第6話.窓を磨く

 寝室の壁面を清掃し終えたガブリエラは再び居間に作業の場を移した。

 キッチンに備え付けられた戸棚の天板や棚板、木製のテーブルセット、ソファの背もたれや座面などにも羽根箒を走らせて埃を落として回る。

 先日訪れた際、これらを見たジェラルドは手入れがされているようだと言っていた。確かに長年放置されていたにしては汚れは酷くないように思える。だからと言って積極的に使用されていたわけでもなさそうで、あくまで現状維持に留めていたようだ。


(こちらが浴室か?)


 家具を一通り掃除したガブリエラはまだ開いていない、もう一枚の扉のノブに手をかけた。このノブも玄関と同様に真新しいものに交換されている。軋み音ひとつ立てずに開いた扉の向こうは予想通りの浴室だったが、その様式はガブリエラが思っていたよりもずっと立派だった。


「これはまた随分と贅沢な……」


 そんな呟きが反響する少し広めの浴室は床一面に艶出しタイルが敷き詰められており、そこからにょきりと突き出している汲み上げポンプによってこの場で水が汲めるようになっていた。その奥には積み上げられたレンガですっぽりと覆われた風呂釜が鎮座している。ガブリエラが収まってもまだ余裕がありそうな大きさだ。


(こんな浴槽が毎日使えるのか!)


 途端に気分が高揚する。騎士宿舎では長風呂などしている余裕はなかったが、かつてのガブリエラは浴槽でゆったりした時間を過ごすのが大好きだったのだ。

 ちゃんとかまど風呂が機能するのかを今すぐにでも確認したくなって、いそいそと小屋の外に出る。敷き詰められた砂利を踏んで裏手に回ると、先程マリアンヌが立っていた薪小屋が確認出来た。


(ここから薪を運んでかまどに……)


 そんな動線を視線で描いて浴室のある方向に目をやれば、煤けたレンガのかまどはちゃんと体をなしていた。間近に寄って覗き込んでも崩れたり穴が空いている様子はない。これならば問題なく入浴が出来そうだと思うと、まだ先行きのわからない新生活に希望を見出だせた気がした。

 そんな折り、キコキコと甲高い音が聞こえてくる。今来た道とは逆方向から響く音につられ、角からひょいと覗き込んで見ると。


「あら。ガブリエラお嬢様もお外にいらっしゃいましたか」


 そこには汲み上げポンプのハンドルを上下に漕ぐマリアンヌがいた。足元には木桶が用意されており、じきにちょろちょろと流れ出した水が溜まり始めていく。


「こちらにもポンプがあったのですね。浴室で見掛けて驚いたばかりでしたが」

「えぇ、どちらも同じ地下水を汲み上げていると伺っております。浴室はいかがでございましたか?」

「予想外の広さでした。一人で暮らすにしてはもったいないくらいで」


 ふふ、とマリアンヌが頬を緩める。


「かつては馬の放牧を見守る管理人が寝泊まりしていたそうです。馬の世話には汚れ物が付き物ですが冬場に外で洗濯をするのは大変でございますから、ワーケンダーには浴室を広く作り変えているお屋敷が多いのです」


 なるほど、と声に出して感心してしまう。

 風呂を沸かしてしまえば温かいお湯で洗濯を済ませて、そのまま入浴出来る仕組みだ。今は空っぽの浴室だが、洗濯物や石鹸を置く棚を用意すれば一層使い勝手が良くなるに違いない。


「では、わたくしは窓の清掃に取り掛かりますね」

「お手伝いいたします」


 十分に水が張った木桶を怪我をしていない方の手で持ち上げた。ジェラルドに掃除くらい出来ると言い張ったわりに大したことはしていないので、些細なことでも手伝っておきたい。そんなガブリエラをにこにこと見つめるマリアンヌと共に再び小屋の中に戻った。


「わたくしが汚れを拭っていきますから、こちらの乾いた布巾で仕上げ磨きをお願いいたします」


 例の鞄から取り出した布巾を手渡され、そう指示を受けた。雑巾を絞るくらいなら怪我にさほど影響はなさそうなものだが、それでもマリアンヌは片手で行える作業を回してくれるので有り難いやら申し訳ないやらだ。

 彼女の方がずっと慣れているのだから仕事の出来上がりを見れば任せるが賢明なのは理解していても、こうもあれこれと世話を焼かれることは今のガブリエラには分不相応に感じられた。


「あら、ガブリエラお嬢様は仕上げ磨きがお上手でございますね」

「ありがとうございます。あの、マリアンヌさん」


 並んで作業するマリアンヌが上背のあるガブリエラをくりくりの曇りない瞳で見上げた。


「その『お嬢様』というのはやめていただけると嬉しいのですが……」

「あら、お気に召しませんでしたか?」

「いえ、私には不釣り合いと言いますか、一介の騎士に過ぎず、そう呼ばれる身分ではありませんので」


 その騎士職も数日後には休職してしまうけれど、今はそこが焦点ではない。


「ジェラルド坊っちゃんと同級生でいらしたとお伺いしております」

「そう、ですね。でも、そう長い期間ではないのですよ。私が途中で騎士学校に転入してしまいましたので」


 同じ学舎で過ごし、同じ授業を受けたことはあっても、肩を並べて卒業したわけではない。彼やかつての学友のことはちゃんと覚えているけれど、同級生と呼べるほど近しい関係ではないと思っている。


「そうですねぇ……」


 マリアンヌが小首を傾げて考える素振りを見せた後、うんと頷いて言葉を続けた。


「ですが、ガブリエラお嬢様はこの地の領主様でいらっしゃいますから。それとも『ご領主様』とお呼びした方がよろしいですか?」


 ぐっと喉が詰まる。そんな呼ばれ方はご勘弁願いたい。

 ブンブンと首を振って抵抗してみせるとマリアンヌは満足げに微笑んだ。


「でしたらガブリエラお嬢様でございますね」

「う……選択肢はふたつしかないのでしょうか」

「誠意を持ってお仕えせよ、と坊っちゃんの言い付けでございますから」

「そんな大袈裟な」


 たった一日の手伝いに誠意だのお仕えだの、お坊ちゃんの考えることは理解し難い。そう、彼ならお坊ちゃんと呼ばれるに相応しい身柄なのだけれど。

 作業に戻ったマリアンヌの素早い仕事っぷりに負けじと無心で手を動かしているうちに、懐かしい記憶が脳裏を巡り始めた。

 長くはない、同級生時代の記憶が。


 青がかった銀髪は今よりも短く、結えるほどには伸びていなかった。読書をしていることが多かった彼の顔は枝垂れる髪に見え隠れしていたように思う。

 歳を重ねても飄々とした態度と口ぶりは変わっていない。いや、昔よりも今の方が言葉数は多いだろうか。

 物怖じすることなく真っ直ぐに人を捉える鉛色の双眸は鋭くて……鋭く?


 ん?と内心で首を傾げた。蘇った記憶にどこか違和感がある。

 その違和感が何なのかを突き止めようと意識を働かせたところで、隣のマリアンヌが最後のガラスを拭い終えたので仕上げ磨きに集中する。気付けば屋外からの清掃になっていた。


「ガブリエラお嬢様のお陰で早うございました」


 朗らかに笑うマリアンヌと共に再度屋内に戻れば、ガラス窓を通して見る風景が鮮明に塗り替えられていた。差し込む陽光が一層眩しく感じられる。


「この景色を見ることが出来て嬉しゅうございます」


 窓から見えるのは立ち並ぶ中木とその隙間から漏れ見える荒れた畑と草原。


「何か特別なものでもありますか?」

「いえ、見えているのはエンバス領と呼ばれる土地でガブリエラお嬢様の瞳に映る景色と違いはございません。ですが、長らくワーケンダー伯爵家の手を離れていたものですから、この地を直に見ることが出来ずにいた者も多くおりました」


 この管理小屋に寝泊まりしていた者もいたくらいだ。明け渡された愛着のある場所が長年に渡って放っておかれたなら複雑な思いを抱かずにはいられなかったのだろう。


「ではワーケンダー領民に向けて開放するというのもひとつの手ですね」

「あら! それは素敵なお話です。ガブリエラお嬢様のご領主としての活躍を拝見出来るのは幸せなことですわ」

「う……」


 痛いところを突かれてしまった。

 そうだ、あの荒畑をそのまま見せるわけにはいかないのだ。まずは最低限の体裁を整えるところから始めなくてはならない。

 お掃除を続けますね、とマリアンヌが草箒を取り出したのでガブリエラは木桶と雑巾を持って外のポンプに向かうことにした。

 汚水を流して新たに水を張り、雑巾の汚れを洗い落とす。騎士宿舎では共用の手洗いや風呂に行かなければ自由に水は使えなかったので、屋外と屋内それぞれに汲み上げポンプがあるのは非常に便利だ。指先を刺激する水の冷たさが心地良い。


「首尾はどう?」


 屈んで木桶に向かうガブリエラをぬっと黒い影が覆ってきた。

 肩越しに仰ぎ見ると背後に立つ銀髪を陽に透かした男がこちらを覗き込んでいる。


「あ、眼鏡」

「眼鏡って呼ばないで」


 唇を歪めるジェラルドに弁明するために濡れた雑巾を持ったまま立ち上がった。ぼたぼたと落ちる水滴が砂利の間に吸い込まれていく。


「いや、今のは悪口ではなくて。先程学生時代のことを思い出したんだ」

「……へぇ、どんな?」

「ジェラルドの髪が短かったなとか、よく読書をしていたなとか、そんな記憶が思い浮かんだのだが」

「……だが、なに?」


 何かを探るような窺うような、そんな目つきでガブリエラの言葉の続きを待っている。


「浮かぶ君の姿にどこか違和感があって、その理由が思い当たらなかった。でも今、ジェラルドの顔を見てわかった。当時のジェラルドは眼鏡を掛けていなかったんだな」


 そうだそうだそうだった、とガブリエラがすっきりする一方で当の本人は唇どころか眉根まで歪めてしまっている。しまいにはガブリエラの手から雑巾を引ったくって、その場でぎゅっと絞り出した。


「全く素晴らしい記憶力をお持ちのようだね、君は」


 残った水滴を乱雑に払って、クタクタの雑巾を木桶にボンと放り込む。


「胡散臭い丸眼鏡で悪かったね」

「そこまで言ってないだろう」


 少なくとも今は。

 何が気に障ったのかは知らないが、会って早々に険悪な雰囲気は止めて欲しい。


「今日来るとは聞いていなかったが」

「ああ。その予定はなかったんだけど、まぁ早い方がいいかなと思って」


 王城内で見掛けるような整った衣服を纏っているので本当に予定はなかったのだろう。よくもこの格好であの青草の道を歩いてきたものだ、と感心してしまう。


「水質検査の結果報告が届いたんだ。その水、口にしても大丈夫だから安心して」


 ジェラルドが小首を傾げるようにしてガブリエラの後ろにある汲み上げポンプを目で指した。


「それを知らせるためにわざわざ?」

「街から飲み水を運ぶだけでも精一杯でしょう、ここは」

「それもそうか。ありがとう、検査の手続きも報告参りも」

「どういたしまして。浴室にもポンプがあるのは見た?」

「あぁ。同じ地下水を汲み上げているとマリアンヌさんにお聞きした」

「うん。調理や飲み水に使うのはあちらで汲めばいいよ。夜間でも外に出ずに済むから」


(そうか、安全面でも理に適っているのだな)


 交換された真新しい鍵だけではなく、浴室に設置された汲み上げポンプもガブリエラの身を守る一役を担っているらしい。自分自身でも思い付かない不安要素を彼がひとつずつ潰してくれているのだ。


「それはそうと……」


 丸眼鏡の奥に光る瞳がガブリエラの頭からつま先までを滑るように動いた。


「マリアンヌに託しておいて良かった。ちゃんと僕の意見を聞き入れてくれているようだね、『ご領主様』は」

「その呼び方の出処でどころはジェラルドか!」


 大袈裟過ぎて馬鹿にされているとしか思えない呼称はこのお坊ちゃんの口から出たものらしい。


「ははっ、似合ってるよ」


 むきになるガブリエラをからかうように崩した相好で笑い声を上げている。


(見直して損した!)


 彼の相談役としての働きにきちんと感謝を伝えようと思っていたはずなのに、掴みどころのないこの男は機嫌さえもころころと変えて、最終的にはこの有り様で。

 乗せられてしまう自分自身も良くないのだが、やっぱり心の中で悪態をついてしまうのだった。

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