第5話

 新聞記事を読み漁ったおかげで、この帝国の事が何となく分かった。

 ここレミラン帝国は、圧倒的な軍事力を保持していて、過去に四度、自ら大きな戦争を起こしている。

 その全てを勝利で飾り、領土を広げてきた大帝国である。

 そんな帝国の『青い太陽』と称される現皇帝は、三度の結婚を経験している。つまりバツ二だ。

 最初の皇后との間にできた子は、悲しくも死産だった。

 その責任を問われ、皇后は国に帰されたらしい。

 二番目の皇后との間には女児が誕生したが、皇后は出産時に亡くなってしまう。

 三番目の皇后には私生児、つまり連れ子が居るのだが、皇帝との間に実子は授かっていない。この連れ子が、例の皇太子、チェザレイ・マエル・レミラン皇太子殿下だ。

 実の娘を差し置いて、妻の連れ子を皇太子、つまり後継者にするなんて。

 皇帝は、血の繋がりよりも性別を重要視してるってことだろう。

 だが、貴族の中には、高貴な血の繋がりを重視する派閥も存在する。

 それに、皇太子自身が、皇帝と血縁関係にないことをコンプレックスに思っている可能性もある。

 そう考えると、皇太子からのアプローチは、エイヴィルの皇族の血を求める、政治的な意味もあるのかもしれない。


 にしても、エイヴィル。

 パーティーでは、婚約者のいる男性と堂々とキスをしたり、求婚してきた男性にワインをぶちまけたりと、二年前のデビュタント以降はやりたい放題だ。

 公爵邸の悪女は伊達じゃない。



「マリア。何か杖みたいな物はある?少し歩きたいんだけど」

「念の為に確認いたしますが、私が止めても聞かないということでよろしいでしょうか」

「はい」

 私は、やり慣れた敬礼で答える。

「はぁ。少々お待ち下さい」

 マリアは部屋の外に出ていったが…何やら誰かと話しているようだ。そう思っていたら、カーライル卿が部屋に入ってきた。

「失礼いたします」

 シャンシャンと剣を鳴らし、無表情で近づいてくる。

 私の目の前でピタリと止まり、片膝をつく。

「あー、ご苦労さまです、カーライル卿。交代の時間ですか?」

「いえ、公女様がお探しだと聞きまして、参りました」

 マリアが、遠くのドアからひょっこり顔を出して付け加える。

「杖です」

「いやいやいやいや」

 私はすぐさま否定する。

「私は昨日、新聞をたくさん読んで、レミラン帝国のことを勉強しました。圧倒的な軍事力を誇るこの国の中でも、英雄とされているカーライル卿を、杖扱いすることは出来ません」

 私はきっぱりと言い放つ。

「マリア!」

 マリアは優雅に歩きながら答える。

「私も公女様と同意見ですが、カーライル卿が自ら志願したのです」

「だからって、お忙しいでしょうし…」

「私の部下はみな優秀ですので、ご心配には及びません。今日はどちらへ行かれるのですか」

「うーん。確かに、二人にも一緒に来てもらいたいところではあるけど…」

 二人は、期待の色を浮かべた目で私の言葉を待っている。

 それが嬉しくて、私は口角を上げ、カーライル卿に右手を差し出す。

「ではありがたく。第一発見者の元まで、エスコート願えますか、騎士様」



 公女の小さな手は、右足に重心が移動するたび僅かに強張る。

 何てか細い身体だろう。 

 横に並んで歩くと、改めて実感する。

 この華奢な体で痛みに耐え抜き、自分の足で進んでいる。

 抱きかかえてしまうのは簡単なことだったが、それは公女の決意に対して失礼な気がした。

「とても綺麗な庭園ですね。誰が手入れしてるのですか」

 公女のことばかり見ていたので、自分が園庭を歩いている事に今気が付いた。

「公爵邸にも皇室同様、優秀な庭師がおります」

「へー。左右対称に、きちんと整理されている庭が好まれるんですか」

「おそらくは。貴族の庭は、どこも似ている気がします」

「そうなんですね。ところでカーライル卿、朝食は食べましたか」

 医師の言葉が頭をよぎる。

「…何故そのようなことを」

「いえ。朝早くから、私の部屋を警護して下さっていたようなので」

「とうぞ、私の食事の事はお気になさらず」

「あ、そうですよね。すみません」

「…」

 何となく、言葉選びを失敗したような、不安な気持ちが広がる。

 いや、僕はガッカリしているのか?ガッカリするということは、何かを期待していたということだ。バカな。

「カーライル卿?大丈夫ですか」

 僕は気付かないうちに、公女の言葉を聞き逃していたようだ。

 立ち止まり横を見ると、公女が僕のことを見上げている。

 可愛い。

「カーライル卿?」

「…」

「マリア!カーライル卿の様子がおかしいのですが、ステファン先生を」

「いえ、公女様。私は大丈夫です」

 僕は額の傷に手を添える。

 思い出すんだ、あの時を。僕は、帝国の騎士だ。

「ですが、この前みたいに顔も赤いですし、一度診てもらったほうが良いのでは」

 公女が僕の頬に左手を伸ばし、そっと触れる。

 公女の濃紺の瞳が近づき、僕の心臓が無邪気な子供のように暴れ出す。

 その時だった。

「ひぃっ」

「嘘だろ…」

 遥か後ろから、コソコソとした話し声が聞こえてきた。

 僕は、公女の左手に自分の手を添えて、ゆっくりと答える。

「ありがとうございます。では一度そういたします」

 少し離れてこちらを見ていたマリアの顔が、火が着いたように赤く染まる。

 僕の顔に、なにか問題があるのだろうか。

「はい」

 公女はホッとしたように微笑むと、再び僕の手を握りしめ歩き始める。

 公女が前を向いた瞬間、僕は話し声の主達に視線を送り、顔を覚えた。

 今日の手合わせの相手は、真っ青な顔をしていたあの団員達で決まりだ。



「公女様。こちらです」

 マリアが、とある部屋のドアの前で立ち止まる。

 ドアの上には『リネン』と表記されている。

「ありがとう。私に開けさせて」

 私はカーライル卿の手を離してドアの前に立ち、勢いよくそれを開け放った。

 バンッ

 中で作業にあたっていたメイド達が、一斉に振り返る。

 コツコツコツ

 沈黙の中、私の靴音だけが響く。

 私は背筋を伸ばし、部屋の中へ三歩進み止まった。

 傷口に激痛が走る。

 メイド達は、皆驚愕の表情を浮かべ、私を見ている。

 正確には、私の黒髪と藍色に染まった瞳を見ているのだろう。誰もがその場から一歩も動けないでいる。

「何してるの。みんな、公女様にご挨拶を」

 マリアの声掛けで、メイド達は一斉に動き出す。

「公女様にご挨拶申し上げます」

 メイド達は、両手でスカートを広げると、同じ角度でお辞儀をする。

 とても優雅で綺麗だった。

 公爵邸のメイド達のほとんどは、貴族の令嬢だとマリアから聞いていたが、確かにどの子も気品に溢れていた。

「……」

 えっと。

 こういう挨拶には、何て返せば良いんだろう。

 頭を下げたまま、誰も動かないけど。

 私はすがるようにマリアに目線を送る。

 すると、私の異変に気づいたマリアが、直ぐ様カーライル卿を肘で突く。

 カーライル卿と目が合う。

「皆、顔を上げろ」

 メイド達が一斉に顔を上げ、私の言葉を待つ。

 なるほど、こうやって声をかけるのか。

 ありがとう。カーライル卿〜。

「貴方は洗濯を担当しているの?」

「はぃっ。いいえ。私は…」

「その子は信書を担当しています」

 マリアが後ろから声を上げる。

「では、貴方はどういったお仕事を?」

「わ、私は別館の掃除を担当しております」

「そう。貴方は?」

「わ、私は…食事の配膳を担当しております」

「そうですか。ここはリネン室のようですが…」

「メ、メイドの休憩室も兼ねております」

「そう。とても広くて綺麗ね」

 私はリネン室の奥へと歩いて進みながら、メイド達一人一人に声を掛けていった。

 目があうと逸らす者、じっと見つめてくる者、エプロンを掴む者、唇を噛む者…

 メイド達の一挙手一投足に、神経を集中させた。

 そして、リネン室の一番奥で、誰よりもブルブルと震えている少女に行き着いた。

「この子がイザベラです」

 マリアが後ろから囁く。

 癖のある茶色い髪の毛を三つ編みにし、丸い眼鏡を掛けている。ソバカスと、透明感のあるオレンジ色の瞳がとても可愛らしい。

 赤毛のアンが実在したら、こんな感じかな。

「イザベラさん、私が倒れている所を最初に見つけてくれたのが、貴方だと聞きました」

「はっはい。左様で御座います」

 イザベラは、真っ青な顔で頭を下げる。

「その場所で、詳しくお話を聞かせてもらえますか」

「はい。かしこまりました。ご案内いたします」

 子犬のように震えている姿に、思わず笑みが溢れる。

 いけないいけない。

 第一発見者は疑わないと。

 私の決意を揺るがすように、イザベラは、ことごとくその辺の物につまずいたり、ぶつかったりして、一人で焦っている。

「ふふっ」

 マリアとはまた違った意味で、人間らしい子に出会えて、単純に嬉しいと思った。


「こちらです。三日前の朝、ここに公女様は倒れておいででした」

 イザベラが案内したのは、別館の廊下のど真ん中だった。

「こ、ここですか?」

「はい」

「なんの痕跡も残っていませんが」

「既にカーペットは、新しいものと交換済みでございます」

 マリアが誇らしげに答える。

「もちろん、血の付いたお召し物も処分済みでございます」

 この時代には、現状保存とか、証拠保全とか、そういう概念がそもそも無いのかな。

 思わず頭を抱える。

「はぁ。仕方ありませんね。イザベラさんの記憶が頼りです。具体的に、どういう姿勢で、どっちを向いていましたか」

「あ、えっと…」

「その時の私の着衣や靴は覚えてますか?それらの乱れ具合はどうてすか」

「え、えっと…その…」

「朝と言いましたが、正確な時間は?その時間だと認識した根拠は?」

 イザベラは明らかに動揺し、大汗をかいている。

 真っ赤な顔で目を回し、今にも倒れてしまいそうだ。

「イザベラ?」

 マリアが手を差し伸べようとすると、突然叫びだした。

「す、すみません。少々お待ち下さい」

 イザベラはくるりと向きを変え、物凄いスピードで走り去ってしまった。

 まるで、嵐が通り過ぎたように。

 私とマリア、カーライル卿が枯れ葉のように取り残される。

「ど、どうしたのでしょうか」

「あの子は、物事を言葉で説明するのが苦手といいますか…すぐにパニックになってしまうのです。一生懸命なんですけどね」

「そうだったんだ。配慮が足らなかった私の責任ね。もし、協力してくれなくなったら…」

 捜査は、被害者や目撃者等の協力なくして成り立たない。

 実際、被害者の心情に配慮しきれず、協力を得られなくなったこともある。

 過去の失敗を思い出し、モヤモヤが募っていく。

「大丈夫です。公女様」

 そっとカーライル卿が口を開く。

 私の沈黙を読んで、慰めてくれてるんだ。

 無表情だけど、やっぱりこの人…

「イザベラは、いつもおどおどしていますが、一生懸命なので、他のメイドから仔犬のように可愛がられています。それに仕事はとても丁寧なのですよ。特に、裁縫や生け花など、繊細な作業が得意です」

「子犬ね。分かる気がする」

 クリクリの目にまんまるメガネ。コロコロと全力で表情を変える姿は、まさに仔犬だ。

 私も既に、彼女のファンの一人になっているようだ。


 はぁはぁ

 可愛らしい仔犬が、獲物を抱えて走ってきた。

 あれは…スケッチブック?

「イザベラ。突然走り出すなんて、公女様に失礼ですよ」

「もっ……せんっ」

 はぁはぁはぁはぁ

「イザベラさん、大丈夫ですよ。」

 イザベラは、震える手でスケッチブックを差し出す。

「こっ…これをっ…」

 開けていいのかな。

 恐る恐るスケッチブックを開き、思わず声を上げた。

「えっ!これって!…凄い!」

「何ですか?」

「…」

 後ろから、マリアとカーライル卿が覗き込む。

「…凄い」

「イザベラ!あなた、こんな才能があったの!?」

 二人も驚きを隠せない様子だ。

 はぁはぁはぁはぁ

 当のイザベラは、息を整えるのに必死で、私達のリアクションは気にもとめていない。

 イザベラに渡されたスケッチブックには、白黒写真と見間違えるほど、リアルな絵が描かれていた。

 奥行きのある薄暗い廊下のど真ん中に、うつ伏せに倒れる女性。

 間違いなく、これは被害に遭った直後のエイヴィルだ。

 着ていたドレス、片足が脱げたハイヒール、右腰から溢れ出る血痕。

 髪の根元が黒色に変色している様子まではっきりと描かれている。

 言葉だけでは到底得られない『説得力』が、この一枚の絵には存在していた。

 あまりの衝撃に、顔面を思いきり殴られたような気分だ。

 私は、高揚する気持ちに押され、溢れ出そうな質問の数々を一旦飲み込み、ゆっくりとイザベラに話しかける。

「イザベラさん。これは貴方が描いたもので間違いありませんか」

「はい。私が描きました」

 イザベラは息を整え、深呼吸してから答えた。

「どういう状況で、これを描いたのですか」

「はい。公女様がお倒れになっているのを見つけたのは、三日前の朝でした。公爵邸が大騒ぎになり、その日は皆が走り回っていました」

「ええ、そうでしょうね」

「私も、周りの雰囲気に飲まれて、かなりの興奮状態にあったんだと思います。その日の夜はなかなか寝付けなくて、頭には…その…」 

 私は、イザベラの言葉をじっと待つ。

「こ、公女様が血を流してお倒れになっている、あの時の状況が何度も浮かんできて…」

「怖かったのね」

 マリアがそっとつぶやく。

「マリアさん…。そうです。怖くて。眠れなくて。だって、後ろから刺されてるなんて、明らかに殺人事件じゃないですか」

「公女様は生きておられる」

 カーライル卿が、イザベラを睨みつける。

「も、申し訳ございません」

 イザベラは半べそをかきながら、後退りして頭を下げる。

「カーライル卿」

 私は苦笑いを浮かべながら、カーライル卿の腕にそっと触れる。

「気にしないで続けて下さい」

「は、はい。その、怖くて眠れなかったので、いっそ頭に浮かぶ絵を、描き写そうと思ったんです。そうしたら、頭がスッキリするかなと…思いまして」

「つまりこれは、貴方が目撃したものを、そのまま絵にしたということですね」

「はい。そうです。幼い頃から絵を習っていたのですが、模写することしか脳がなくて、お恥ずかしいのですが」

 すごい才能の持ち主だ。

 見たものを、そのまま記憶する記憶力と、そんな鮮明な記憶をも、正確にアウトプットすることが出来る画力を持ち合わせているなんて。

 スケッチブックをめくると、全体の見取り図まで付いている。

 しかも、きちんと不動物からの距離まで記載されている。

 これは、充分に公判を維持できるレベルだ。

 警察官が作成する捜査書類の中で、最も証拠能力が高いとされているのが「実況見分調書」だ。

 実況見分調書は、警察官が五感の作用で得た情報を、一切の作為を加えず作成していることから、信憑性が高いとされている。

 そして、その実況見分調書を分かりやすく補填するため、必ず図面が添付されている。

 つまり、見やすさと説得力が、図面に求められる役割であり、その両方を、イザベラのスケッチブックは完璧に満たしているのだ。

「こちらの見取り図は、何のために作ったのですか」

「今回の件に対して、近衛騎士団の方から事情聴取があると思っていたので…。記憶が失われる前に、正確な時間や、公女様が倒れていた正確な位置、当時のカーペットや廊下の装飾品の状況を記録しておいたほうが良いと思ったのです」

 おまけにセンスもあるなんて。

 何て優秀なの。自分の鼻息が荒くなっていくのが分かった。

 だがふと、一つの疑問が頭に浮かんだ。

「カーライル卿。こういった場合、騎士団で調査をするのですか」

「はい。騎士団で事件の調査を致します」

「…私の事件について、既に調べているということですか」

「…いえ」

「調べていない?」

「…」

「何故ですか」

「…」

「答えて下さい。カーライル卿」

「…」

 カーライル鄕は、無表情のまま口を閉ざしてしまった。

 捜査にストップがかかる。それはまず間違いなく上からの圧力だ。

 私は、ずっと引っかかっていた人物の名前を口にする。

「マレ公爵。私の父親の指示ですね」

「…」

「返事がないので、イエスと捉えます」

 そう。肖像画を見た時からずっと引っかかっていた。

 なぜエイヴィルの父親は娘の安否を確かめに来ないのか。

 なぜ一度も姿を見せないのが。

 おまけに捜査にストップをかけるだなんて、どんな理由があるのだろう。

「申し訳ありません。公女様」

「カーライル卿が謝罪する必要はありません」

 一つだけ確実に言えるのは、多くの家族がそうであるように、マレ公爵家も、何かしらの問題を抱えているということだ。

「マリアさん。メイドの配置を変えることに問題はありますか」

 マリアは頭を下げて答える。

「問題ありません」

「では、イザベラさんを、マリアと同様に私の専属にしてもらえる」

「かしこまりました」

「えええ!」

 イザベラが、目を丸くして叫んだ。

「おい」

 カーライル卿が、イザベラを咎める。

「も、申し訳ございません。大変光栄でございます。ですが、私のようなのろまが、公女様の専属メイドだなんて…」

 私は、頭を深く下げているイザベラの前で両膝をつき、覗き込みながら両手を握った。

「イザベラさん。貴方には、捜査員の才能がある。どうか力を貸してもらえないかしら」

「こここ、公女様。私なんかのためにお膝をっ」

 イザベラは直ぐ様座り込み、私よりも小さくなる。

「あはは。私に立ち上がってほしかったら、是非とも首を縦に振ってもらえますか」

「もちろんでございます」

 イザベラは、壊れたおもちゃのように、首をブンブン振って答えた。

「私もイザベラって呼んで良いかな」

「はいっ。はいっ。光栄でございます」

「あははは…」

 ビキッ

 傷口に激痛が走った。

 ピタリと止まった笑い声に、空気が変わる。

「こ、公女様?」

 半べそのイザベラが顔を上げる。

「だ、大丈夫…」

 そう告げた瞬間、カーライル卿に抱きかかえられる。

「うわっ。ちょっ」

「…」

 カーライル卿は何も言わずに、物凄いスピードで歩き出す。

「カーライル卿!?」

 マリアとイザベラの姿があっという間に小さくなる。

「カーライル卿、どちらへ」

「医務室です」

「あっ」

 気づかれてたんだ。

 カーライル卿も、戦地で沢山の痛みに耐えてきたんだろう。

 おでこの傷が目に付く。

「…カーライル卿。その傷を負ったとき…痛かったですよね」

「痛みは忘れてしまいました。残っているのは、怒りの感情だけです」

「怒り…」

 何か違う。

 そうじゃない気がするけど、上手く言葉にできない。

「カーライル卿は、前髪を下ろしたほうがカッコいいと思います」

 ピタリとカーライル卿の足が止まる。

 …しまった。理由のわからないことを言ってしまった。そんな事が言いたかったわけじゃないのに。

 カーライル卿は、視線を前に向けたまま3秒間ほどフリーズし、再び歩き出す。

 まずい。…さすがに失礼だったよね。

「あの、決して傷を隠したほうが良いという意味じゃなくて、個人的な好みの問題というか…。とにかくすみませんでした」

「どうかお気になさらず」

 こころなしか、カーライル卿の足取りが緩やかになった気がした。

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