淡い灯火

志村麦穂

淡い灯火

 線香の束を持たされた小夜は、その臭いに、一日中嗅いでいたはずなのに居心地の悪さを覚えた。手で仰いで、勢いよく燃え上がりそうな火を消し止める。

「おばぁちゃんは? にこないんですか」

 玄関を振り返って、靴を履こうとしない明瑠あかるの母親の明子に問う。

「膝が痛いから行けないって。ふたりで送ってきなさい。友達同士、三人だけで話したいこともあるでしょう? 今日は一日忙しかったから、機会もなかったでしょうし、手伝いやってくれたから」

「いいんですか?」

 虫除けを腕と脚にふりかけていた美夕みゆうが食い気味に答えた。明子は素直さに微笑んだが、小夜はあからさまな態度に鼻を寄せた。

「すいません、気を使ってもらって」

「いいの。高校に入ってからは反抗期だったのか、親とは喧嘩してばっかりだったの。親よりあなた達とのほうがしゃべりたいでしょうし」

「そんなこと……明子さんのこと、感謝しているはずです。朝練の日にも、間に合うようにお弁当作ってくれるって言ってました。明瑠はズボラだったから、洗濯とかは明子さんがやってくれてるんだろうなって。あの子に任せてたら、ユニフォーム入れっぱなしのこともあったし」

「そうそう、女の子なのに、靴下とかくっさいのよ」

 明子さんもすっかり小さくなったな。小夜は影の深くなった笑みに、静かに息を吐いた。この親不孝者め、と誰にも聞こえないように呟いた。

「私が線香持とうか?」

「だめ。みゅーに任せると、叢のなかにも置いたりするでしょ。最近は火の始末にもうるさくなったんだから」

 じれていた美夕に促されて、夜道をふたりとひとりで歩き出す。小夜は寂しそうに手を振る明子さんにうなづいて、庭を出たところに線香の束から二本引き抜いて路端に置く。暮れかけた夏の夜に、淡い灯火が落ちる。

 小夜と美夕はしばらくの間、無言で歩いた。庭先から砂利の敷かれた私道を抜けて、舗装された通りに出るまで、どちらも口を開かない。小夜と美夕がふたりだけになるのは、実に一年ぶりのことだった。一年前の、明瑠の葬儀以来、ふたりきりになったことは一度もなかった。

 通りに出て、反射板の付いたポールのたもとに、また二本、線香を置く。

「ここ、道路きれいになったんだね」

 美夕の呟きをかき消すように、広くなった道路をスピード超過で通り過ぎる軽ワゴン。

「田舎のくせに道が広くてきれいなのがいけない。なまじ見通しが効くから、油断してスピードをあげすぎるんだって」

 小夜は、思い出さずにはいられなかった。

 明瑠の葬儀のあと、花を持って事故現場まで足を運んだこと。畦道と国道の交差する場所で、信号はなかった。歩道にガードレールはなく、田んぼに囲まれた現場は見通しがよかった。そんな場所で事故が起こったなんて信じられなかった。

 だから、と小夜は意を決した。言わねばならない、と。

「あの道……明瑠が轢かれた場所。おかしいと思った」

「どういうこと?」

 小夜は問い返されたあとで、一呼吸だけ待った。無言の空白が落ちた間も、ふたりは歩き続けていた。けして狭くはない歩道を、並ばずに歩く。

「おかしいと思わなかった?」

 小夜はもう一度だけ問い直した。美夕の、高い背中と、刈り上げられた項の境目を睨みつけた。

「いや。なに?」

 美夕は彼女を振り返らない。

「事故の場所は明瑠の家と反対方向だった。あの日はあんたら女バスの試合の日で、引率の先生が学校のマイクロバスで連れてった。私は朝に、校門から送り出したんだ。県大会の決勝だって、絶対インターハイいけよって、これで最後にすんなよって。だから、帰りもマイクロバスで帰ってきたはずなんだ。そうでしょ?」

「そうだよ。高校まで送ってもらって、顧問の先生がアイスとか奢ってくれて、みんなで泣きながら食べた。くやしかったな〜、あと五分あれば詰められた。相手は強豪だったけど、勝てないほど実力差が開いてたわけじゃなかった。明瑠が一番悔しかっただろうね。身重差を覆すために、誰にも負けない練習量を積んで。あの子が一番スリーポイントの精度が高かった」

 美夕は懐かしむように語る。空でシュートをしてみせる。

「動画でみたよ、決勝の試合。明瑠にとって悔しい場面がいくつもあった。どんなに頑張っても、シュート精度が高くても、身長の高い相手に阻まれる。素人目にみてだけど、明瑠のシュートにこだわったせいで負けたようにみえた」

 小夜は試合の動画を思い出す。一年前のことでも、よく覚えていた。引っかかりの多い試合だった。明瑠は前年までスタメンに入れていなかったノーマークの選手だった。努力以上に活躍の機会にめぐまれない子だった。それが三年になり、シュート精度をあげることでレギュラーを勝ち取る。だが、決勝で当たった相手は、それまでの試合で明瑠が打つことを知って徹底的にマークした。身長の高い選手を当てて、何度も明瑠の得点を防いだ。

 そんなことは明白だった、と小夜は考えていた。県大会の一回戦、二回戦での活躍を見れば、誰だって明瑠をマークしようと考える。身長差のある選手を当てる。対策もわかりきっていた。それだというのに明瑠には必要以上にボールが回ってきた。

「みゅー、あんただよ。明瑠にパスを出していたのは。自分で打てるチャンスがあったのに、なぜか明瑠にパスを出して打たせようとした。何度も。明瑠はさ、期待を裏切れないんだ。防がれるとわかっていても、信頼されたら応えようとしちゃう。パスされたら、あの子は打たなくちゃいけない。そんなこと知ってたはずでしょう?」

「私は下手くそだったからさ。背が高いだけで、技術はないし、スタミナはもっとない。明瑠ほど必死でやってきたわけでもないしね」

「だから? 自分の価値を譲ってやろうとしたわけ? スポーツ推薦の枠を、なんとか明瑠に譲ってやろうって?」

「そんなんじゃない!」

 ヒグラシの物寂しい鳴き声がふたりの間に流れた。風の凪いだ夕焼けに、線香の煙がふたりを押し込める。

「私は本当に、明瑠を信じていたんだ。明瑠ならなんとかできるって、格上にだって勝ってくれるって」

 美夕は足を止め、振り返らずに心情を吐き出した。明瑠の死後一年も経って、ふたりが気持ちをぶつけ合うのははじめてのことだった。

「自信がなかったのは私だよ。明瑠が決勝まで連れてきてくれた。私だけじゃどうにもならなかったのに、練習に付き合ってくれて、励ましてくれて、チームがキツイときに勝ち筋を作ってきたのはいつだって明瑠だった。それを信頼してなにがおかしいの?」

「おかしいよ。勝つ気がなかったとしか思えない。いいや、みゅーは勝つ気がなかったんだよ。あんたは早く負けてほしかったんだよ」

 美夕は怒りのあまりはじめて小夜をみた。頬をはろうと手を振り上げたが、小夜の視線に射止められて動きは止まる。小夜の視線はまっすぐに美夕を睨みつけていた。それはかつての親友をみる目ではなかった。

「試合中の過剰な信頼。不自然なパス回し。これがひとつ」

 そういって、小夜は束から分けた線香を置く。

「みゅー、あんたは気持ちが態度に出過ぎるきらいがある。感情的過ぎるんだよ、直線的で、あからさまで、自分のことしか考えてない」

「わかったようなこと言わないでよ」

「わかるよ。小学校から何年の付き合いだと思ってるの?」

 小夜は再び歩き出す。明瑠を送る川まで、まだ数分の距離があった。ふたりはけして長くはない距離をゆっくりと歩いた。

「事故の話を聞いたとき――明子さんの話では――運転手は対向車のハイビームのせいで気づくのが遅れたって。飛び出してきた明瑠を避けきれなくてぶつかった。視界が白くなって、目を細めていたせいだって。実際、ドライブレコーダーにも対向車がハイビームつけっぱなしで向かってくるのが映っていた。街灯もない田舎道だし、ハイビームつけて飛ばす車は少なくない。警察もハイビームを推奨してるぐらいだしね」

「事故だよ。事故だったんだよ。明瑠も眩しさで不注意に飛び出して、いまさらなんでそんなこと言うの? 悪いのは運転手じゃない」

 不注意か。小夜は、彼女のあまりの白々しさに鼻から息を漏らした。

「私、明瑠の遺体はみてないんだ。もう納棺されたきれいな顔しかみてない。事故にあったときの明瑠の格好までは聞いてないし、明子さんも明瑠の姿については詳しく言わなかった。思い出しちゃうからだと思う」

 小夜は美夕の言ったような、明瑠の不注意はありえないと思っていた。なんせ、車道にはハイビームをつけて走ってくる車がいたのだから。街灯もない暗さで、見通しが良い道で、ハイビームを見落とす歩行者がいるはずがない。

「明子さんははっきり言わなかったけど、明瑠は不注意の飛び出しなんかじゃない。明瑠は明確な意志があって飛び出したんだ。間違いなく死ぬ気でね」

 美夕が息を呑んだ。小夜はこの期に及んで、はっきり自殺だと言えなかった自分の弱さに唇を噛んだ。

「なんでそんなこと言うの? なんで私にそんなこと聞かせるの?」

 小夜は泣きそうな美夕を無視して、次の線香を道端に置く。

「ふたつめ。歩行者はハイビームを見落とさない。つまり、明瑠は事故死じゃない。そして、みっつめ」

 運転手が見落とした理由。対向車の白い閃光に照らされて、一瞬でも視界から消えた明瑠の姿。

 小夜は明子さんが運転手を悪く言わないことに気づいていた。おそらく、警察からなにか言われたのかもしれない。ドライブレコーダーには不注意では説明できないことが映っていたのだろう。ドライバーからは見えてなくとも、映っていたのではないか。脇で機を伺っていた明瑠の姿が。

「ここからは憶測だけど、確信のある憶測。女バスのユニフォームは白かった。明瑠は飛び出したとき、ユニフォーム姿だった」

 小夜は美夕をみた。彼女が口を開くのを待ったが、ヒグラシばかりが鳴いていた。

 これまでだ、小夜は意を決した。私たちの友情もこれまでだ。

「轢かれた場所はちょうど中間にあるよね。学校と東公民館の中間。公民館の隣にはさ、何年か前に整備された公園がある。バスケットコートがある。あんたたちが夜まで自主練に使っていた、バスケットコートがある。それで、東公民館は、美夕の家の、目と鼻の先だ」

 三年になってから小夜と明瑠は一緒に帰ることがなくなった。家は同じ地区にあるのに、行きも帰りもすれ違いが多かった。それはけして部活動の練習時間が違うためだけではなかった。

「大会前は特に多かったらしいじゃん。9時近くまで公園で練習して、晩御飯とシャワーまで美夕の家でお世話になって。美夕が教えてもらってるからって、明子さんが申し訳ないって言ってもあんたが付き合わせてた」

「そんな言い方って、ないよ。私たちは一生懸命練習してたのに」

「明瑠はそうだろうね」

 いや、そうじゃない。小夜は自分の気持ちがにじみ出すのを感じた。言葉には感情がのる。言葉遣いは自然と美夕を刺し殺そうとしている。小夜は自ら、その行為を許そうとしている。

「あの日も負けたあと、学校に帰り着いたあとで、あんたらふたりは公民館に向かった。相手校の選手、明瑠のブロックについてた子。美夕とほとんど同じらしいよ、身長。178センチ。打てなかったシュートを打ち直すには、悔しかった気持ちを晴らすには十分だ。明瑠なら、考えそうなことだよ」

 小夜は思い浮かべる。負け試合のあとで、公民館でふたりは練習していたはずだ。ユニフォームに着替え直して、決めることができなかったシュートを、ワン・オン・ワンでやり直す。気持ちに整理をつけるために。

「明瑠が死ぬ直前まで一緒にいたやつがいた。そいつは明瑠の死について、なにも言わなかった。明瑠が死ぬ前に、死を選んだ直前に、何かがあったはずなのに。明子さんは感づいていて、なにも言わなかった。でも、私はそこまであんたを許せていない。一緒にいたんだよ、あんたは。明瑠が死を選んだときに」

 なんなら死の瞬間さえも見届けたんじゃないのか、と小夜は疑っていた。

 ふたりは歩みを止めて向き合う。明瑠を送る川にたどり着いた。川向うの山際はすでに日が落ちて、夜闇に沈んでいた。

 小夜はうつむいているだけの美夕に対してこみ上げる感情を止められなかった。

 私が今、この女を殺すのだ。

 小夜ははっきりと自覚した。

「明瑠を殺したのは、美夕だ」

 それは事実ではない。

 事実ではないが、小夜のなかではそれが真実だった。

 雨粒がこぼれた。夕立が迫っていた。線香の灰が風にさらわれて舞う。

「あんたが明瑠に過剰に気持ちを傾けていること。事故ではなく故意に飛び出したこと。直前まで一緒にいたこと」

「それがなに? 確かに憂さ晴らしに付き合ったよ! でも、それだけじゃない? 明瑠は悔しかったんだよ。それで、涙とかで、泣いていたから車にも気が付かなかった。事故だよ。変な言いがかりはやめて。悲しいのはわかる、誰かに八つ当たりしたい気持ちも。でも、人殺しみたいな言い方は、明瑠にとってもひどいことだよ」

 小夜は二言目にはいい出しそうなことを想像した。証拠なんてないじゃない、と。

 私は探偵じゃない。警察でもない。欲しいのは事実じゃない。

 小夜はこんなものは身勝手な憂さ晴らしに他ならないと自覚していた。

「言い方が悪かった。あんた、あの夜、明瑠に告白したでしょう?」

 美夕が息を止めた。あれほど態度に出していて、隠していたつもりだったのか、と小夜は呆れそうになる。

「あんたはね、行動が極端すぎる。自分の気持ちに正直なのはいいことだよ。試合が終わるまで待てたのは褒めてもいい。いや、待てたとは言えないかもね。早く告白したいから、負けてほしかったわけだし。夏は短い。高校生活も終わりそうだった。スポーツ推薦枠が取れそうにない明瑠は受験しなくちゃいけなくて、美夕と進路が別れるのは間違いない。だから、あんたは焦ってた。焦ったうえで、二択を迫った」

 彼女らはみな、走り出したら止まれない性格だった。幼い頃は走る方向が同じで、それを嬉しく思っていたけれど、次第に向かう方向がすれ違い、気づけば距離が遠く離れてしまっていた。交差した直線が二度と交わらないように。彼女らの距離は離れていくばかりだった。

 小夜はその寂しさを言葉にはしない。

「付き合うか、さもなくば友達をやめるか。ね、誰が幸せになんの?」

 線香は短く、小夜は手元に火の気配を感じていた。別れの時間が近づいている。

「だって……だって、しょうがないよ。小夜はさ、拒絶される痛みを知らないんだ。友達で居続けるってことは、ずっとその痛みと向き合わないといけないってことなんだよ? そんなのさ、そんなのって残酷すぎるよ」

「別に当たり前でしょ。女同士じゃなくても、相手が男でも。フラれたら距離が空くなんてザラにある。気まずくなるのも普通じゃん。そんな覚悟もないんだったら、最初っから告白なんてするな」

「でも、死ぬなんて! 飛び出すなんて、思わないじゃん! それを、小夜はそれを私のせいだななんて言うの?」

 一年間押し込められ続けた叫びは嗚咽となって流れた。美夕の感情は、もはや言葉の形をとれなかった。溢れ出る感情のままに、子どものように。

 小夜は橋の欄干に足をかけ、川面を覗き込んだ。雨の少ない夏だったせいで水量が減っている。手元に残った線香を、流れのある場所に狙いをつけて放り投げる。

「私の勝手な憶測だけど……明瑠は美夕の二択を拒絶したんじゃないかって。友達で居続けるために。私たちには覚悟が足りなかったんだ。どうしようもなく、意気地無しで、気持ちばかりが大きくて、ほんとしょーもない」

 美夕には拒絶される覚悟が。明瑠には選ぶ覚悟が。

 線香の小さな灯火が散らばって、黒い水面に呑まれて消えた。

 小夜は深く息を吐いた。明瑠には感づかれていたのかもしれない、と。感づかれていたことに気付きながら、小夜は態度には出さなかった。伝える覚悟が足りなかった小夜は、素知らぬ顔で友達を続けるしかなかった。

「私だって同じだ。私だって、明瑠を殺したんだ」

 小夜にとって、それは小さな赤い灯火だった。小さな小さな熱だった。

 自らの指先で摘んで消してしまった。

 線香は消え、流れ、その痕跡を探すことはできそうにもなかった。

「バイバイ。もう帰ってくんなよ」

 来年の盆は帰省しないだろう。

 小夜はそう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

淡い灯火 志村麦穂 @baku-shimura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ