第12話

 ゴン、ゴン、ゴン、鈍く低い音を立てて、海面を船が走る。海底から見上げる入居者たちには、竜骨がザバザバと白い泡を立てながら、進んでいくのがはっきりと見えた。

「船」

 注視し、誰ともなく呟く。

 船はアパートの上を通り過ぎていった。泡立つ海面付近を観劇舞台に、墨の女性などははしゃいで、人形も日中には珍しく目を開けて観覧した。住民の上を通った船は、しばらく離れると、何かを海中に落とした。それも、神社で縄を巻かれる神木のような長さ、太さのある物体だ。


 ドウ、と飛び込んできたのは、どうやら巨大な金属らしい。入居者たちは、あれあれ、何か落としたと、はじめのうちこそのんびり構えていたが、海水に煽られてそれが迫ってくるにつれ、慌てはじめた。

「何が来るの?」

 タローとジローはベッドの下から、いつもの丸い声で聞いた。

「分からない、たぶん、金属かな」

 爪の女はここではじめて、水圧で流される心配をした。

「私、飛ばされちゃうかも」

 小声で言ったが、その先は考えないようにした。暗い深海に落ちる不安と差向う勇気はない。


 海中の重力は地上よりも和らげられるが、そんなことはおかまいなしに、泡を出しながら、どんどん沈んでこちらにやってくる。ぶつかりはしないと見えたが、アパートの住人達は、隕石でも眺めるようで落ち着かない。

「あれ、すごく近くに落ちるんだと思う」

 墨の女性がつぶやいた。珍しく、はっきりした口ぶりだった。

「こっちに来ないなら、どうでもいいのよ」

 人形は日中に珍しく、しっかり目を開けて、強がった。


 神木のような姿の金属は、墨の女性の予想通り、アパートの近くに落ちた。斜めに刺さるように海底に着地して、浮いていたもう片方もドシンと海底を叩く。ビルの鉄骨に匹敵するその重量のため、ありとあらゆるものが急な運動を強いられた。泡や砂、礫は、アパートの最上階を超えて海面近くまで達しただけでなく、横方向にも放散され、災害となってこちらめがけてやってくる。

「大変」

 のんびりした調子で、墨の女性が言った。言いながら闇の帯になって、人形と爪の女を包んだ。

「ぎゃっ!」

 人形が潰されたように叫んだ。爪の女はびっくりしたが、何も言わなかった。


 海水同士のぶつかる音、気泡の音がする。深い霧に包まれたように、何も見えない。バキン、ゴチン、四方八方で色んなものがぶつかっている。

「もう嫌だ!」

 人形が泣き叫ぶ。もうもうとする視界に耐えるタローとジローをはじめ、他の住民は声もあげない。


 爪の女は、墨の女性がとっさにかばってくれたおかげで、視界が真っ暗闇になっただけだった。同居人に抱かれているから自分は安全だけれども、声のしないタローとジローのことを心配した。どこかへ飛ばされていやしないかと思ったのだった。

 人形のわめき声は近い。自分は墨の女性に守られている。まだアパートにいるようだ、と爪の女は見て取った。


 やがて土砂は沈んでいく。海がその透明さを取り戻すのを、住民たちは気長に待つほかない。墨の女性はするりと、爪の女と人形を離れた。人形は身に降りかかった災厄に疲れたのか、何も言わない。

 爪の女は墨の女性の努力の甲斐あって、壁の上にいた。

「ありがとう。どこかに飛ばされちゃうと思って、怖かった」

 涙もこぼせないが、この不思議な存在に感謝した。それは、人形に対しての仕打ちをおそろしいと思ったことさえ申し訳なくなるほどだ。生前、ストーカーにつきまとわれたとき、撃退してくれた知り合いに抱いた敬意よりもずっと深い。


「あら、タローちゃん、ジローちゃん」

 墨の女性が言った。珍しく、少し早口だ。

「ゲージ、開いてるじゃないの」

「えっ」

「えっ」

 ゲージを守っていたベッドは、折りたたまれた橋のように真ん中が持ちあがり、三角に飛び上がっていた。その下にあったタローとジローのゲージは、柵が折れたり、曲がったりで、見る影もなく壊れている。

 二つの隣り合ったゲージから、むくりと、犬と猫が頭をもたげた。

「本当だ」

 タローは、ぴょんと飛び出した。白に茶色のぶちのある、すねほどの背の犬である。

「わあ」

 ジローも、ぴょんと飛び出した。キジトラの模様の美しい、短毛の猫である。

「わあ、すごい、すごい」

「これ、全部、見てみていいよね」

 部屋の中には、石や丸太などの自然物の他、セメントの壁が高く残っている。ジローはそこへ飛び乗ると、不思議そうに足踏みしながら爪の女のそばへやってきて、ふんふんとにおいを嗅ぐのだった。猫の鼻息に吹き飛ばされやしないか、女は小さい悲鳴をあげた。

「高い。小さい頃に遊んだ、あのキャットタワーよりも高い!」

 タローは、真ん中の部屋にうず高く積もった瓦礫を上りながら、方々の穴に顔を突っ込んでは、においを嗅ぎながら叫んだ。

「ああ、これ、たぶん、すごく珍しいやつだと思う!」


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