第2話
その頃、女は独り言にも下手な歌にも疲れて、じっとしていた。
そうしてカニは、海藻の綱渡りでやっと辿り着いた先で、爪の女に出会った。出会うなり挨拶もなく、表面の赤い塗装を、とがった腕の先端で引っ掻き撫でて、調べはじめる。
「剥がさないでね」
爪の女が言う。
「少し触ってみてるだけ」
小さなカニは言い訳してすぐ、腕を女の爪から離して、海藻の繊維を掴み直した。無機物だと思い込んでいたのに、注意されて驚いていた。
「なんにも見えないね。お月様だけが見える」
カニが、ぼうっと退屈そうに言った。ちょうど手頃なものをいただいたばかりで腹は満ちていたし、生物同士の会話はとりとめのないものばかりで、飽きてしまっていた。
底にあるものが砂礫でも、石でも、はたまた藻の群生であっても、夜の海は見通せないほどに遠く、暗い。月明かりでは、どんなに大きな満月でも、海底を照らすほどの光量は見込めない。下を見れば、ぞっとするような底のない海である。
この景色に目立つものといえば、海面上の月と、海底の闇と、赤い爪だった。その中でも、月明かりにきらめく爪の赤を、カニはやはり気にしていた。腹は満ちているのに、なんだかおいしそうな予感すらするのだった。
しかし、カニにとって女の爪は自分の体長よりも大きいし、先ほど嫌がれたばかりの今、色々と触って確かめるのは気が引けるのだった。それでもやっぱり、こんなにてらてらと光る赤を見たことはなかったし、長い海藻を渡って来られたのは、文字通り、吸い寄せられるように惹きつけられたからだった。
「綺麗な赤だね」
「ありがとう」
「お礼、言われちゃった!」
カニは自分も赤くなったような気がした。この綺麗な赤い爪のためなら、多少のことはしてあげようと寛容な気持ちさえ湧いてくるのだった。もしこのカニが赤い塗料をもらうことがあったなら、すぐに口に含んで食べてしまい、自分の甲羅の色に反映されますようにと祈っただろう。カバンを持ち歩くわけにもいかないカニにとっては、背中や腕の色が、ファッションの全てである。
爪の女の方は、カニの小さいながら鋭い腕が、少し恐ろしかった。何かを言えば引くような、素直な幼さのあるカニで良かったと思っていた。じっとそばに控えているだけで無害そうであると分かっていても、尖ったハサミを二本も掲げている生き物だ。
こちらは身動きのとれない、手足のない者である。とても逃げられそうにない。カニが赤い塗料に触れたとき、女には体そのものを引っ掻かれたような、なんともはがゆく不快な感じがしたのだった。この海ではじめての、会話らしい会話ができる相手ではあるが、この海ではじめて怖いと思う相手でもある。
黙りこくったまま流される爪の女と、そばにじっと控えているカニだった。会話の糸口は、突然に現れた。
「ああ、こんなところに、建物」
爪の女が驚いて言った。闇に沈む海底の中から、そのアパートの最上階だけが、にゅっと顔を出している。その天井が抜けているために、まるごと海水に浸かった最上階の部屋が、モデルハウスの写真のようにまるごと露出している。
室内に横倒しにひっかかった丸太、古い机、卒塔婆のように揺れる太い海藻、バルコニー側の窓は破れ、銀の縁だけが残されている。雑多といえるほど細々としたものも、平等に青味がかったフィルターの向こうにある。
アパートの最上階は、荷物の整理をされることなく、まるごとここで海に浸かっているのだった。ベッドの枠も、そのクッションも、何やら入れていたらしい段ボールさえも、そのまま沈没している。
爪の女は海面あたりからアパートを見下げながら、ごちゃごちゃした部屋を丹念に観察した。三部屋あるが、どこも人が住んでいたとはとても想像できない部屋ばかりだ。どちらかというと物置のような、押し入れの中のような、そんな様子である。物に囲まれても平気でいる女だから、そのような場所に腰を据えることも全く問題ではない。
「わたし、ここにする」
うっとりした女の声は、独り言ともとれるほど小さかった。それから次ははっきりと、小さなカニに言った。
「うん、ここにしよう! ね、あそこに落としてくれる?」
カニはこうして、爪の女に触れる機会を得たのだった。断る理由がなかった。つまようじほどもない脚の先を上手に使って、女を海藻からはじき落とそうとしながら、カニはさよならの挨拶をした。
「元気でね、おねえさん」
「ありがとう」
カニはまた嬉しくて、ぼうっとなった。爪のかけらも手に入れられなかったが、満足であった。良いことをしたのだ。
腕の先が触れるたび、女はひやひやした。ナイフを当てられるような心細さに耐えて、女の爪はうまく海藻や木くずを離れる。海底に落ちていくその姿に、カニは別れを惜しんだ。
「大きくなったら、ぼくの甲羅、きっと赤色にするよ!」
小さなカニの姿は、海藻の向こうに混じってしまって、爪の女にはもう見えない。
アパートの真上から、海の流れに押されたり、引かれたりしながら、女の爪は潜っていった。三部屋が隣り合って並んでいるが、天井という天井が崩落して、どの部屋も月の光の範囲内である。
「わっ、綺麗」
満月の明るい夜だからか、部屋の隅々までが照らされてよく見える。アパートが近づいてくるほど、一部屋ずつの構造がよく現れてくるのだった。どの部屋も、こうして近付いて見たところで雑多であることに変わりない。ギターケースや、冷蔵庫までもが浸かっている。
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