第5話
なにより、その部屋には大鏡があった。女の等身よりもやや大きく、後ろ姿までも見ることができた。これには彼女は心から感激して、テーマパークに行ったときよりもずっと、城の名義人の前ではしゃいだ。
それから、大好きな種類の努力に夢中になった。ガラス張りの高層階から見る景色も好きだが、ドレスルームに大きく張られた鏡の方が嬉しい女性であった。
一日の大半を、その鏡の前で過ごしていた。彼氏がマンションに帰ってきたときの、完璧なコーデとメイクを考える。変身が納得いくものであったら、颯爽と散歩に出かける。
小さな顎に大きな目を強調して、保護欲をかきたてるあどけなさを演出する。眉を強めに、横眼で見るときでさえ心臓を射抜くような、戦場の姫を思わせる造形をつくる。顔のパーツの中で、昨日の主役は唇、今日は睫毛と決めたら、他の部分は花束の中のかすみそうのように添えるだけ。
美しさの追求以外には、贅沢な女ではない。しかし、美しくいること自体に、かなりのコストがかかる。年上の彼氏は全てを賄って、笑っていた。
女はまた、貪欲とも言えない。他者を押しのけて掴もうとする気概がなかった。けれども、感覚は素晴らしいものを持っていた。しかしそれは彼女ひとりの感覚に過ぎず、説明することばは持たない。そのせいで発信的な位置に立つことが出来ない。
友達もいない都市部に美貌だけを引っ提げてやってきた彼女には、知り合いと呼べる薄い付き合いの人しかいなかった。SNSを開けば、そこに人間の習慣や生活が載っている。相手は誰とも知らない人間たちだが、よく知った十年来の友人のように信頼を寄せて、やがて文字上で会話するようになった。そのうちの幾人かとは実際に会って、食事をすることもあった。
そして、時には苦境の中にいる人類を知っては、仕事もせず夜景を眺める自分の暮らしを、嫌味なく比べた。
「ねえ、このあいだ話した子がね、離婚して、病気もして、大変なんだって」
「ふうん」
「だから、その子を雇って、何か事業がしたいの」
「わあ、大きく出たなあ」
週に二日ほどやってくる彼氏の仕事が何であるか、彼女は知らなかった。知らないが、こんなに良い部屋を契約するほどの働きが出来る人なのだからと信頼しきっていた。
相談すれば、まるで大手企業が運営するチャットサービスのように、なにかしらの答えが返ってくるに違いないと思うのだった。
冷徹なこころに基づいた計算を、女は一切しなかった。それだから、彼氏の内側も自分と同じようなものだと思っていた。
彼女は他にも、思いつくままに色々な抜き身の発想を、動物保護の団体を結成したいとか、舌が回る限り、彼氏に言って聞かせた。彼氏は彼女の美貌と努力を愛したが、口上は要らないと思い始めた。
週に何日かだけとはいえ、一緒に過ごしていれば愛着もわく。それでも彼氏にしてみれば、ろくろく働いたことのない世間知らずの女である。その時の思い付きで口にする夢物語を後押ししてやろうというつもりにはなれなかったし、手ほどきをしてやるほど時間もない。
若い彼女の肌を独占することは、外車を購入することと同じであった。美しい彼女が自分のために着飾って部屋で待っていてくれる、その癒しを求めていた。ペットを飼えば世話が要るが、相手が人間ならば、金を与えておけば動いてくれる。
家を、車を、動物を手にし、やがては人間さえも使役するのが、年上の彼氏のコミュニティではステータスの一部である。
人間は尊いものである。その手や時間を金で買うのが、なによりの贅沢である。
生きているあいだ、そのことを女は知らなかった。それは幸福のひとつだったかもしれない。
爪の女は、その時のことを思い出しながら言った。
「アイディアの話は、彼氏にあんまり言えなくなった。怒られるようになったから」
そして、少ししゅんと、さみしくなった声色である。
「私、特別な感じの女の子になりたかった。そこにいるだけで、キラキラして、特別って分かるような人」
「恋人がいたのね。素敵なことだわ」
墨の女性が、おっとりと、うっとりと言った。
「彼氏はいたけど、私、彼氏に頼らずにやっていきたかった。自立したかった」
豊かな髪をトリートメントしながら、女の胸のうちにはそのことがあった。
綺麗でいるだけでいいと言われて、はじめはそれが最上の条件のように感じて飛びついたが、暮らしているうちに、それだけでは物足りなくなってきたのだ。
「でも、何かをはじめるって、ものすごくお金が要るのね。彼氏はね、私が綺麗でいるためのお金は出してくれたけど、何かをはじめるためのお金は、私も自分でなんとかしたかったし……」
「それで、何か新しいことをしたの?」
真ん中の部屋から、期待するような声が聞こえた。
「しいっ、タロー、ダメだよ。おはなしを邪魔しちゃ」
そして、それをたしなめる小言もあった。
「新しいことは、結局できなかった」
「ああ。」
きっぱりと言う爪の女に、タローが悲しい声を出した。
「それよりね、ゴミ袋が、彼氏に見つかっちゃって」
爪の女は、今度は本当に、恥ずかしそうだった。顔があったらうつむいて、真っ赤になっていたに違いない。
「ゴミ袋がいっぱいだけど、明日持っていこうと思って、クローゼットとか、ベランダに出しておいたの。いつのまにか、それが積もっちゃった」
生きているときは、目の前に出ているもの以外に、気が配れなかった女だった。捨てるつもりで、一時的に置いているつもりだったゴミ袋の数は増え、いつしか彼氏を落胆させた。
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