海底アパートの入居希望者

谷 亜里砂

第1話

 夜の沖合、月に照らされてピカピカの海面、夜空が仰げるあたりから、陽気な女の声がする。

「明るーい」

 それは人間の、剥がれた人差し指の爪である。電車に乗り、勤労し、料理を味わい、花を愛でる人々は地上で暮らし、このようなもの、とりわけ事物に宿った目に見えないものに触れる習慣がない。しかし、この爪も土の上にいたころは、それはおしゃれな女だった。

 ところが今は、赤く塗ったその爪一本だけになって、そこへ女の意識の全てが乗っかっているのだ。意識を通して見ることも、嗅ぐこともできる。ただひとつ、自分の意思では動くことが出来ない。ただし、女はそれを不自由とも思わないから、特段の不満がない。


「月が見えるー」

 取り組むこともなくこうして独り言を漏らしているが、女自身は声の響きを楽しんでいるところがある。パシャ、パシャと、飛び上がってはまた帰っていく魚が立てる音、微かな生物たちのゴニョゴニョした話し声、それから女の独り言が、果てなく続く海面の上に灯っては、すぐに消えていく。無論、地上の人間にはおよそ聞き取れない種類の声である。

 実は、この爪だけの女は歌ってみたこともある。生前はあまり音楽に親しまなかったので、試したとしても童謡のワンフレーズのみに終始して、それも歌詞がごっちゃになって、意味のつじつまが合わないところが多い。

「とんぼのめがねは、みずいろめがね。あおいごはんをたべたからー。たーべたーかーらー」


 会話についての摂理について言えば、微かな者は微かな者同士で、という原則がある。微かな者たちの枠に入る生物は多種に渡る。漂う女のこれまでの話し相手といえば、クラゲ、ゴンズイなどの群れた魚たちがいるにはいたが、どれも忙しい身分で、いくらか言葉を交わすと泳ぎ去ってしまうのだ。女は爪だけになってからというもの、元人間や、現人間とは話す機会がないまま、海を漂い続けている。

「月が、綺麗ですね」

 芸人のようにオーバーに、若くてキザな男風の声色を作る。海はこれだけの命を抱えておきながら、返事をする相手をそばに置いておかなかった。


 まだおぼろげな部分を含みながら、それでも女の意識がはっきりしはじめたときのことに触れよう。

 偶然にもおしゃべりな茶色いクラゲが、仲間たちとぺちゃくちゃ言いながら、女を乗せた海藻のそばを通っていた。爪として目覚めたばかりの女は、眠たげに目をパチパチさせているような、心持ちだった。


 ゆるやかな海流に乗って、心臓の動きに似た規則的な動きを、女は間近で見た。笠を膨らませ、しぼませる運動を絶えず続けながら、何本もある足を投げ出して、それは楽な様子で、まるでネット配信でもしているかのように、しゃべりまくっている。

「今日ね、船がいたのを見たかもしんない。波がざばっときて、なんか、変だったかもしんない。友達はどこ。友達はたくさんいる。大きいあたし。あたしよりも大きい友達がいる」

 これはなんだろうか、とじっと見入るうち、どうやら水族館で似たような踊りを見たことがあったと思い当たった。

 筒状で縦長の、あの水槽にいた者たちは、どこか懸命に息をしているようで必死だと思ったのだが、と女は思いながら、クラゲの単独配信に思い切って割って入ったのだ。相手に聞こえなかったらいけないから、なるべくはっきりした、大きめの声で話しかけた。

「ねえ、ここはどこか知ってる?」

「あったかい海。前はね、もっと寒くて。ここはあったかくていい。あたしはごはんを食べるのが好き。おなかがすいているときだけ、好き。」

 クラゲは驚くことも、喜ぶこともなく、おしゃべりの続きのような感じで、長い返事をはじめた。体の割に長い足は波まかせ、膨らんではしぼむ笠を、女はまだぼうっとしたところのある意識で、夢うつつに眺めた。

 聞き手の有無に頓着しないクラゲは、旅の歴史の一から百までを語りそうであったし、実際そうしたのかもしれない。確定できないのは、きまぐれに海面をなぞる波に分断され、やがて両者が遠くなっていったからだ。遠ざかりながら、波の向こうに消えながら、クラゲは女と離れていくのに気が付いていないのか、いや、気付いていたとしても、ずっとしゃべりどおしだった。

 半透明な隣人の姿を目にしたときから、女は自分のいる場所が海ではないかと、ぼんやりと予想を立てていた。クラゲから返答をもらったところで、深く衝撃を受けるわけでもなく、そうか、海かあ、といった調子である。生きていた頃、浮き輪にひっかかって漂った夏の日のように、今回は海藻にひっかかって漂っているのだと思った。


 女の爪はそういうわけで、今夜は海面から月を見上げているのだった。おぼろげだった意識は、あれからかなりはっきりしてきた。その日の満月は、天を埋め尽くすと思えるほどに巨大に思えた。月は宇宙にあるものと知っていてもなお、こちらに落ちてくるようにも感じた。海流は音もなく流れていく。波はかすかに、女の爪が乗った海藻の船を揺らすのみである。

「ううん、不思議ィ。月がぶつかってきそう」


 かつては一人前の人間らしく身体を持っていた女だが、今は爪の一剥になって、海藻や木くずと一緒である。からだの大部分だった頭や、胸などではなく、その爪だけが、女の持ち物であり、自身であった。腕や足がどこで朽ちているか、爪に宿った女の意識は知らない。ただ、今の自分が爪だけの存在であることは、なんとも名状しがたい感覚をもって知っていた。


 海流と藻に運ばれていくものの連れ合いは大勢いる。といっても、あまり保護される必要のない大きな生き物はあまりいない。力強く育った命は、たくさんの糧を得るために大海へ乗り出している。

 爪の女の相乗りは、ゴマ粒くらいのエビの子、はては孵化するのを待つ卵などの、初心者ばかりであった。その中にいつのまにか、まつ毛ほど小さい、生まれて間もないカニも一緒になっていた。海藻の柔らかいところをちぎって夕食にいただいたり、自分の体長よりもさらに小さな生き物なんかを捕まえたりして、遠い旅をしながら、食事に困らない生活にありついている。

 その夜、女の爪の赤い塗料は月明かりに照らされて、小さなカニの目にキラキラと映った。気付いてしまえば吸い寄せられるもので、小ガニは海藻という海藻をうまくつたって、人間にとってはなんでもない距離を、やっとやってきたのだった。

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