第6話

「ノアぁぁぁあ」

 夕食の配膳をしていると、ズタボロの騎士達が宿舎に帰ってきた。

 特に傷だらけの二人を見つけ出し、声を掛ける。

「今日の生贄はお前らか」

 冷やしておいた濡れタオルを差し出すと、目に涙を浮かべた。

「団長ヤバイよ。変だよ」

「泣くなバカ。あいつのヤバさは今に始まったことじゃないだろ。帝国の宝が手合わせしてくれるなんて、光栄に思え」

 俺は仕事に戻るため、くるりと後ろを向く。

「違うんだよノア。相変わらず人間離れした強さだったけど、本当に変なんだ」

「変って、まさか…公女関係か!?」

 昨晩ジェレミーの部屋に行った時、様子がおかしかったのを思い出す。

 公女の話題になると、周りの団員たちが集まってきた。

「公女といえば、記憶喪失なんだろ」

「俺も見たけど、髪の毛が本当に真っ黒になってたよ」

「高飛車な雰囲気は相変わらずだったぜ」

「美人でも、可愛げがないんだよな」

「お前なんか相手にされねぇから、安心しろよ」

「で、その公女と団長に何があったんだよ」

「それが昼間、公女が団長の頬に触れてたんだ。何だか心配そうな顔してな。その様子を盗み見てたら、団長にものすごい顔で睨まれて…」

「で、稽古の相手に指名されたって訳か。しかしあの団長が、女に顔を触らせるとはな」

「俺達、その時から死を覚悟してたんだ。でも、血反吐を吐く訓練よりも、もっと恐ろしいことが起きたんだよ」

「な、何だよ」

 その場にいた全員が息を呑む。

「笑ったんだ…」

「えっ…?」

「団長が…笑ったんだ」

「…」

「なんだってーーーー!!」

 団員たちが大騒ぎする中、俺は声を発することが出来なかった。

 ジェレミーが笑っただって?

 ジェレミーとはアカデミー同期だったが、一度も笑顔を見たことがない。

 アカデミー史上最高得点で首席だと聞いた時も、ナイトの称号を与えられた時も、数々の令嬢に想いを告げられた時でさえ、ピクリとも表情を変えなかった男が、笑っただと?

「み、見間違いだろ」

 俺は、ギリギリ冷静さをひねり出す。

「いや、確かに笑った。微笑む程度だったけどな。しかも、俺達の身体を気遣って、優しい言葉も掛けてくれたんだ」

「な、なんて?」

 話の中心に居た団員が、土だらけの顔を必死に整え、髪をかきあげながら声色を変える。

「きちんと治療を受けろ」

 沈黙が流れる。

「ワハハハ。似てねえな」

「嘘つけ。戦地で前団長の足を切り落とすお方だ!お前のかすり傷を気遣う訳ねぇだろ」

「団長の二つ名を忘れたのか!鮮血に染まる赤い狂犬だぞ」

 団員達の笑い声が響く中、俺だけが笑えない。

「…だめだ」

 俺は、似てないモノマネをした団員の胸ぐらをつかんだ。

「おい。公女は今どこに居るんだ」

「ど、どうしたんだよノア。公女なら、部屋にいるはずだ。午前中無理したせいで、医師から絶対安静って言われたらしくて…」

 俺は、団員の言葉の途中で走り出した。

「おい、ノア!どこ行くんだよ!ノア」

 だめだ。あいつの努力が無駄になるのだけは。

「はぁ。はぁ。俺が、許さねぇ」




「マリア、もう一回言うから聞いててね」

「はい。公女様」

 私は、ベッドの上で咳払いを一つする。

「マレ公爵家長女、エイヴィル・デ・マレが、帝国の白き太陽、皇太子殿下にご挨拶申し上げます」

「素晴らしいです、公女様」

 マリアが笑顔で拍手を贈ってくれた。

「ありがとう。皇太子の前で噛んだら、格好つかないもんね。マリアの素敵なお辞儀も、傷が良くなったら教えてね」

「お任せください。…はぁ。私もついて行きたいですわ。一瞬でいいので、近くで皇太子殿下の麗しいお姿を拝見したいものです」

「だめだめ、危ないよ。でも、どうして皇太子は白き太陽なの?」

「それは、炎の温度に関係しています。皇位継承権の高いものから、高い温度を示す色で呼ばれるのです。皇帝陛下は、最も温度の高い青。その後に白、黄色、赤と続きます」

「なるほど。皇太子は、皇位継承権第一位だから、皇帝に次ぐ白色って訳ね。じゃあ、皇女様は何色なの?」

 マリアがポカンと口を開ける。

「いやですわ、公女様。女性に皇位継承権は与えられませんのよ」

 ふふっと微笑むマリアの笑顔を見て、胸にモヤモヤが広がっていった。

 その時、突然ドアが開き、私は肩を強張らせる。

「どなたですの」

 マリアの凛とした声に、緊張が乗る。

 ドアの前を警護していた騎士団員に、両脇を押さえつけられた男と目があった。

 男は頭にタオルを巻き、カフェエプロンを腰に巻いた、ラーメン屋の店員の様な格好をしている。

 白髪に近いシルバーブロンドが、ちょこんと後ろで結ばれていて、切れ長の目に映える、赤味がかった瞳は、私を真っ直ぐ睨みつけている。

 夕陽を顔面に受け、血のように濡れている。

 狼のような青年だと思った。

「ノア、やめろ」

 護衛にあたっていた騎士が顔を歪ませ、ラーメン屋の店員を羽交い締めにする。

「離せ」

 ノアと呼ばれた男は足をバタバタさせ、抵抗を続ける。

 このままでは怪我人が出るかもしれない。

「離してあげて下さい。話があるようですし、こちらへ」

「っは」

 ノアと呼ばれた男は、悪態をつくように笑い、騎士団員の手を振り払うと、私が腰掛けるベッドにズカズカと近づいて来た。

 よく見ると、左手の小指と薬指が欠損している。

「次はジェレミーをもて遊ぶおつもりですか」

「なっ、ウェールズ卿。いきなり部屋に入ってきて、公女様に何てことを」

「メイドは口を挟むな。お答えいただけますか、公女様」

 男は、真剣な顔で私に凄んできた。

「ウェールズ卿とお呼びすればよろしいですか。あいにく記憶を失っておりますのでお聞きしますが、私達は親しい間柄だったのでしょうか」

「いいえ。私はあいにく、公爵邸の悪女に心惹かれることはありませんでしたので」

 私は、ため息を一つついた。

「そうですか。先程の質問の意図が分かりかねます。カーライル卿が、どうかしたのですか」

「単刀直入に言わせてもらいますが、ジェレミーを誘惑するのはやめてもらいたい」

「はい?」

 まさかの回答に、思わず面食らってしまった。

「あいつは、女に優しくしたりできません。いや、しないんです。自分の意思で。常に非情な男でいないと…駄目なんです」

 ウェールズ鄕の顔が、赤みを帯びる。

「あなたのせいで、あいつが弱くなったら…。あいつの今までの努力が…」

 ギュッと両手を握りしめる。

 ウェールズ卿は、身のこなしや身体つき、警護にあたっていた騎士とのやり取りからして、元々は騎士だったのだろう。

 欠損した指から察するに、やむを得ず現役を退いた。

 そして、帝国の宝を呼び捨てにしているってことは、カーライル卿とウェールズ卿は親友…同期生ってところだろうか。

 その同期生のために、皇族の血を引く公爵令嬢の寝室に乗り込んできて、全力で抗議をするなんて…。

 …なんて可愛いの。

 胸がいっぱいになり、思わず微笑んだ。

「っな。」

 ウェールズ卿が、赤ら顔のままたじろぐ。

「な、何を。私を馬鹿にしてるのですか」

「いいえ。決して馬鹿になどしていません」

「っ…」

 ウェールズ卿は、私の反応にどう答えて良いのか分からないのだろう。

 目を泳がせている。

「貴方の言いたいことは、何となく分かりました」

「…」

「カーライル卿は、本来はとても優しい人物なんですよね。それこそ人を傷つけるたびに、胸を痛めるような」

 ウェールズ卿は目を見開き、ビクリと肩を震わせた。

「なっ。何で…それを…」

「カーライル卿を見た時から、ずっと違和感を感じていました。おでこの傷も、氷のような表情も、物々しい二つ名も、真面目で素直な彼には、全く似合っていなかったので」

「…」

「彼は騎士であるために、また騎士団長であるために、非情な男を演じているに過ぎないのではないかと、そう感じたんです」

(痛みは忘れてしまいました。残っているのは、怒りの感情だけです)

 カーライル卿の言葉を思いだす。

「そこまで分かってるのなら、あいつの邪魔をしないでください。あいつは、自分の感情も、表情も殺して、この帝国のために強さを追求してきたんです。悪女に尻尾を振ってるって噂されたら、騎士団長としてのあいつの立場が…」

「ウェールズ卿、いくら何でも言葉が過ぎます」

 マリアが言葉を遮る。

「っ…。お願いします。あいつには手を出さないでください。女にかまけて、あいつが弱くなったら…俺は…」

 ノアは、深々と頭を下げた。


 エイヴィルの数々のスキャンダルは、かなり衝撃的だ。

 カーライル卿が女性に溺れ、優しさを取り戻すのを心配しているのだろう。

 優しい人は弱いと、そう思っているんだ。

 こんなに必死になって。カーライル卿も、同期生に恵まれたんだな。

 ふと、岡巡査部長の笑顔が浮かび、鼻の奥がツンとした。

「私がカーライル卿を誘惑したというのは、全くの誤解です」

「えっ…しかし」

「カーライル卿は、私を殺害しようとした犯人の捜査に協力してくれているだけです」

「捜査…?」

 ウェールズ卿は、理解できないといった顔をしている。

「そして、カーライル卿が弱くなることは、絶対にありえません」

「なっ。あなたに何が分かるんですか」

 ウェールズ卿は、今にも殴りかかってきそうな勢いだ。

「正義の味方は、強くて優しい人だと決まってるんです」

「はぁ?」

 私は、得意気に微笑んだ。

 ウェールズ卿の頬が、少年のように赤くなった。




「公女様。今朝おくすりを塗りに行ったばかりなのに、なぜこんなにも出血されているのでしょうか」

 ウェールズ卿が乗り込んでくる数時間前。

 昼の爽やかな風が入り込む医務室で、ステファン先生がニッコリと微笑む。

「ステファン先生、眼鏡を掛けられたお姿も素敵です」

 ステファン先生は、措置をする手を一瞬止めた。

「はぁ。随分余裕そうですが、カーライル卿の判断が正しかった。すぐに連れてきてもらって良かったです」

 私は、チラリとドアの方を見る。

 抱きかかえられて医務室に来たあと、カーライル卿はすぐにドアの外へ出ていった。

 診察するには、肌を露出しなくてはならないので、配慮してくれたんだろう。

 何気なく医務室の中を見渡すと、本棚にビッシリと並ぶ資料が目に入った。

「あれは、第三近衛騎士団員のカルテですか」

「ええ、そうです」

 私は、昨日ステファン先生と交わしたやり取りを思い出した。

「近衛騎士団は、本来皇室を守る騎士団なのですよね?なぜ第三近衛騎士団だけ、公爵邸に詰めているのですか?」

「第二皇子であった公爵殿下が、マレ公爵家の養子になられ爵位を継がれた時、このような体制になりました。私にも深い事情は分かりかねますが」

「そうですか。紛争地域へ出向く前、カーライル卿はあのカルテを読まれたということですね」

「はい。熱心に見ていましたよ」

「私も、少し拝見できますが」

「カルテをですか。構いませんが…」

「もちろん、内容を他言することは致しません。これ以上の個人情報はありませんから」

「はは。いらぬ心配でしたね」

 警察官にとって個人情報の保護は、基本中の基本だ。

 ステファン先生は措置を終え、私を机に座らせると、カルテを持ってきてくれた。

「これが、カーライル卿が読んだカルテになります。紅茶をお淹れしますね」

「ありがとうございます」

 机には、私の想像をはるかに超える量のカルテが積まれた。

 これを全部頭に入れて、戦地に赴いたのか。

 パラパラとめくると、とてもきれいな文字で、団員の細やかな診療の記録が記されていた。

 ステファン先生、文字まで美しいなんて、本当に素敵。


 やはり、訓練での擦り傷や打撲、骨折といった外傷が多い。

 そして、不眠やPTSDのような症状も目に付く。

 この時代に、既に精神疾患は病気として認知されていたのだろうか?

 海外では普通なのかな?

 いずれにせよ、ステファン先生が優秀だということは、私にも分かった。

「随分集中されていますが、医学用語が多くて、読みにくくないですか」

 ステファン先生が、ティーカップを置きながら声を掛ける。

「ありがとうございます。カルテや看護記録を読み解く作業は、刑事にとって…」

 はっ。

 私は思わず口を押さえる。

「けいじ?」

「…申し訳ありません。少し記憶が混濁してしまったみたいで、どうぞお気になさらず。お紅茶、とてもいい香りですね」

「それは良かったです」

 医療過誤の事件を扱う際、証拠資料であるカルテや看護記録の読解に頭を悩ませていた事を思い出し、余計なことを口走ってしまった。

 カチャリとティーカップを置き、カルテに視線を落とす。

「これは…」

 長い間、外傷ではなく、内因性の不調を訴えている騎士の記録が目に付く。

 年齢も、他の騎士より高い。

「この方は、カーライル卿の前に騎士団長を努めていた方です」

「えっ」

(戦地では、元々団長をしていたベテラン騎士の足を切り落としたり…)

 つまり、この人の足を、カーライル卿が切り落としたの?

 いや待って。この症状…。

「ステファン先生。この方は、かなりの短期間で体重が減少してますね。それに、疲労感や身体のダルさが取れずに悩まれていた」

「はい。もともと、とても身体の大きな方だったのですが、原因が分からず」

「もしかして、視力の低下と、喉の乾きを訴えていませんでしたか」

「え?ええ。それに、よく手足が痺れると話していました。何故それを?」

 間違いない。

 これは糖尿病の症状だ。

 留置場で看守として勤務していた時、糖尿病を患った被疑者を数多く扱ってきた。

 長く薬物に依存していた被疑者は、糖尿病や高血圧を既往症としているケースが多いのだ。

 カルテを見る限り、前騎士団長はかなり末期の状態だったはず。

 ステファン先生の口ぶりからして、おそらく糖尿病は、この時代では認知されていない。

 当然、きちんとした治療法が確立されていないのだろう。

「そういうことだったんてすね」

「はい?」

「この方は、今は何をされているのですか」

「前騎士団長でしたら、現在この公爵邸の庭師として働いていたかと…」

(公爵邸には、皇室同様、優秀な庭師がおります)

「はは。あははは」

「…?」

 優しすぎでしょ、カーライル卿。



「カーライル卿、お待たせいたしました」

 公女が、医務室からヒョッコリと顔を出す。

 可愛い。

「とんでもないことにございます」

 感情を押し殺しながら差し出した僕の左手に、公女の小さな手が乗せられる。

「カーライル卿、先程のお庭を通ることは出来ますか」

「医師より安静にするよう言われております」

 先程医師が僕の元へ来て、公女の傷の状態を説明した。すぐにでも部屋へお連れしたい。

「少しだけ。少しだけで良いので、お願いします」

 必死な表情で、下から僕に懇願する姿が愛らしすぎて、とてもじゃないが断れない。

「承知いたしました」


「本当に素敵ですね。是非とも優秀な庭師さんにお会いしてみたいです」

 グレゴリー前団長の足から流れ出る、ドロっとした血液を思い出した。

「…彼は、足が不自由です」

「はい。知っています。カーライル卿が切断したのだと」

「…はい」

 公女にも、知られてしまったのか。

 いや、帝国でこの話を知らない者の方が珍しいんだ。

 遅かれ早かれ、必ず耳に入る。

「戦地に着いた頃には、壊死していたのではないですか。前団長のつま先は」

「え?」

 頭を、後ろから思い切り殴られたような衝撃だった。

 僕は、あまりの驚きに、完全に身体が硬直してしまった。公女は今、なんて言った?

「な、なぜ…」

 上手く声が出ない。

 ずっと使ってこなかった表情筋が、僕の目を無理矢理開き、喉を締め付ける。

「やはり、そうだったのですね。体調が悪いのを隠し、戦地まで赴いたということは…前団長は、死地を求めていたのでしょう」

 そうだ。前団長は死ぬ気だった。

 騎士として、帝国に命を捧げる覚悟の者に対して、僕は不敬を働いたんだ。

「足手まといを排除したまでです」

「…。他に、貴方が剣を突きつけた団員の名前を伺っても?」

「オーク卿と、ジャネスティング卿です」

「そう。その二人ですか…」

 公女は、じっと考え込んだ。

 彼らは、戦うことを恐れていた。そんな団員を一線に置くことは、騎士団の士気を下げる。だから排除したまでだ。

 実際、二人は先に帰還し、騎士団を脱退した。

 彼らの騎士としての人生を台無しにしたのも、この僕だ。

「カーライル卿、少し座っても?」

「かしこまりました」

 僕は公女を、庭園の真ん中にある、ガーデンソファーまで案内した。

「カーライル卿も座りませんか」

「いえ、私はここで大丈夫です」

 僕は、公女と横並びの位置で、同じ方向を向いて立つ。

 顔を突き合わせるには、動揺を上手く隠しきる自信がなかった。

「カーライル卿。上官にとって、最も大切なことは、何だと思いますか」

 公女が唐突に、ゆっくりと僕に問う。

「大切なことですか」

(ジェレミー、あなたの命は、この国のために捧げなさい)

 母の教えと、謁見の間で見た、父の冷たい表情を思い出す。

 騎士に必要なのは、己の命をも厭わない忠誠心。

 そして、上官にとって必要なのは、圧倒的な力だ。

 命を懸けた仕事に、馴れ合いは足枷となる。

 統制の取れた軍隊であるには、絶対的な統率者が必要なんだ。

 そう教えられてきた。

 そう信じてきた。

 これが、僕の存在価値だと。  

 だから僕は、戦地で役に立たない者たちを切り捨ててきた。

 彼等に恨まれても、狂犬と呼ばれても、僕は…


「カーライル卿。私は、上官にとって最も大切なことは、『部下を死なせないこと』だと思うんです」

「…!」

 庭園に、風が吹き抜ける。

「命を懸けて、第一線に立つ方にこんな事を言うのは、矛盾しているかもしれないのですが」

 公女が、僕に向かって微笑む。

 そして公女は、少し驚いた顔をして、穏やかに、また前を向いた。

「壊死した足は、切断する以外助かる方法はありません。心を病んでいる人達に、戦場はあまりにも過酷な場所でしょう」

 公女の黒髪が、さらりとなびく。

「カーライル卿、貴方のしたことは、上官として正しかったと思います」

 正しかった?

「…違います。僕はただ…」

 声が震える。

「カーライル卿が、額にその傷を負ったとき、感じたのは怒りではなく、死への恐怖だったのではないですか」

「…っ」

「その恐怖は、誰もが平等に抱く感情です。子供でも、騎士でも、健全な心を持った人は、必ず死を怖がる。私もいざ死を前にしたとき、抱えられないほどの恐怖に押しつぶされそうになりました」

 そうだ。

 本当は怖かった。僕は死ぬのが怖かった。

 怖ろしさに負けて、自分の背負っている物を全て投げ出し、その場から逃げ出す事しか考えられなくなった。

 僕は…

「その恐怖を知っている人は、誰よりも優しい人になれると思うんです」

 優しいという言葉に、拒否反応が出る。

「捨てるべきものです」

「いいえ。騎士団の使命は、この帝国のために死ぬことではありません。帝国民を、理不尽や不条理から守ることです」

「…」

「死の恐怖を知っているということは、他人の恐怖心に寄り添えるということ。その恐怖から、大切な人を守るためなら、きっと、今よりもっと強くなれるはず」

 公女は、懐かしむように庭園を眺める。

「優しいということは、強いということ。どうか自分の優しさを、誇って下さい」

 公女は、僕の方を見ない。

 凛と背筋を伸ばし、穏やかな表情で、自分に言い聞かせるように言葉を選んでいる。

 再び風が吹いた時、僕は自分の頬が濡れていることに気づいた。

「優しい貴方には、守る剣が似合ってます」

「…」

「あと、前髪は下ろしたほうが似合うと思います」

「はは」

 自然と笑えたのはいつぶりだろう。いや、泣きながら笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。

 爽快な風に吹かれながら、僕は、思いがけず手にした幸福を持て余していた。




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