第11話
猫のジローが、味わうように唸った。
「おばあちゃんはいいなあ、むこうの部屋にも行けて」
「あら、ジローちゃんも、いつか行けますよ」
「おばあちゃんは、遠くに行けるのね」
口をきいた爪の女に安心して、墨の女性は向き直って話しはじめた。
「そうねえ、あまり遠くに行くつもりもないのだけれど。ふふ」
そして上品に笑っている。
「ここがね、いいのよ。タローちゃんも、ジローちゃんも、お人形ちゃんもいるわ。あなたもここにいたらいいのよ。ねえ」
「ありがとう。」
爪の女は、それを聞いて素直に嬉しい思いがした。人形が自分を嫌って、どうかして海の底へ落とされないかと心配はしていたが、気持ちが落ち着いた人形はもう元気を失って、すっかり閉口したまま一切の反対もない。
あとは、このおばあちゃんが、本当にやさしい人ならいいんだけど、と爪の女は考えた。
はじめは温和そうでも関係が深まると当たりが強くなる人だったら、やがて、ここにいることを許してもらえなくなるかもしれない。自分の一言が何か気に障って、それで怒りを買ってしまったらとも心配になった。
人形を「なでた」ところを見てから、墨の女性に何か強いものを感じて、それが自分に向かってくると考えると、たまらなかった。
しかし、もう、爪の女に行く先はない。
このアパートから追い出されたら、もう海藻にすがって流れていくことも出来ないし、きっとただ落ちて、満月の明るい光も届かない海の底へ沈んでいくのみだろう。楽観な気質を備えた女だったが、このときばかりは生前のいつよりも、不安定な状況を自覚していた。
「私、ここに住みたいわ。よろしくお願いします」
爪の女はその赤い塗料を光らせつつ、しおらしくした。沈黙する人形以外の住民が賛成し、彼女は海底アパートに入居した。
月明かりに代わって、さらに明るくあたたかい光のベールがこちらへやってくる。海底アパートももれなく祝福の中に呑まれ、回遊魚は天使のように頭上をいく。
爪の女は相変わらず壁の上にいた。アパートでは海藻が揺れ動く程度で、女の軽い爪一剥ぎ運ぶことはしない。様々な生物たちがそばを通るが、誰も入居しようとしない。人工物の建物だけを残して、景色が移ろう。
「ここだけ、時間が止まってるみたい」
高い場所から、目の届く範囲をぐるりと見渡して、爪の女が小さく感嘆した。他の住民たちは各々の住処に潜っていて、返事はなかった。
タローとジローは檻がまだ丈夫であると知ると、小さいため息をつく。墨の女性は部屋の隅の、卒塔婆のような海藻のむこうに隠れて、時々出てきては微笑んでいる。人形は明け方、朝日の幕がこちらへ走り寄ってくるのを感じて目を瞑り、諦めて夜を待つ。爪の女はひたすらに魚と海面を見上げて寝そべるままだ。
大好きだった美を纏うことには、もうここでは触れられない。魚の鱗は煌めくが、それを自分に飾ることはできない。景色が綺麗だと、恵みをしみじみ実感する。からだを失ってから神経の擦り切れるような思いからは遠ざかっていたが、今日という日はこれまでになく、穏やかに凪いだ気持ちだ。
着飾ることが好きだったのは、それによって女自身が嬉しくなるからだった。賞賛はもちろん欲しかったが、それは絶対に必要なものではない。なにより楽しいことは、爪を磨き、髪の手入れをし、鏡の前で得られる、この美しい造形は自分が作ったのだ、そして自分なのだという実感だ。
女は生まれてこの方、その実感を得るために憑りつかれていたようなもので、それなしの生活など夢にも思ったことがなかった。無人島に漂着するとしたら、スキンケア用品と日焼け止めくらいは持っていきたいと答える人物だった。
「あなた、綺麗な爪ね。おしゃれさんだったわね」
墨の女性が立ち上り、赤い爪のそばに寄ってきて、そう言った。困ったようにもとれる笑顔、肩ほどのパーマがかった髪、そして現代では見かけなくなったシルエットの服、そばに来ても、それ以上のことが読み取れない。黒の細かな粒が女性の姿を形作りながら、絶えず動いていて、その一点一点が生き物のようだ。
「楽しみなことができなくなって、それに興味もなくなるなんて、思ってもみなかった」
「暮らしやすいでしょう、ここは」
やっぱり、どことなく噛み合わない会話である。
爪の女は、墨の女性の言うところの「なでてあげる」を目撃してから、嫌われないように努めることを胸に留めていた。あれからしばらく経ったが、幸い、人形が悲鳴を漏らすような出来事は起きていない。墨の女性はこうして時折出てきては、のんびりと穏やかなままである。爪の女の心がけは、そう神経質に張り巡らせる必要がなくなっていた。
「おばあちゃんは、いつからここにいるの?」
そう尋ねると、何を聞かれているのか分からないという風で、笑顔はゆらゆらと濃淡を繰り返す。話したくないのか、覚えていないのか、爪の女も自分の名前を忘れてしまって、歴史の全てを開け放せていない。
時間が流れる世界では、自らに起きたことを一つも漏らさず語るというのは無理がある。話しているそばから新しいことが起きるからだ。しかし今なら、過去のことをどれだけたくさん話しても、やはり海中のまま、何も進まない。魚は泳いでいくが、ここには留まらない。海藻は育っているのだろうが、劇的な変化はない。
このアパートの住民は、話したいが思い出せない者、そもそも話したくない者、心境それぞれ、目を開けるか閉じるかして、ただ沈んでいるのだ。これが幸せか、苦痛かさえ、入居者によって違っている。
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