第3話
左、真ん中、そして右の部屋と、三つの空間が天井を開けて、まるごと中身を見せているが、女はどの部屋でも構わないと思った。
もし、急に大きな魚にくわえられて、行きつけなかったらどうなるだろうと爪の女が不安がってもおかしくはないが、この女、元々がいろいろなことを真剣に心配する性質でない。その不安は掠めることもなく、禍根も残さずさらりと流れていく。高いところへ陣取って、吹き飛ばされたときのことを考えもしない。
海水越しのやさしい重力に引かれて、爪の女は最上階を目指して、時折くるりと回転しながら沈んでいく。もう、うきうきして、待ちきれない気分でいっぱいである。表面の赤もきらりと光る。苦手だと思ったあの小さなカニは、ちょうどいい仕事をしたのだった。アパートが、海藻の船からそんなに離れていない場所に突き出ていたのも幸いだった。
右側の角部屋に異変があった。黒色の女性が右下隅からもうもうと立ち上がったのだ。落ちてくる爪に気が付いて笑みを浮かべている。さらには両手を小さく振って爪の女を歓迎している様子だが、迎えられた方はぎょっとした。誰もいない場所だと決めつけていたから、先客がいることに驚いたのだ。
それだけではなく、真ん中と左の、残りの二部屋にも、なんとそれぞれに先住者がいた。近付くにつれ、三部屋あるうちの全てに、もうなにやら住み着いている気配が鮮明になってきた。先住者たちはやってくる爪の女に気が付いて、手を振ったり睨んだりして、各々が様子を伺っている。
右の角部屋には、人間を煙のように形作った、黒い女性がいる。
真ん中の部屋には、隠れているのか姿は見えないが、ベッドの下になにやらいる。それはじっと黙って、これから何が起こるのか注目しているようだ。
左の角部屋には、雰囲気からして意地悪そうな何かが、倒れた本棚の上に横たわり、苔に覆われながらこちらを睨んでいる。
爪の女は先住者たちの存在を感じて、はっきりと不安になった。三部屋全てがすでに借りられているなど、考えもしなかったことだ。海藻に乗っているときに気付いていたら、やり過ごしたかもしれない。しかしもう逆流して戻る道はない。
アパートの周辺を眺めてみたが、奥行が深くなるごとに月明かりが死んでいて、ひんやりしていそうな空間が広がっているのみで、似たような楽園も見つからない。なにより、爪の女はよそへ泳いでいくこともままならない。
「どうしよう」
感情のない呟きが漏れた頃には、もうアパートに着くところだった。女はそっと、黒いいでたちの女性の部屋と、真ん中の部屋の間の壁に降り立った。ここは小高く、周りもよく見渡せる。この上なく上手く、着地できたのだった。
爪の女は不安な気持ちを思い直すことにした。両手を振って歓迎してくれた、あの煙のような黒のいでたちの女性なら、部屋の隅にでも住まわせてくれるかもしれないと思った。人間の形をしているから、元は人間だったのだろうし、同じ種類の生き物だった過去をきっかけに、朗らかなやりとりを期待することにした。
ふと見上げると、泳いでいく魚の影が、月光を横切っていくところだ。ここなら、海面から注ぐ光で暖まりながら魚群と噂話をするような、人魚的生活もありえるだろう。
それに、もう他に行く当てもない。
「どちら様?」
小高い壁を見上げながら、まず、角部屋の女性が尋ねた。親しみをもった、好奇心にあふれたたましいの、敵意も悪意もない声色である。愛想の良い受付のようだ。その黒いいでたちの女性によく注目してみると、黒い煙というか、水に溶けた墨汁みたいに、姿が濃くなったり、拡散したりしている。その下半身や足の方を辿ると、どうやら部屋の隅の、海藻の中からモヤモヤとわいているようだ。卒塔婆のように背の高い藻で、それらが視界を遮っているから、中に何があるか分からない。
赤い爪の女は、墨の女性の親切そうな声音ひとつで不安な気持ちが一転した。決めつけといえるほど、墨の女性の善良さを頭から信じ込んでしまった。盲目なまでに人を信じやすい性格は、爪の女が地上にいた頃からの持ち物であるが、とりわけ今は、その方が爪の女にとって都合が良いせいかもしれない。久しぶりの人間に出会った親近感と、人懐かしさが胸いっぱいになる。
生きていたころの名前だけは、爪が指から剥がれたときに一緒に失くしてしまった。爪の女にはそういうわけで、名乗るものがなかった。何かを言わなくてはと気持ちが急いたが、用意もしていないことだし、自己紹介はどうしても、自身の性格への言及という形をとらざるを得ない。
「私ね、私、アイディアが湧き出て、たまらなくなることって、あるの」
ごちゃまぜに虹色になった気持ちが先行して、爪の女の第一声は頓珍漢なものになってしまった。言ったあとで、しまったと思った。
「そうですか、そうですか。ここは、いいところですよ」
墨の女性は失笑するでもなく、なんと善良な印象そのままに、優しく微笑んでいる。そのことばの調子は、なんだか、爪の女とは違う時代を生きた、むかしの女性の感じである。
二人とも的外れな挨拶をしたが、相手との触れ合いは快いものにしたいという意思の表明にはなった。その意味では、挨拶の役割を果たしていたといえる。
角部屋に住みついている墨のような女性は、もう長いあいだ、ここにいるらしい。それほどに染み付いて、力があり、部屋に慣れ切っている感じがした。足元は海藻の向こうから沸いて出ているが、その板のような海藻に阻まれて、正体は分からない。それがなんであるにしろ、このように立派な植物が育ってしまう前から、この墨の女性はアパートに住んでいるという裏付けにはなる。
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