第十章 相手に幻想を抱いて、勝手に幻滅するのは自己責任。にゃん☆


「――おはよー。あれ、今日は同伴?」


 翌日、土曜日の朝九時半。開店前のゆりし庵へ、俺は朝倉先輩に連れられて来ていた。

 カウンターの中で開店前の準備をするのは最初ここへ来た時にもいたメイド――〝しずは〟というネームプレートを付けた、黒のロングヘアーの気だるげな女性だ。


「いやいや代行、何言ってるんすか~。昨日話したさくにゃんの後輩くんですよ」


 推しであるVチューバーのバッジやストラップ、ぬいぐるみが山ほど盛られたリュックサックをカウンターに置くと、朝倉先輩は右手で俺の背中を叩いた。


「今日はさくにゃん午後からですし。ウチ早番だから、代行と会ってもらうにはちょうどいいと思って」

「どうも。――この間は、すみませんでした」


 俺が頭を下げると、しずはさんはひらひらと手を振った。


「こっちこそ~追い出しちゃってごめんねぇ。一応営業中で、他のお客さんもいたからさぁ」


 さばさばとした口調で言う。


「でも、さくにゃんの後輩ねぇ……あの娘、人望あったの?」

「自分から面倒を見るタイプではなかったですけど、ストイックだったので。俺以外にも慕っている道場生は結構いました」

「当時、空手界の女王だっけ。相当強かったんだってね」


 ……この人は知ってるのか。


 朝倉先輩が好奇心に満ちた目で俺としずはさんを交互に見ている。


「はい。圧倒的に」

「そんなんだったあの娘が、何で大学に来て空手を辞めて、地雷系に目覚めてメイド喫茶なんかで働いてるのか――」


 淡々と、書いてあることを読むようにしずはさんは言った。


「キミは、その理由が知りたいんだって?」


 俺は朝倉先輩にちらりと目を向けてから、頷く。


「そうです。――天宮先輩は、空手でやれることは全部やったからだって言ってました。だから進学を機会に、空手を辞めて今までやりたかったことをすることにしたって」


〝暁くんはキョーミないかもしれないけどね、わたしはさ、こういうカワイイ服着てカワイイ店で働くことも、してみたかったんだよね〟


 天宮先輩がそんなことを考えているなんて、俺は想像したこともなかった。

 彼女のことをいつも見ていた。彼女のことを、知っているつもりだった。

 でも、それは彼女が俺に見せていた部分だけで、俺の知らない天宮先輩の一面があっても不思議なことではないのだろう。

 しかし――


「天宮先輩が言ってなかっただけで、俺が知らないことがあるのはわかります。筋も通っているとは思う。だけど……何だか釈然としないんです。飄々としていたけど、あの人は人の本気を見抜く人だった。本気で約束したことを、わからない人じゃなかった」


 これも俺のエゴなのだろうか。信じていた人に裏切られたと思いたくないと。


「だから……今の天宮先輩が俺が知っていた天宮先輩でなかったとしても、納得できる理由を知りたいんです。本当に彼女が言っていることだけが理由なのか、それとも……何か別の理由があるのか」


 しずはさんは気だるげな表情のまま俺の話を聞いていた。ふぅむと頷き、それから朝倉先輩に顔を向ける。


「まみまみ、悪いけど開店準備しておいてくれる?」

「え……うっす、了解っす!」


 一瞬残念そうな顔をした朝倉先輩だが、敬礼して答える。


「えーと、名前……」

「蔵坂です。蔵坂暁」


 しずはさんは笑みを見せて、それから右手の人さし指で上を指した。


「屋上、行こっか。タバコ吸いたくなっちゃった」


 多少雲はあるが今日の空は晴れていた。三階建てのビルでそれほど高さもないが、安全用フェンスからは周囲の商店街を眺めるくらいはできる。


「吸う?」

「……いいえ」


 差し出したメンソールを断ると、フェンスに背を預けたしずはさんは一本くわえ、エプロンのポケットから取り出したジッポのライターで火を点けた。


「――先に言っちゃうとねぇ、わたしはさくにゃんが何で今みたいになりたかったのか、メイド喫茶で働こうと思ったのか、詳しいところは知らないんだ」


 肺に入れた煙をゆっくりと吐き出してから、しずはさんは言った。


「……そうですか」


 俺は肩を落とす。彼女の話には期待してただけに、失望感が重い。


「そう残念がらないでよ。面接やったのはわたしだったんだけどさ、あの時は人手不足だったし、さくにゃん器量もよさそうだったから即採用で、あんまり話し込まなかったの」


 苦笑して、しずはさんは付け加えた。


「まあ最初はいかにも体育会系な運動少女って感じで、何でうちの店選んだのかとは思ったけど。時給はフツーのカフェよりいいし、それにそういう外ヅラでもカワイイもの好きな子ってのはいるしね」

「志望動機、具体的に何か言ってなかったんですか?」

「えーとね……確か社会経験と生活費のため、だったかな。マジメでしょ?」


 真っ当な志望動機だがそれならメイド喫茶でもなくてもよかろう。俺の訝しげな目をよそに、しずはさんは美味そうにタバコを吸っている。


「始めたばっかりの頃はやたら通る声でオス! とか言うし、ぴっちりした敬語使うし、矯正するのにちょっと手間取ったけど、動きはテキパキして覚えも早いからすぐに馴染んだわ」


 まあ最初の頃の接客もある意味新鮮で、一部のご主人の受けはよかったけどね。と言って笑う。


「天宮先輩らしいです」

「キミの知ってるね。今のさくにゃんは高校時代の彼女を慕うキミにとって、予想外のキャラ変だったんでしょ?」


 フェンス越し、俺は地上の風景に視線を向けた。通りには出勤に向かうサラリーマンやOL、学生の姿が見える。


「……そうですね。あの人があんな変身願望を持っていたことは意外でした」


 つぶやくように言ってから、俺は諦めに似た気持ちが湧いてくるのを感じた。


 ……結局、そういうことなのだろうか。


 天宮先輩にとって、今の自分になることは胸に秘めてた強い望みだった。だから、俺との約束を反故にするのも仕方がないことだった。


 それなら……これ以上はもう……。


「……あ。でもさぁ、入ってからちょっとだけそんな話もしたかなぁ」


 視線をしずはさんに戻す。

 煙をくゆらせ、しずはさんはジッポと替えて取り出した携帯灰皿に灰を落としている。


「そんな話って?」

「地雷系とかに興味を持ったきっかけ、みたいな? あの娘、高校時代に見たトゥクトゥクで気になってる配信者がいて、その影響を受けたとか言ってた気がする」


 動画配信者。

 そういえば天宮先輩の彼氏? らしき人も動画配信をしていると言っていた。読者モデルで名前もそこそこ知られてるらしい。


「その人って、男ですか?」


 胸の内で高まるワサワサを抑えこみ、俺は努めて落ち着いた声で訊ねた。


「どうだったかなぁ~……わたし、あんまりライバーとかに詳しくなくて。でもけっこう有名な人だって。あれ、トーヨコ界隈では」

「トーヨコ……」


 天宮先輩が昨日その男と会っていたのもトーヨコだった。

 朝倉先輩が言っていた情報によると、天宮先輩と同じ芸術学部で三年生。名前は橘右京。


 ……どんな人なのだろうか。


「さくにゃんもたまに行ってるらしいね、トーヨコ」


 俺が考えていると、しずはさんがタバコをもみ消しながら言った。


「昨日、動画撮りに行ったって」

「うん。あの娘しっかりしてるし、腕っぷしも強いから大丈夫だとは思うけどさぁ~あんまり行儀のいいところじゃないから、少し気にかかってたんだ」 


 しずはさんは俺を見つめ、気怠い笑みを浮かべて目を細める。


「ま、でもキミみたいのが近くにいるなら大丈夫そうだね」

「……どういう意味ですか」


 俺の問いには答えず、しずはさんは携帯灰皿をエプロンのポケットにしまうと屋上の入り口へ歩いていった。

 ドアの前で俺を振り返り、


「そろそろ開店だわ。戻ろう」


 と言った。

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