第9話 

「おやすみなさいませ。お父様」

 公女は、執務室のドアノブを持ったまま、じっと動かない。

 そういえば数日前にも、医師が同じように固まっているのを見たっけ。 

 小さな背中から、僕は何も読み取れないでいる。

 ただ、公女が納得するまで見守ることしかできない。

 程なくして、公女は背筋を伸ばし、くるりと僕の方に身体を向けた。

「わっ!カーライル卿!ビックリしました。なんの気配も感じられないなんて…さすがです」

 目をまんまるに開いたかと思えば、満面の笑みを咲かせる。

 いつもよりも気が緩んでいるのが分かる。

 よほど緊張していたのだろう。

 しかし、こんな無防備な笑顔を嬉しく思うなんて、僕もどうかしている。

「公女様にご挨拶申し上げます。よろしければ、お部屋までお連れ致します」

 僕はいつもの様に公女の右側に立ち、左手を出す。

「ありがとうございます。実はもう限界だったんです」

 公女は笑顔で、私の腕にしがみついた。

 むにゅ

「…」

 いつものように、手を添えられると思っていた。

 それが、恋人のように腕を…しかも…

 コルセットはしていないのか?

 いや、当たり前だろう。腰を怪我しているのだから。

 またフリーズしそうになる思考を必死に働かせながら、何とか右脳だけで足を前に進める。

 嵐のような脳内とは裏腹に、顔面は自然と無表情になる。

 このポーカーフェイスは、戦場で身につけた、自分自身を守る術だ。

 こんなところでも、防衛本能が働くとは。

 おかげで誰も、まさか僕の頭の中に下着姿の公女が居るとは思わないだろう。

 邪念と戦いながら、チラリと公女に視線を向けると、公女は真剣な顔で、前だけを見つめている。

 藍色の瞳に、長いまつげが影を落とす。

 僕の腕にほとんどぶら下がるくらい体重をかけているところからして、かなり無理をしたんだろう。

 一体執務室で何があったのか。

 公爵は、僕が定時連絡で報告に行っても、一度も公女の具合について尋ねたことはなかった。

 犯人の捜索を真っ先に打ち切ったのも、父親である公爵自身だった。

 あの時の眼差しに、心配の色も迷いもなかった。

 むしろ、犯人を知っているかのような、確信に満ちた表情に見えた。

「カーライル卿」

 公女が口を開く。

「はい。公女様」

「公爵閣下は、確か私が産まれた頃に、母方の実家であるマレ公爵家を継ぐことになったんですよね」

「そのように聞いております。亡くなられた先代公爵の体調が悪化したことも重なり、養子として爵位をお継ぎになったと」

「私の母親については、誰だかご存知ですか?」

「…いいえ。直接は存じ上げません。ただ…」

「ただ?」

「皇室のメイドで、出産と同時に亡くなったと聞いております」

「そうですか」

 公女は、他人事のようにそうつぶやき、再び黙った。

 失言だっただろうか。

 本来、下世話な噂話を、軽々しく口にすべきではない。

 しかし不思議と、公女にはありのままを報告したくなる。

「カーライル卿は、皇太子殿下が主催される舞踏会へは出席するのですか?」

 ハラリと黒い髪が揺れ、濃紺のまん丸の瞳が向けられる。

 自分の腕に身を寄せ、下から見上げる公女は、無防備でたまらなく愛らしい。

 僕は、表情の鎧をさらに強固し答える。

「皇太子殿下が、急遽一週間後に舞踏会を開かれることは、我々第三近衛騎士団長にも本日下りてきました。舞踏会当日、騎士団の半数は皇室での警備に加わることになるかと」

「そうですか。この舞踏会は、やはり急遽行われることになったのですね」

 公女は、考え込むようにして正面に向きなおる。

「本日、セバスチャン・ヴァレリア首席補佐官が、私に招待状を持ってきたんです。謁見を申し込んだお返事をいただけるのかと思っていたら…」

「まさか皇太子殿下は、公女様のために舞踏会を?」

「分かりません。一体どういうつもりなのか。とにかく、行って確かめるしかないようです」

 一週間後に舞踏会だなんて、この身体で?

「公女様、私に同行させていただけませんか」

「え?」

 公女が再び僕を見上げる。

「確かに、公爵閣下も騎士を同行するようおっしゃってくださいましたが、団長自らだなんて」

 公女は、慌てた様子で左手を振る。

「公女様、もうお忘れですか?…私は貴方の剣です」

 そう言って公女に向き合い、左手の甲を自分の唇に引き寄せ、軽く口づけをする。

 公女はピタリと動きを止め、湯が沸騰するようにふつふつと顔を赤く染め上げた。

「…っ!!あ、朝の…」

 ああ。

 まん丸に開いた瞳が、羞恥で濡れている。

 その瞼にキスしたい。

 可愛くて、愛おしくて、僕を少しでも意識してくれていることが嬉しくて、口元が緩む。

「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきます。カーライル卿はノアと親しいようですし、ちょうどよかったです」

 突然、聞き慣れた名前を公女の口から告げられる。

「ノアですか?」

 なぜノアの名前が?そもそも、なぜファーストネームで呼んでいるんだ?

 幸せで膨らんでいた心に、黒い靄がかかる。

「ノアが、私をエスコートしてくれるんです」

 公女が、嬉しそうに微笑む。

 そんな公女の笑顔に対し、僕は再び表情を失う。

「公爵閣下も、特に反対もせずに、そうかと…」

 弾む公女の声が遠のいていき、僕はじわじわと汗を掻く。

 華やかに着飾った美しい公女が、ノアの胸に身を寄せ、ほほえみ合っている。

 自分の意志とは無関係に、脳裏に浮かぶ情景に、湧き上がる怒り。

 この感情は何だ?

 目が回る。

 ノアは、申し分なく良い男だ。

 そして僕は、たかが伯爵家の嫡男であり、公女に忠誠を誓った騎士の一人に過ぎない。

 主人に対してこんな感情を抱くなんて、恥ずべき立場だということは分かっている。

 一生胸に秘める覚悟があるからこそ、あの時誓いを立てたんだ。

「カーライル卿?」

「はい、公女様」

 思わず、事務的な返事をすると、公女は僅かに肩を跳ねさせた。

「あ、申し訳ありません。一方的に話をして、不快でしたよね」

「とんでもないことにございます。参りましょう」

 僕にも分かるほど、気まずい空気に変わってしまった。

 こんな時ノアだったら…

 いや、僕に嫉妬する資格はない。

 ノアの騎士としての道を奪ってしまった、この僕には…




 涼しい風が吹く。

 視界に広がる優しい緑色。

 揺れる木漏れ日が顔に掛かる、完璧な朝。

 鳥のさえずりと、木の葉の掠れる音を聞きながら、焼き立てのクロワッサンの匂いに包まれる。

 素敵な庭で食べる朝食に、ずっと憧れていた。

 非番の当直員が、バタバタと身柄事件の書類をまとめている中、後ろめたいような気持ちでかき込む菓子パンじゃなく。

 チョロチョロ

 カチャ

「公女様。どうぞ」

 マリアが、いつもの紅茶を入れてくれる。

 だが、その手が僅かに震えていることに、私は気付いていた。

 それもそのはず。

 なぜなら私の眼の前で、公爵閣下が優雅に紅茶を召し上がっているのですから。

「食べないのか」

 私の視線に気づいたのか、公爵が口を開く。

「いただきます」

 私はニッコリとほほえみ、ティーカップに口をつける。

 こんな高そうな食器、初めて見た。

 公爵の後ろには、ガスパルに続き、見たことのないメイド達がズラリと並んでいる。

 昨日初めて足を踏み入れた西館。

 そんな公爵の邸宅に、朝食をと誘われたのだ。

 見ず知らずの父親との会話。

 誰か教えて。

 そうだ、取り調べだと思えばいい。

 刑事は被疑者と初めて対面する時、いきなり確信には触れない。

 まずは人間関係、つまりラポール形成に努めるのがセオリーだ。

 当直時間帯に逮捕され、一晩留置された被疑者に掛ける言葉は…

「昨晩は、ゆっくり眠れましたか?公爵閣下」

 私は、エイヴィルの美しい顔をめいいっぱい活かした完璧な笑顔を公爵へ向けた。

「…」

「…」

 何か間違えただろうか。

 沈黙に、ダラダラと汗が吹き出る。

「記憶が戻ったのか」

「え?なぜそのようなことを」

「私のことを、爵位で呼ぶからだ」

 …どういうこと?

(お前は記憶を失っているのだろう。私を父と呼ぶのか)

 あ、呼び方…

「いいえ。まだ記憶は戻っておりません。以前の私は、閣下のことをどの様に呼びしていたのでしょうか?」

 公爵の後ろに立つ、ガスパルの表情が一瞬歪んだのを、私は見逃さなかった。

「お前が私を何と呼んでいたのか、私には分からない」

 え?

 どういうこと?

「そうですか。では、どの様にお呼びすればよろしいでしょうか」

「好きに呼ぶと良い」

「では…昨晩のように、お父様とお呼びしてもよろしいですか」

「ああ」

 公爵が柔らかい笑みを浮かべる。

 これは、喜んでる?

 どうやら、二択は正解したようだ。

「ありがとうございます。誰のことも分からず、とても不安でしたの」

 私の髪が、風に揺れる。

 今日はマリアが、緩くハーフアップに結ってくれた。

「そうか…。ずっと会いに行くことが叶わず、申し訳なかった」

 真剣に謝罪する公爵の水色の瞳に射抜かれ、どこか居心地の悪さを感じる。

 公爵の顔に掛かる木漏れ日が、優しく揺れる。

 心からの謝罪だと分かった。

 てか、後ろでガスパルが泣いている。

 隣りにいる年配の女性が、メイド長だろう。

 泣いてるどころか、泣き崩れてるけど…

「クロワッサン、とてもいい匂いですね。いただいても?」

「ああ」

「お父様も、一緒に食べましょう」

「ああ」

「あの青い花は何ですか?とてもキレイですね」

「ケシだ」

「え!ケシなのですか?」

 ケシって、アヘンだよね?

「ああ。気に入ったのか」

「…お父様の瞳の色の様で、とても素敵です」

「そうか」

 二人でほほえみ合う。

 この人になら、何を言っても許してもらえるような気がした。

 それはつまり、私を心から好いてくれているということ。

 それならなぜ、あの日会ったエイヴィルからは、虐待を受けている子供に受けるのと似た印象を受けたのだろう。

 愛情を知らず、自己肯定感が低いのを隠すために、精一杯壁を張る幼い少女…

「閣下、そろそろ」

 ステファン先生が、そっと公爵に声を掛ける。

「ああ」

 公爵は、口元にナプキンをあてると、テーブルに乱雑に置き、私に視線を向ける。

 私は、挨拶をするため、立ち上がろうとする。

「そのままで良い。必要なものがあれば、私に言いなさい」

「ありがとうございます」

 公爵が背を向けると、脇に控えていた、近衛騎士団長とは違う隊服の騎士が二人、後ろに続いた。

 権力を、当たり前に行使する姿に胸がときめく。

「カッコいい…」

 私が思わずつぶやくと、最後に公爵に続いたステファン先生とチラリと目があった。


「公女様も、お食事を終えられますか」

 マリアがそっと耳打ちをする。

 後ろを振り返ると、無表情のカーライル卿の姿が目に入った。

 私は公爵との朝食に、マリアとカーライル卿を同行した。

 昨日、急に不機嫌になって…。

 今も何となく気まずい。

 外国人のスキンシップとかコミュニケーションは、良く分からない。

「ううん。最後まで食べてから帰る。カーライル卿、よかったら一緒にどうですか」

 私は、できるだけ無邪気にカーライル卿に声をかけた。

「ありがとうございます。ですが私は既に朝食を済ませております」

 ですよね。

「残念です。そういえばマリア、朝刊は?」

「お部屋にご用意しております。公女様のお気に召す出来となっていますよ」

「それは楽しみ」

 さっきまで味がしなかったクロワッサンが、最高に美味しく感じた。

 コーヒーがあれば、言うことないんだけど。

 岡部長が、微笑みながらコーヒーを差し出してくれる姿を思い出した。

 何だか、ひどく昔の出来事のように感じた。




「ただいまー」

 私は、自分の部屋の扉を開けながら、子どものようにそう言った。

「ふふ。おかえりなさいませ公女様」

 後ろに続くマリアが、ちゃんと拾ってくれた。

 カーライル卿は、無言でドアの前に詰める。

 部屋に入ると、ふわりと花の香がした。

 ベッドの脇に、水色の花が飾られている。

 あれは、さっき公爵と話したケシ…もう飾ってくれている。

 そっと、可愛らしい花びらに触れる。

 こんな方法で、誰かの想いを受け取るなんて初めてだ。

「素敵…」

 私は、部屋に飾られたエイヴィルと公爵の肖像画に目を向けた。

 ふふっと、マリアが微笑む声が聴こえた。

「公女様。こちらに」

 振り返ると、マリアがテーブルの椅子を引いて待っていた。

 テーブルには、ズラリと朝刊が並べられている。

「お茶をご用意いたしますか」

「お願い。あと、イザベラを呼んで」

「かしこまりました」

 私はゆっくりとテーブルに付く。

 どれどれ。


 衝撃的な情景が一面を占めている。

 エイヴィルが腰から血を流し、廊下に倒れている、あの絵だ。

 思った通り、イザベラの絵にはとんでもない説得力がある。

 私は、ジェームス・フランクリン氏と、アルフォンス・リノ氏の二人に、事件概要と共にイザベラのスケッチを渡した。

 エイヴィルが何者かに殺されかけたこと。

 そのことは決して、下世話な噂話として、白い歯を見せて語るべき娯楽ではない。

 許されざる犯罪行為だと、帝国に知らしめたかった。

 それだけではない。

 警察から発表される事実は、裏取りがなされた、確実な情報だけだ。

 当然真実のみで、嘘はない。

 だが、「全て」の情報を公開するわけではない。

 世間にどんな情報が伝わっているかを正確に把握することは、捜査員にとって重要な仕事の一つだ。

 優しいノックの音が響く。

「公女様。イザベラです」

「入って」


「公女様にご挨拶申し上げます」

「顔を上げて。イザベラ、これを見て!」

 私は笑顔で手招きする。

「え、これは」

 イザベラが、両手で口元を押さえる。

「一面、イザベラが描いてくれた絵よ」

「信じられません。ですが、公女様のこんなお姿を世間にさらすだなんて…」

「これは、エイヴィル・デ・マレの名誉のために必要なことなの。それに、新聞から得られる情報は大切なの。例えばこれ」

 私は、皇室派の新聞を指差す。

【皇太子殿下が主催される初めての舞踏会】

「これは…」

「公爵家の置かれた立ち位置がよく分かるでしょ。仮にも皇族の公女である私が殺されかけたのに…」

 公爵と皇帝との関係は、決して良好ではないということが、これではっきりした。

 私が考え込んでいると、イザベラが様子をうかがうように尋ねる。

「あの…公女様。この舞踏会に参加されると伺ったのですが…」

「え?ああ、そうよ。6日後ね」

「なんてこと!このこと、マリアさんには…?」

「そういえば、まだ言ってなかった」

「そ、そんな…マリアさーん!」

 イザベラが、赤い顔で目を回しながら部屋を出ていった。

 私は、そっと記事に触れる。

 こんな凄い絵を描いたのが、あの子だなんて、誰が想像できるだろう。

 イザベラの真っ赤な顔を思い出し、一人微笑んでいると、突然ドアが開く。

「公女様!」

 今度は真っ赤な顔の、マリアが肩で息をしながら近づいてくる。

「ま、マリア?なんか怒ってる?」

「なぜ、舞踏会の事を秘密にしていたのですか?」

「秘密にしてたわけじゃないの。ただ、言うのを忘れてただけで…」

「忘れてた!?あと5日間しかありませんのよ」

「ご、ごめんなさい」

 私は笑ってごまかした。

「こうしてはいられません。きっとどこの衣装室もてんてこ舞いでしょうが、そこは私にお任せ下さい。エイヴィル・デ・マレのドレスを仕立てられるとなれば、志願者は列をなすでしょう。問題はエスコートをどなたにお願いするかですが…」

「あ、それなら、ノアがエスコートしてくれるみたい」

 私は、マリアにからかわれると思って、わざとおちゃらけた感じで告げた。

「ウェールズ卿ですか!それは良かったです。では、ウェールズ卿の衣装も仕立ててもらえるよう、衣装室は公爵邸へ招くことにしましょう。あとはダンスですが、公女様はお怪我をされているので、お誘いを断る言い訳としては申し分ありません。後は参加者リストを入手して…あ、皇太子殿下への贈り物を…」

 公爵といいカーライル卿といい、なんでみんな、私がラーメン屋さんと舞踏会に行くことに反対しないんだろう。

 そんな事を考えてたら、何だかノアに会いたくなってきた。

 バタバタと走り回るマリアとイザベラの目を盗み、ドアの外に顔を出す。

 カーライル卿は、別の団員と話をしてる。

 チャンス。

 私はハイヒールを脱ぎ、裸足で足早に部屋を抜け出した。

 痛みを和らげる呼吸方法と、体重を分散させる歩き方を駆使して。

 ノアの顔を思い浮かべたら、何だかウキウキしてきた。

 案外私は、この世界で心細いのかもしれない。

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