音葉喜来の神話的事象

夜野ケイ

第1話「大勢の誰かに送られる独奏曲」

 先ほどまであれほど騒がしかった会場が沈黙に包まれる。ポーンという機械音と共に舞台に光が灯り、その脇にある舞台裏から一人の女性が静かな足取りでその場から現れる。そして、場には期待の込められた拍手が響き渡る。ここ、東京コンサートホールは他のコンサートホールよりも優れて音が響きやすい作りになっているらしく、拍手音が鮮明に聞こえてくるような気がする。なんて思いながら拍手を送っていると音子はピアノの前に立ち深くお辞儀をした後、静かに席に座る。そして、奏で始める。最初の曲はシューベルトの曲だった。シューベルト特有の悲しくおどろおどろしくもどこか迫力のある曲が耳を通る。陳腐な言い方をしてしまうが、音子の曲は素晴らしく、完成されたものであった。1つ1つの音符が命を持ったかのようにそれぞれの色に染まっていて、その演奏を描こうとすればどんな画材であろうとパレットであろうと色が足りず表現できないでのはないだろうか?目を瞑り、深海にいるかのような心安らぐかのような夢心地な気分で演奏を聞き入っていた。楽しい時間というものは不思議なものであっという間に過ぎてしまう。気が付けば演奏を終わっており、自分を除いた観客たちが歓喜の拍手喝采を送っていた。慌てて自分も手を叩いて音子の演奏に対する称賛の拍手をした。

「あっという間だったな……」

思わずそんな言葉が口に出てしまった。辺りを見渡すと周囲の観客たちはホクホクと満足気な顔で帰っていくではないか、その様子に俺は自分のことのように嬉しくなってしまう。だってそうじゃないか、好きな人が称賛されている。そんな嬉しいことは無い。

「あっ、いたいた!」

帰ろうかとそう思っていた矢先、背後から声をかけられたその声の主は誰かすぐにわかった。俺は口元に手を当てて口元がだらけないように唇をきゅっと結びながら彼女の方に向き直る。決して悟られないように……

「速すぎねぇかさっきまで演奏してたろ音子おとね

「えへへ、喜来きらいくんに会いたくて」

茶色のショートカットの髪をした少女……女性。山下音子やましたおとねが満面の笑みを浮かべてこちらに近寄ってくる。俺と彼女の関係は幼馴染だ。家が近所だったこともあって昔からよく一緒に遊んでたものだ。流石に進路の関係で大学は別れてしまったが個人的な交友はこうして今も続いているという訳である。

「どうだった?私の演奏?」

「綺麗だったよ、相変わらず」

無邪気な笑みのまま質問してくる音子。こうゆう根が明るい所に何度救われたことか。

「よかった~。ま、私天才だからね!」

自信過剰ともとられかねない発言だったが事実、彼女はピアノの天才だった。21歳という若くしてソロで演奏され音楽会で称賛されているのだ。ただの事実を口にしているだけである。それはそれとして……

「嫌味か!?無職でフリーター同然の俺に対する嫌味か!?」

文句が出ないわけではない。こちとら借金、ヤニカス、宿住まいやぞ。相棒はキャメル・クラフトだ。

「えぇ、いいじゃん。自画自賛くらい」

「その自画自賛が底辺男の心をへし折るんだよ」

まぁ、お前に言われたって構わないけどね。

「あはは、やっぱり喜来くんはおもしろいね」

ケラケラと笑う音子を見ながら俺も心なしか笑みを浮かべてしまう。あぁ、いけないいけない。この好意だけは隠さねぇと…‥

「そろそろ、帰るね。新しい作曲の為にしばらく家に缶詰だからしばらくは遊べないんだ。終わったらあそぼ昔みたいにさ」

「あぁ、わかった。じゃあ

「うん、

それが俺たちの別れの言葉となった。

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