第10話
人形は倒れた本棚の上にじっと横たわって、苔を全身に被りながら海面を睨んでいる。苔の胞子は、なぜだか人形の表面に根をおろすことを選んだ。人形はかつて人間の辛苦を味わい楽しんでいたが、今は胞子を振り払って身ぎれいにする力もない。そのうちに苔が茎や葉を伸ばし、姿かたちは完全に覆われてしまった。
「私はここで、月だか太陽だかの光を睨んで過ごさなきゃならないんだわ」
目を閉じれば何も見えなくなる。人形にはそれが癪である。しかし目を開けて、海藻の向こうから射す光をどれだけ呪ってみたところで、相手は偉大な太陽である。海の底の人形など及びもつかない。
爪の女が、赤い塗料をキラキラさせながら言った。
「お人形さんに、アイディアはないの?」
「アイディア?」
「こうなったらいいなと思うこと、ないの?」
女はやさしく繰り返した。ないかもしれない、でもきっと何かあるはず、タローとジローが二頭いっしょになりたいと願っているように、人形にも、何かアイディアがあるかもしれないと思ったのだった。
「アイディアなんか、ないわ。人間どものいる場所へ戻りたいだけ」
「それがアイディアなんだわ!」
墨の女性が、わっと濃く笑顔をにじませて嬉しそうにした。目鼻立ちが大作りで、しっかりした顎を持っていた。
「あんた、それが叶うと思ってんの?」
きっとなって言う人形は、瞬間に怒ったような感じである。しかし返ってきたのは、のれんに腕押しというか、ふわふわしたところのあることばだった。
「ええ、ええ。大丈夫ですよ」
人形はこれに激怒した。
「大丈夫って何よ? ちゃんと話聞いてんの? もしもーし、ここがどこだか分かってますか? この――」
人形の声が高く不快なわめき声になりはじめたところだった。墨の女性が、笑顔そのままにサッと一筋の帯になり、真ん中の部屋を横切っていく。一瞬の出来事である。柔和に見えた女性は、人形の纏う黒よりも深い闇の束になって、蜂の大群のように、わっと人形に飛びついた。
「やめなさいよ! やめなさいったら!」
わめきは悲鳴になっていた。爪の女はひどく狼狽した。自分など、とてもこの騒ぎに介入できない。
人形に絡みついた黒は濃く、叫び散らす声を聞いているはずなのに、一切の容赦がない。黒々と取り巻いて、無数の蛇がうねうねと這っているようだ。壁の上から、爪の女はおそろしい光景を目撃していた。
「わああ! わああ!」
「お、おばあちゃん、やりすぎだよ!」
タローとジローが、鼻を鳴らしながら止めた。
すると墨の女性は、またタローとジローの部屋を一本の帯になり飛び越え、自室へ戻ると、何事もなかったかのように、ニコニコとやさしい笑みをたたえるのだった。
「もう嫌だ、もう嫌だ」
人形は声で泣いていた。
「なんでこんなことになるのよ。もう嫌だ、ここから出ていきたい。」
墨の女性が、少し口を開けた。やりすぎちゃった、とでも言っているかのようだ。真っ黒の舌は黒い蛇がうねっているようだと、爪の女は震える思いがした。
自らを邪悪だと自負していた人形は、海の底へきてはじめて、こうして酷い目に遭うようになったのだった。墨の女性がぐりぐりと自分を擦るのが、この人形には苦痛極まりない。感覚はなくても、首を絞められるように、体内から腹を破られるように、気持ちが悪い。
威勢は良いが苔むして、元々あった邪悪さも洗われて、残っているのが気質のうるささだけになったのは、この同居人の功績といえばそうである。
「ふふ。お人形ちゃんが怒るとね、こうやって撫でてあげるの」
墨の女性は恥ずかしそうに、得意そうに言う。爪の女は、何か悪いものを見た気がして、目を逸らしたくなった。
かつて人形が情熱を傾けていたことがある。それは、重たく息の詰まる気を家に呼び、溜めることだった。そのせいで窒息し、のたうつ家人を見ることだった。鬱積する家屋に緊張した人間の、筋肉が凝り、固まり、疲労が抜けにくくなって苦しむ様子を見ては、笑っていた。
居づらさの感覚が鋭敏な人間から、その家から遠ざかっていく。家を守ろうと頑固に居残る者は、続けて、息が吸えない環境に置かれて体をよじるのだ。
人形はその我慢強い人間を標的に、ますます力を込めていじめぬいた。そうして誰もいなくなった家から、まさか自身も出されることになることを、人形は予期していなかった。
家人の崩壊を見る娯楽を、人形は別の場所や、新しくその家に住む家族でもう何回かやりたいものだと思っていたものだ。
「わめく女っていうのが、良いのに。わめきもしないで、ああ、私はあれが嫌い」
息を整えた人形が、まだつらそうな感じで言った。
「おばあちゃんはやさしいよ」
「やさしいよね。僕、好きだ」
しんみりそう言うのは、タローとジローだった。
「キャー、キャーって、家に帰るのが正義みたいに鳴く女がいいのよ。酸欠な女がいい」
人形は言いながら、それがどんな女だったか、鮮明に思い出せない自分を見た。
衝撃的なものを見たおどろきがまだとれない爪の女に、墨の女性は気が付いてチラリと見て、ゆらゆらと揺れるばかりだ。
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