です、高校の」


 少し考えるように視線を宙へ泳がせ、それから橘は俺に目を戻した。


「それはさくらちゃんにじゃなくて、僕に訊きたいこと――って意味でいいのかな?」


 落ち着いた様子で問う。表情には余裕が浮かぶ。


「はい」


 俺は無表情を保ったまま頷く。


「そっか。――いいよ、どうせ今日はこのあと空いてるし。ここじゃなんだから、場所替えようか」


 言って橘は返事を待たずに歩き出した。俺たちもあとを追う。


「何か……思ってたタイプとちげーな。もっとスカしたヤツかと思ったんだけどよぉ……」


 背後から矢木内が耳打ちしてくる。

 確かに、こう冷静に対応されるとは俺も意外だった。

 見ず知らずの後輩一年男子から話しかけられ――自分でも言うのも何だが――敵対心を隠してもいない相手だ。

 なのにこの男の仕草や表情に不意を突かれた動揺はない。腹が据わっているのか、気にすることでもないのか。


 ……これは思った以上に強敵かもしれない。


「アレだ……何か鈍器のようなもの持ってくるからさ……お前が注意引いているうちに俺が背後からさ……」


 矢木内の息が荒くなり、物騒なことを口走っている。お前テンパるとやらかすタイプか。

 右の肘で鳩尾を小突いて黙らせ、俺は橘右京の背を見つめる。

 何てことない、平凡な男のうしろ姿に見えた。


 ※


 芸術学部棟の裏は背の高いヒノキに囲まれた原っぱだった。表と違い人気はない。

 周囲には屋内のゴミを入れる銀色のダストボックス、棟と木々の間に少しのスペースがあるだけだ。

 橘右京はやや開かれたところまで歩みを進めると振り返り、俺たちと向き合った。


「それで、何を聞きたい?」


 世間話でもするように、橘は気さくに告げた。


「……橘さんは、天宮先輩とはいつ知り合ったんですか?」


 彼を見据えて、俺は低い声で訊く。


「うん? さくらちゃんとは去年新入生との交流レクレーションで一緒になってね。それから仲良くなって、いい付き合いをさせてもらってるよ」


 ……芸能人の交際かよ。


 いい付き合い、という単語に俺はピクリを眉を動かしてしまう。横では矢木内がハラハラした表情で俺と橘を交互に見ている。


「あの、学部棟で一緒にいた女性は彼女じゃないんですか? 腕組んでましたけど」

「そんなところ見てたのか。キミ、結構出歯亀かい?」

 

 今度は反応せず、俺は橘を見つめ続けた。唇を歪め、橘は少し笑う。


「怖いなぁ、睨まないでくれよ。――だとしたら?」

「天宮先輩に言います」


 淡々と、俺は答えた。


「僕はさくらちゃんとはいい付き合いをしてるって言っただけで、交際しているとは言ってないよね」


 言葉遊びを楽しむように、軽薄な口調で橘は嘯く。


「そうですか。じゃあ話しても問題ないですね」


 言い捨てた言葉に、橘は笑みを消し、唇を一文字で結んだ。俺は視線を外さない。


「……逆に聞きたいんだけどさぁ、キミは何の目的で僕に会いに来たんだ? 僕とさくらちゃんが付き合ってたとして、それで僕が他の娘と親しくして、キミに何の関係があるんだい?」


 淀みない口調で橘は言う。

 一理ある。天宮先輩と橘右京とあの女子学生。三人の間に痴情のもつれがあったとしても、それに俺が口を挟むのは余計な世話だ。橘が人でなしの女たらしだったとしても、断罪するのは天宮先輩かあの女性がやるのが筋だろう。

 ……だが、しかし。


「もし、あなたが天宮先輩を弄んでいるようなら男なら、俺はそれを見逃すわけにはいかないんです」


 俺は強く言い切った。

 言い訳はしない。認める。これは俺のエゴだ。


「なるほどね。要するに、キミはさくらちゃんに気があるわけか」

「そう単純なものでもないです。あの人は俺の目標なんだ」

「……目標、ね」


 肩をすくめ、橘はどこか懐かしむようにつぶやいた。


「せんぱーい。暁って、空手の段持ちで大会にも入賞しているケッコーな実力者なんですよぉ~。あんまり挑発するようなこと言わない方がいいですぜぇ~」


 一歩下がったところから矢木内が煽るようなセリフを吐く。お前は杉〇拳士か。


「――ああ。そういえば、さくらちゃんも空手やってたんだってね」


 言って橘はマッシュルームヘアのうしろに右手をやった。わざとらしい仕草だ。


「矢木内、黙ってろ。――俺は先輩を脅迫したいわけじゃないんです。ただ、もし天宮先輩に対して誠実な気持ちがないなら、彼女に近づいてほしくない」


 視線が交差し、緊張が走る。

 天宮先輩がこんな男に引っかかるとは思えない。俺が知っている彼女は人を見る目はある人だ。

 ……だが、この一年間俺と離れたところで彼女にどんな変化があったかは、まだ判然としていない。

 もし仮にコイツが天宮先輩を弄んでるのだとしたら、俺は……。


「やっぱり、彼女のこと好きなんだ?」


 挑発するように、橘は言った。


「そういう話じゃ……」

「だったらいいのがあるよ。――僕さぁ、抱いた娘を隠し撮りする趣味があるんだよね」


 一瞬、背筋をぞわりとした冷たいものが通り過ぎた。それはすぐに熱くなり、頭の方へ集約する。


「さくらちゃんも可愛かったよ。ぶりっこのクセにいじらしくて。でも、その気になったら向こうの方から――」


 思うより先に身体が動いていた。左足の踏み込み、放った右の上段回し蹴り――が、半歩後退。スェーバックで橘は苦もなくかわす。掠った前髪が数本宙に舞った。


「――速いじゃないか。でも、雑だ!」


 言うと同時、橘は前へ置いた俺の右脚内股にローキックを返す。


 ――重い! 


 思わぬ衝撃にバランスを崩す。膝から前へ倒れかけると、続けて放った橘の右掌底が俺の顎を打ち抜いた。


「――っ!」


 視界が揺れる。意識が飛びそうになるのを堪え、俺は背後に後ずさった。


「へぇ、フルコンは顔面殴打なしだろ? わりに頑丈じゃないか」


 軽口を叩き、橘は距離を保ったまま両腕を顎の高さに上げた。俺は左手を前へ突き出し、牽制しつつ向き合う。

 格闘技経験者、だ。ローを出した時の構えと右の掌底は顔面への攻撃もある競技……キックボクシングかムエタイか。

 橘は軽くステップを踏むと、二度のフェイントをかけ前へ出た。俺が左の横蹴りを放つと左手で捌き右に飛ぶ。

 再び右手の掌底。ガードを上げてそれを受けると、俺は右膝を――


「君ら、こんなトコで何やってんの?」


 不意に聞こえた怪訝な声。動きを止め、俺と橘が同時に顔を向けると、学部棟の裏口からゴミ袋を持った清掃員らしき人が出てきていた。

 不審な顔で、対峙する俺と橘に目を向ける。


「あーちょっと、スパーリングの練習を! 俺らキックボクシングのサークルやってまして!」


 慌てて矢木内が間に入った。適当な言い訳だがよく反応できたものだ。


「人気のあるトコだと迷惑だと思って。ね、二人とも!」

「そうだね」


 流れるように便乗する橘。表情には柔らかい笑みが浮かんでいる。


「こんなトコでやっちゃダメだよ~。危ないし、サークル活動なら体育館とか借りてやらないと」

「はい、すみません」


 すぐに頭を下げ謝ると、橘は清掃員の横を抜け、学部棟正面へ足を向ける。


「――じゃあ、僕はこのあと用事あるから。またね」


 言い残し、去って行った。

 橘がいなくなったあとで、俺は学部棟の壁にもたれかかる。


「あ……暁!」

「大丈夫だ……」


 痛みはないが顎に受けた衝撃が頭に残る。俺は目を瞑り、落ち着くのを待った。


「ほらぁ! こんなところで怪我でもしたら問題になるんだから、気をつけないとぉ~」

「やぁ~ハッスルしすぎちゃいましたかねぇ~!」


 取り繕う矢木内の声が聞こえる。迷惑と思っていたが、こいつが一緒にいてくれてよかった。

 ……しかし橘右京。読者モデルと言っていたが、あの動きは格闘技、それも打撃系の経験者だ。

 そんな相手が天宮先輩の彼氏かもしれないというのは、ただの偶然なのだろうか?


〝さくらちゃんも可愛かったよ。ぶりっこのクセにいじらしくて。でも、その気になったら向こうの方から――〟


 橘の卑猥な言葉が甦り、俺は頭を振ってそれを追い出す。

 今、考えるべきはそっちじゃない。何か見落としてる。確か数年前に――。


「……あ」


 目蓋を開けると棟の中へ戻っていく清掃員、それに頭を下げる矢木内の姿が目に映った。

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