第9話.引っ越しをする

 宿なしとなったガブリエラはワーケンダー伯爵家で一晩世話になり、翌朝エンバス領へ向かうことにした。

 出発前、『蒼き涙』を収めた革張りの箱が伯爵家自慢の金庫に鎮座していることを確認し、エンバス領の警備計画についてジェラルドの父ロッドから直接の説明を受けようかというときだった。


「僕の方から話しておくからいいよ」


 とジェラルドが押し切るものだから、ロッドにも使用人たちにも慌ただしい挨拶で別れを告げて馬車に乗り込むはめになった。まだまだ早朝と呼べる時間帯で数時間もあれば目的地に辿り着くというのに、だ。


「どうしてそんなに急かすんだ」


 走り出した馬車の中で正面に座る男に問い質す。


「いくら管理小屋というがわがあったとしても、一から新しい生活を始めるんだよ。やるべきことは山程あって、ゆっくりしている余裕なんてないよ」

「私の荷物は少ないはずだが」

「少ないから問題なんでしょう。騎士宿舎と違って探せば何か見つかるというわけじゃないんだから。必要なものは今日中にしっかり揃えるからね」


 睨みを利かせて言い切られる。怒られているようで腑に落ちない。


(でもジェラルドの弁も一理あるか。完全な一人暮らしは初めてだしな)


 貴族であった頃は当然家族や使用人がいたし、騎士になってからは個室を与えられたとは言え、宿舎で生活していたから常に誰かが建物の中にいた。

 見張り小屋や警らの兵が領内にいたとしても、管理小屋の中は一人きりになる。そして街へは徒歩でランゲ橋を渡って向かわなければならない。


(うん、しっかり備えておこう)


 幸い、騎士として勤めた間の給金はほとんど残してあるし、領地運用に向けた補助金が下りることも伯爵家の書物で学んできた。


「そうだ、ジェラルド。相談がある」

「何?」

「エンバス領の今後の運営だが、ひとまずあの畑を再生してみようと思うのだが」


 馬車の揺れに合わせるようにジェラルドの結われた髪がふらふらと踊っている。


「ちゃんと考えていたんだ? 偉いね」

「もういい。話は終わりだ」

「ごめんごめん、真面目に聞く。畑の活用は妥当だと思うよ」


 ガブリエラが視線を大きく外すと軽い口調で謝るが、その態度がまた腹立たしい。


「ほら、怒らないで。相談って?」

「……ワーケンダー領は馬の繁殖や育成に力を入れているそうだが、農産物の収穫量もそれなりに多いと書物で見た。どんなものを栽培しているのか知りたい」

「そうだな、馬の食餌しょくじに直結するものが多いかな。人間に限った嗜好品ではなく、野菜や果物で馬も人間も摂取出来るもの」

「なるほど、共存意識が高いのだな」

「気候や土質も影響していると思うけれどね」


 一旦言葉を切ったジェラルドは指で眼鏡の位置を修正すると再び口を開いた。


「まずは野菜を作ってみるのがいいと思う。果樹は実を付けるまでに年単位が必要だから、今は止めておこう」

「野菜か……色々試してみても構わないか?」

「もちろん。最初は自給自足だと思って収穫までが早いものや収量が多いものを無理のない範囲で育ててみたらいいんじゃない? 失敗して徒労に終わったらやる気も削がれるでしょう?」


 内心で真っ当な助言に感心していた。

 ガブリエラの足で百歩程の広さしかない荒畑だがいきなり全面を蘇らせるのは素人には厳しいものがある。


「今日のうちに種なり苗なりも準備しておこう」


 ジェラルドの提案に大きく頷いて同意した。



◇◆◇



 次第に高くなる太陽の下を馬車は軽快に走り続け、無事エンバス領付近へと戻り帰った。上手い具合に開閉ゲートの傍に停車し、二人を下車させる。

 御者が後部席から取り出したトランクケースをガブリエラが受け取ろうと手を伸ばすより先に、ジェラルドの腕が横から引ったくっていった。


「軽っ! 君の荷物、たったこれだけ?」


 目を剥いて驚くことだろうか。


「衣類くらいだな、入っているのは」

「それにしたって軽過ぎでしょう」


 没落前のものなど差し押さえられてしまったし、騎士になってからは現金を蓄えておかなければ不安だった。

 そんな気持ちを理解していなさそうなジェラルドは悩ましげに長い溜息を吐いている。しかしその手にトランクケースを持ったまま先行して歩くので、ガブリエラは有り難く手ぶらで後を追った。


(いよいよこの地で生活が始まるのだな……)


 風が運ぶ草と土の匂いを吸い込んで実感を深めていく。

 自然に囲まれた環境は嫌いじゃないし、ワーケンダー伯爵家の協力を仰げたことは僥倖だが、先の見えない生活は騎士を目指したとき以上に漠然としている。

 この地を再生することが王家やエメリア王女の喜びに繋がるのであれば。

 そうやって自分を奮い立たせるしかない。


「鍵を開けて、ガブリエラ」

「そうか、私の役目だったな」


 ジェラルドに請われてキーケースから鍵を取り出し、解錠する。身に付いていない習慣だった。


「まぁ僕も合鍵は持っているんだけど」

「な……聞いていないぞ」

「言ってないからね。万が一に備えてのことだから悪用はしないよ」

「されてたまるものか」


 数日ぶりに訪れた管理小屋は初めて見たときに比べると随分と明るく感じる。先日の清掃でマリアンヌが隅々まで磨いてくれたお陰だ。


「これ、寝室に運ぶよ」

「あぁ、ありがとう」


 トランクケースをぷらぷらと揺らすジェラルドに続いて寝室に入ったことで窓の外の景色に気付いた。


「薪が……」

「うん、補充しておいた。あれだけあれば当面は持つでしょう?」

「あれだけって、薪小屋に満杯じゃないか」

「ランプ用のオイルもどこかに届いているはず。この寝台のマットは予約してあるから、後で受け取りに行こう」


 生活の基礎のことごとくをジェラルドに手配されている。その抜かりのなさに感謝する気持ちと自分では気付けなかったかもしれないと悔しく思う気持ち、面倒を掛けっぱなしで申し訳ない気持ちが複雑に入り混じっていく。


「その変な顔は何?」

「いや、ジェラルドにほぼ任せっきりだな、と……」

「相談役ってそういうものでしょう?」


 眼鏡の奥の瞳が緩く細められる。鋭い目だけれど、おそらく笑っている。

 変な顔と称された自分の顔はどんな表情を浮かべていたのだろうか。


(いや、変な顔って何だ。失礼な)


「ここに置いておくから早く仕舞いなよ」


 ガブリエラの機嫌が斜めに向いたことを悟ったのか、そうでないのか。トランクケースを寝台の木組みに置いたジェラルドはすんなりと退室していった。

 仕舞うと言っても大した作業ではない。気遣いの必要なドレスや装飾品があるならともかく、トランクに詰まっているのは扱いの簡単な服ばかりだ。何なら小屋の掃除用にとジェラルドが準備してくれたブラウスと乗馬パンツが一番の高級品ではないだろうか。

 クローゼットのハンガーに衣類を吊るし、備え付けの棚に下着類を並べる。数少ない靴を床に置いたら粗方の作業は終了だ。


「これは……このままでいいか」


 トランクケースに残ったのはガブリエラの体型に合わせて誂えてある数着の騎士服。季節に合わせて生地が異なっていたり、式典用に装飾が施されていたり、それぞれに工夫の凝らされているそれらを長年着用してきた。

 しばしの休憩だ。そんな気持ちで生地をひと撫でしてケースの蓋を閉じる。クローゼットの片隅にトランクケースそのものを追いやって扉を閉めた。


「人が住むには色々と足りないね」


 寝室から居間に戻ったガブリエラに向けられたのはジェラルドのそんな一言。


「それはそうだろう。誰も使っていなかったようだし」

「近年手入れのために出入りしていた者たちはそうだろうけどね。でもエンバス王太子の領地下でここを使用していなかったとは言い切れないよ」

「そうかな。おそらく使われていなかったと思うが」

「どうして?」


 胡乱な目つきで見つめられる。どうしてこちらが怪しまれなければならないのか。


「王太子がここに誰かを住まわせていたのなら、その者があの畑なり何なりを運営出来たのではないかと思っている。しかし二ヶ月で見限られてしまった事実と照らし合わせるとそんな存在はなさそうだ。だったらここは」

「前提がおかしいよ、ガブリエラ」


 行儀悪くソファの肘掛けに座ったジェラルドの声がガブリエラの言葉を遮った。窓から差し込む光に眼鏡のレンズがきらりと反射した。


「エンバス王太子本人がこの小屋を利用したという可能性が排除されている」

「ここで王太子が寝泊まりを? さすがに考えにくいのではないか」

「何も宿泊しなくても荷物を置いておくだとか一息入れるだとか、それくらいの活用法は見出だせたんじゃないかな」

「確かに……畑を耕すだけ耕して王城にとんぼ返りという方が不自然か?」


 自身に置き換えて想像してみた。

 騎士宿舎に寝泊まりしながらここまで足を運んで畑の手入れをし、そしてまた王都に帰る。それを日々続けるとなるとなかなか過酷だ。一時いっときでも休める小屋があるなら利用しているだろう。


「王城との行き来が面倒で二ヶ月しか持たなかったのだろうか」


 思わず腕組みをして考え込んでしまう。

 二ヶ月で放置などという王家の期待を裏切るような真似をガブリエラはしたくない。王太子の轍を踏まないように失敗の懸念は取り去っておくべきだ。


「自ら領地を望んでおきながらそれは浅慮が過ぎるよ。だったらここでの寝泊まりが苦痛になった、という方が余程納得出来るね」

「ジェラルドは王太子が管理小屋ここを利用していたのは絶対だと?」

「おそらくね」


 天井の隅を見上げてジェラルドは呟いた。


「ランプがね、ないんだよ」

「え?」

「この小屋にはひとつもランプがないんだ」

「言われてみれば……」


 初めて視察に訪れたときも掃除をするために再訪したときもランプを見た記憶はない。室内の明かりは窓から取り入れた自然光で賄っていた。

 今ぐるりと視線を巡らせてみても、それらしいものは見当たらない。このままでは夜には真っ暗闇に包まれてしまう。


「吊りランプですら見当たらないんだよね。二ヶ月で領地を放り出すにしても欠かせないものだろうに」

「それこそがこの小屋が使われていなかった証左となるのでは?」

「ワーケンダーの記録では、この地を王太子に献上するにあたって建物に造り付けられたもの以外は全て撤去したとある。つまり目に見える家具はエンバス王太子が運び込ませたもの。ランプだけ用意しない意味はあるのかな」

「……何が言いたいんだ?」

「痕跡が消されているんじゃないかな、って」


 うーん、と首を傾げる。

 彼の言うことはそれらしくもあるし、だが痕跡を消すことに何の意味があるのかとも疑問に感じる。


「ソファやテーブルセットは? 目立つこれらは残したままじゃないか」

「僕は逆の考え。目立つものが残っているのに目立たないものが消えている」

「高級品だったから引き上げた、とか」

「仮にそうだとして、高級品を使用するのはどんな身分の人だろうね?」


(何が何でも王太子がここを利用した、と主張したいのか)


「つまり? 導きたい結論は何だ?」


 ガブリエラとしては王太子がこの小屋に訪れていようといまいと関係ない。

 いや、自慢は出来るか。


「つまりね、ランプもたくさん買わなきゃいけないよねってこと」


 オイルだけあってもね、と指差す窓の外には居並ぶ瓶詰めのオイル。

 つまらない回答に脱力しかけたガブリエラだけど、頭の中の買い物メモにランプを追加しておいた。

 ジェラルドが吊るすべきランプがない侘しい吊り具を見つめていることにも気付かずに。

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