第8話

 飼い主にとっては、この二頭の存在は、はじめに求めた癒しの効果などなく、他にやりようがないからとりあえず生きているままにする、糞尿とフケの臭いのする、おまけにうるさい、自らの短絡的な思考を代表したような、重荷の類になっていた。


 かといって、保健所に持ち込むのは命がとられるからかわいそうだし、犬猫を捨てるのは無責任だと、誰の意見を聞くこともなく、浅い考えを巡らせた。それで、この二頭を二つのゲージごと、あるアパートの三階に運ぶことにした。

 その引っ越し先は古く、飼い主の両親が前々から持っている部屋だった。壁紙は剥がれ、埃臭く、カーテンは劣化して破れている部分もあるが、物置としては申し分なく、壁、床、天井が揃っている。


 自身の生活圏に入れるには、二頭のいのちの光は強すぎる。物置にしているこのアパートの三階なら、鳴き声の苦情が来ることはないし、たまにエサをやれば二頭は元気にやるだろう。判断のだいたいが衝動的な、飼い主の残酷な楽観だった。

「人間なんかと一緒に住まずに、動物同士でおしゃべりした方が楽しいよね。タローとジローの幸せのために。動物は山に返したほうがいいって言うし。でも、ここは山がないから」

 飼い主はそう二頭に言う。アパートの物置部屋から去る前、二頭はからだを洗ってもらった。物置部屋に放置されていた人間用のシャンプーが目に入って、瞬間に思い付いた、うしろめたさを誤魔化すための慈愛である。結婚式の前のエステのように、または成人式の前の散髪のように、これが二頭のめでたい区切りであると、自身に暗示をかけようとする、哀しいこころだった。

 濡れて拭くものもない二頭はゲージに戻し入れられ、飼い主は慣れない世話に疲れて、ことばもなく出ていった。


 ジローはしつこく毛皮を舐めて、湿気をとろうとする。

「ああ、気持ち悪い。なんだかずっと濡れてるんだ。舌まで気持ち悪くなる」

「ぼく、乾かすのはもうあきらめたよ」

 タローは、ぶるぶると身体を振った。

 人間用の保湿系シャンプーは、動物の厚い毛皮からはなかなか乾かずに、数日、濡れたように残った。


 埃臭い物置の部屋で、タローとジローはそんなに飢えなかった。大型のタッパーが差し入れられ、そこへ山と盛られたフードを、食べたいときに食べた。水は二リットルボトルに入って、手前の水が減ったぶん、出てくる仕様である。はじめは澄んでいた水も、やがて濁った。新鮮な水の方が好きな二頭だったが、この状態では贅沢も言えない。世話の仕方に文句を言う相手もいない。

 しかし、愚痴をこぼす相手は居た。ふと見やれば、お互いがあったのだった。

 目線が欲しいとき、鼻を鳴らせば、相手にそれと分かった。人間には聞こえない程度の鼻息の違いでも、お互いには敏感に、十分な知らせとなるのだった。


 タローが、くう、とあくびをした。それから、目を輝かせた。楽しい記憶を思い起こしたのだった。

「あのとき、楽しかったね」


 ジローはゴロンと横になりながら、閉じていた瞼を薄く開く。

「ゴミ袋、やぶったときでしょ?」


「そう。ぼく、ジローより強いんだ」

「おれはああいうの、苦手だね。追いかける方が楽しい。」

 二頭はよく、こういうむかしばなしをした。むかしばなしをしながら、ゲージの柵を爪でひっかいたり、牙を立ててみたりした。


「茶色の靴、面白かったなあ」

 タローは飼い主の靴をボロボロにかみ砕くのがお気に入りで、もう何度でもやりたい遊びだと思っていた。きっとボールをもらっても、熱心に噛みしめただろう。

「あんなの固くって、何が良いんだか」

「歯ごたえが良いんだよ」

「机に飛び乗って、ペンをみんな落としてしまうのが楽しいさ」

 棒状のものを前足で叩いて、動かすのが好きなジローだった。猫じゃらしをもらったら、息が切れるまで追いかけただろう。

「ジローはすばしっこいよねえ」

「まあね」

 それから二頭して、破れたカーテンから差す明かりを見た。

 部屋の両脇には、使わなくなったデスクやら、食器棚が並んでいた。大きなベッドも、直立したまま収まっている。

ドアの反対側に、全面の大きな窓がある。これが完全に塞がっておらず、およそ四分の一ほどだが、カーテンの向こうから日が差すのだった。


「なにかいる」

 ジローが猫らしく、目を壁に釘付けにして、フンフンと鼻を鳴らした。

「なにがいるの」

 タローが、横たえていた頭をもたげた。

 それは虫だった。虫の足が壁を伝う、カタカタ、カサカサという音が、どうしても二頭には新鮮だ。

「すごい、すごい! こっちにこい!」

「変な虫だあ!」

 虫がいなくなってしまって、また横たわってぼうっと眠るようになっても、特にジローはその虫のことを思い出しては、また部屋の壁を、じっと見たりするのだった。


 部屋に水が浸み込んできたとき、二頭がこころから生きていたかどうかは、あやしい。隙間から液体の侵入を許したドアは、窓に比べてよく耐えた。パン、パンと発砲音に似た鋭い音がして、窓ガラスは破られた。自然物も人工物もごちゃまぜにして、飲むにしては汚濁しすぎたものが流入する。

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