第9話
横になっていたタローの方は、腹に水が触れると、はっと立ち上がった。しかしすぐに腰を落として、色のない表情で、隣のジローを見ていた。
ジローは、水から逃れて、迷惑そうにのそりと、端の方に身体を寄せた。それでやっぱり、タローを見ていた。
二頭はお互いを見ていた。水位は上がっていった。
「やあ」
タローが鼻を鳴らす。
「やあ」
ジローはまばたきをしてみせる。
物置のギターが、椅子が、衣装ダンスが、水位に押されて、壁にドンと音を立てた。二頭は身じろぎもしない。ゲージも動かない。水の力は柵をするりと抜けるが、全体を持ち上げてくれる心遣いはない。
「このゲージも、動いて、そのうち、開くかもしれないよ。」
タローがゲージの底を、前足でトントンとひっかいた。土色の水が跳ねる。クーと鳴こうとしたが、鼻息どまりで、音にはならない。
「そうか、そしたら」
ジローはまたまばたきして、続けた。
「一緒に昼寝ができるんじゃないだろうか」
水位はさらに上がり続けた。ゲージは、まるごと飲み込まれても、まだ開かなかった。
その水は、枝や土砂を含んで濁り切っていたけれど、冷たくはなかった。
タローとジローをゲージごとすっかりのみこんだものは、部屋に立てかけてあったベッドを倒した。二頭の体はゲージの中に、ゲージはベッドの下になった。ベッドはこうして、ゲージを固く封印してしまったのだ。その時の二頭の悲しみといったら、やりきれないものがあった。
「どうしてなの」
「こんなのひどい」
まだ天井があり、壁も機能し、隣の住人のことは知らない二頭である。慰めの言葉のやりとりは、暗く水没した部屋の中、姿も見えなくなったお互いのみに許されている。
アパートは全体が水没して、土台から外れ、漂う。そのうち、下層がうまく岩場にひっかかり、動かなくなった。屋根が取り払われるまでには、さらに時間を要した。
「あら。お隣さんが居たのね」
天井が落ちた日、右の部屋から、墨の女性が嬉しそうに舞い上がった。
「死んだやつらしかいないなんて、最悪だわ」
左の部屋からは、吐き捨てるようなセリフが聞こえた。
そうなると、二頭にも希望が湧く。このベッドもそのうちどこかへさらわれて、その下敷きになっているゲージがついに開かれる、その偶然な、喜ばしい日が近づいていると感じられる。
飼い主に呪縛されてからずっと、二頭はこうして、縄がほどける日を待ち続けている。固い封印に悲しんだ日でさえ、それが叶う願いだと盲目に信じていた。微生物は分解作業に勤しんでいる。二頭は柵越しだが家族がおり、今でも見知ったにおいがし、鼻息が聞こえる。会話もする。不幸はあるが、望みもある。いつか柵をすり抜けて飛び回り、二頭いっしょに体を合わせて眠りたい。
爪の女はここまで聞くと、震えるような気持ちでいた。自分には何も出来ることがない。
本棚の上から、苔むした者が尖った声を出す。
「部屋は三つ。手前はばあさん、真ん中はけだもの部屋、そして一番奥が、私の部屋」
ばあさん、と聞いて爪の女は、墨色の女性の上品な物腰は、やはり時代の影響を受けているのだと思った。三十代くらいの女性に見えるのだが、そういえば、服も現代の装いではない。
倒れた本棚の上で、苔まみれが続けた。
「あのね、このフロアの部屋は三つだけど、全部、物置部屋なのよ。物置なんて言い方、可愛いすぎね。もう見たくなくなったものを捨て置く場所よ」
突き放すような言い方だった。爪の女がまだ生きている頃にこれを聞いたら、ことばのトゲに傷ついて、遺棄されるものがあることさえ、信じたがらなかったかもしれない。
しかし、依り代を爪の一本しか持たない、自分の名も忘れた女には、その辛辣なことばが、かつてここへ放置されたことを自虐しているように聞こえた。はっと息をのんだ。それもなんだかつらい。
「このアパートには、みんながみんな、見たくなくなったものを捨てていった。物置なんて、言い方が可愛いのよ」
苔の中の存在は、確かめるように、もう一度言ったのだった。
「お人形さん、そんな言い方しなくたっていいのよ。私たち、ここで楽しく暮らしているじゃないの」
墨の女性は薄く散らばって、体の向こうを透かしながら労わる。その顔色も薄くなり、表情は伺い知れない。
「楽しくなんて!」
人形は、嫌味っぽく笑う。
「私が本当に楽しかった頃は、住んでいた家中の人間をめちゃくちゃに呪ってやって、苦しむのを見てたときよ。あれは本当に楽しかった。そのせいで、私は物置部屋なんかに押し込まれたんだけどさ」
「ひどいよねえ」
人形のしたことが悪いのか、人形の境遇に同情したのか、猫のジローが言った。
「わあ、呪いの人形ってやつ」
爪の女は驚いたが、恐れた調子はない。
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