第6話
自分を癒してくれる女だからと思って、その役割なりに可愛がっていた年上の彼氏である。部屋を与えた上に、高額な美容代、生活費も出している。物件の管理も含めて、渡しているつもりであった。
「家の掃除くらいしてもらわないと困る」
年上の彼氏はそう言った。見た目の美しさと、部屋の管理の不出来さが、どうも釣り合わないと思った。
こんなに身綺麗に整えることが出来るのだから、ゴミ捨てや掃除くらい、出来るはずだと思うのだ。女にはそれが出来ない。脳の容量は、自然な眉の描き方などでいっぱいになっている。何をどこに置いたかを記憶するゆとりはない。必要最低限なものから詰めた頭には、生活のことまでは入らない。生活のことから入れるべきという判断もおぼつかない。どうしても、自分の興味の先にあるものが優先される。
「恥ずかしかった。私がちゃんと出来ないってこと、バレちゃって。」
部屋が汚れることには無頓着な、美しい人だったのだ。自立したい、世のためになりたい、そして綺麗でありたいと願いながら、住んでいる家の管理ひとつままならなかった。
「がっかりされて、それで、あんまり恥ずかしくて、私、夜中に散歩に出かけたの。それからのことは覚えてない。クラゲがいて、ここは海だって話してた」
爪の女は恥を振り払うように明るく話すよう努めて、最後を肝心のアイディアで結ぶ。
「今は、ここで暮らしたい。それが今のアイディア」
「そいつと一緒に住むのは嫌」
突き放すようなしわがれ声が、もう一つの角部屋から響いた。倒れた本棚の上で、苔むしている者の声だった。爪の女は、凍ったようになった。
「どうしてもっていうなら、けだものたちと同じ部屋に住んだらいいんだわ」
そう言って、嘲笑うような調子である。
「けだものだなんて、まあ。タローちゃんとジローちゃんは、わんちゃんと猫ちゃんですよ」
墨色の女性がびっくりした調子で言ったおかげで、爪の女のこころはほぐれて、タローとジローの正体に驚く余裕さえあった。
「わんちゃんと、猫ちゃんなんだ。」
「タローちゃんがわんちゃん。ジローちゃんが猫ちゃん」
墨色の女性は会話をする方向に傾いているが、返答がこうして噛み合うときもあれば、明後日の方向のときもある。
一方、ベッドの下のタローとジローは、突然に受けた無礼も、墨色の女性のかばう言葉も、まるで耳に入っていない様子だった。二頭は訪問者に触発されて、未だ達成できていないアイディアを思っていた。
ついに、タローが哀れっぽい声で言い出した。
「ジローとぼくのアイディアはね、はやくここから、出られたらなあ、ってこと」
「出られないの?」
爪の女もはっと気付いて、つられて悲しい声を出した。犬猫のタローとジローは、ベッドの下に隠れているのではなく、その小さなスペースから出られないでいるのだった。
犬のタローと猫のジローは、同じ人間に飼われたことで引き合わされ、いつでもおとなりさんのゲージの中に居たのだった。ただし、鼻同士をくっつけて嗅ぎ合えるほど近くはない。二頭はそれぞれのゲージの中で、お互いの姿と匂いを頼りにして、日がな一日過ごしていた。
飼い主の人間は、部屋にひとりでいるのが、ある日たまらなくつらくて、店頭に居た犬と猫を、タローとジローと名付けて飼ったのだった。
「家族だね」
と言われ、最初の一日、二頭は撫でられた。
「いってきます」
その日のうちに飼い主は二頭にそう言って、出かけていった。タローとジローは、一人暮らしの部屋に放されたままだった。衝動じみた思い付きで二つの命を所有したその人間は、これまで動物の面倒の経験がなかったが、飼育アプリで画面上の動物の世話をしたことがあったから、そのようなつもりでいた。画面上のペットは臭いがしない。
玄関のドアのむこうに飼い主を見送ったあと、タローとジローは顔を見合わせた。中身の詰まったゴミ袋はあやしい臭いをさせているし、シューキーパーにかけてある靴は噛み応えのありそうな茶色だ。
「どれからはじめようか!ちょっと靴を噛んでくる!」
「ぼくはまず、キッチンのお皿を調べに行く!」
タローとジローは、めいめいの牙や運動能力を発揮する遊びに夢中になった。二頭いわく、
「なんて仕込みの良い家なんだろう!」
それと探さなくても意外なものが、それも想像もしなかったものが、何に使うのかさえ分からないものでさえ、次々に目に入った。
タローとジローは、部屋に置いてある物が面白くて、何にでも好奇心を持った。
「面白い紐だ、噛むと形が変わるよ」
「ネズミを見つけた。やっつけたから、大事にしまっておこう。」
電化製品のコードを噛んで引きちぎったし、靴下を獲物に見立てて引き回し、新築の秘密基地に突っ込んでおいた。
「吸収の良い布だね。トイレにぴったり」
「うわあ、これ、ヒラヒラしてるよ、ヒラヒラ!」
尿は座布団に、引き裂いたティッシュを部屋中に撒いた。
そういうわけで、何も知らない飼い主が帰ってきた頃、泥棒の方がまだ礼儀正しく部屋を調べるだろうというありさまで、名義人にとってはめまいのするような雪景色が展開していたことになる。
飼い主は無の顔色で、シンクに飲みかけのペットボトルを置きつつ、部屋の奥までを一瞥しに歩いた。途中、足の裏にはりついたティッシュをかがんで取り、もはやどこに捨てても同じようなものだが、ゴミ箱の中に捨てた。
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