水晶宮の都 ③

 アントンは次の日、部屋のなかをすっかり片付けてから老人が置いていった眼鏡を手にした。

 家には鍵をかけ、だれか来ても出ないようにしてある。

 昨日のことは幻だったのか、もしかしたら最新のVR機器かもしれない。そのほうがまだ現実的な気がする。しかし妙にバカバカしい考えに思えた。

 アントンは意を決して、古めかしい眼鏡を掛けた。


 あたりの景色は一瞬にして変わった。

 やはり、砂漠の向こうに立ち尽くす壮麗な都が見えた。足を動かす。VRの世界なら、その場で足踏みをして移動するものだが、アントンはしっかり前に歩いていった。どこまで行っても壁にぶつかることがない。思わず走り出す。さらさらとした砂に埋まりそうになりながら、アントンは走り出した。本来ならもう壁を越えて、家の外まで出ているはずだ。けれどもそんな制限はどこにもなかった。

 砂の高台に立つとその景色がよく見えた。遠くに臨むその都市はやはり存在している。

 ああ、やはり、あれは幻などではなかった!

 アントンは壮麗な都に向かって歩き出した。砂の高台を滑るように降り、できるだけ靴の中に砂が入らないよう気をつけて歩く。足が埋まりそうになりながら歩く。周囲は湿気もなくからりとしているが、空はいつでも黄色く霞んでいた。太陽はぼやけて滲んでいるものの、暑さはやはり砂漠のようだ。せめてタオルか何かをかぶってくれば良かったと思う。周囲は見やすいが、ときに吹く乾いた風は砂を巻き上げ、そうなると目の前の景色はたちまち黄色く滲んでしまうのである。アントンは何度も巻き上がる砂に立ち向かった。眼鏡のなかにさえ砂が入り、口のなかに侵入してくる。乾きかけた口から必死に砂粒を吐き出し、指を突っ込んで小さな粒を出そうとする。乾いた喉が痛む。

 水晶の都が少しずつ近づいていた気がしたが、その道のりは遠い。アントンが思わず汗を拭うと、眼鏡が外れて途端に現実の部屋の中が現れた。

「はあっ、……はあっ……!」

 アントンは部屋の中心で全身汗にまみれて、砂粒を浴びていた。周囲を見回すと、何も変わっていなかった。時計の長針が二回りほどしていた。手に持った眼鏡を見る。途端に喉がぐっと痛み、咳き込む。たとえ何度も咳き込もうとも、眼鏡だけは守った。震える手で眼鏡をテーブルに置くと、一気にバスルームに向かって走った。洗面台の前に立ち、何度も喉の奥を洗って、その勢いのまま頭から水をかぶる。ただでさえ汗で濡れていた衣服が余計に濡れた。

 ――今日はここまでか……。

 アントンは落胆して、疲弊しきった体を休めることにした。

 シャワーを浴びて汗と砂を落としたあと、ソファに体を投げ出すと、本当に砂漠を横断したかのようだった。いや、確かにあれは現実なのだ。そうでなければ、現実に戻ってきた時にあれほど汗と砂にまみれているはずがない。

 あの砂漠を渡るのに、きっと何かが必要になるはずだと確信していた。


 アントンは少しずつ、この砂漠の世界での状況を観察することにした。まず次に眼鏡をかけた時に、自分がどの位置にいるのかを確認した。砂の高台が後ろに見えることを確認すると、進んだ分はきちんと更新されていることに気付いた。それこそゲームの自動セーブ機能のように。


 それから彼はまず、衣服から整えることにした。

 できるだけ砂漠に適した、頭からすっぽり覆うことのできる服を選んで身につけた。それから持ち物をどの程度持ち込めるかもいろいろと試した。最初のうちは凍らせたペットボトルや食糧を持ち込もうとしたものの、完全に体に身につけていなければあの世界に持ち込めないと気がついた。いざ眼鏡をかけ、持ち物を自分の足元に置き忘れたことに気付いて出鼻をくじかれることもあった。

 現実に戻る際に持ち物を日陰に隠して埋めておいたものの、次に出向いた時には何かの獣に荒らされていることさえあった。そんなとき、彼の心臓は跳ね上がった。ここにいるのは自分だけではないのだと否応なしに自覚させられた。もしかしたら他の人間もいるかもしれない。荷物は背負えるようにして、いつでも取り出せるようにした。

 最近ではハイキングやキャンプ用に様々な製品がある。アントンがそうした製品を買い求めたり助言を求めたりするのに、友人たちはとうとう眼鏡から外に出るようになったかとからかった。アントンは適当に返事をして、ちょっとね、と言った。

 だがそうした彼の努力をよそに、水晶の都への旅は単純なものではなかった。

 ここはただの砂漠ではなかった。時に砂嵐で隠れていることを余儀なくされ、時に空を横切る巨大な影に怯えることがあった。それは鳥ではなく、巨大な悪魔にも竜にも見えるような影だった。明らかにここは現代ではないのだと理解できた。巨大な豚のようなものがのっそりと目の前を通過していくのを、息を潜めてやり過ごさなければならないときもあった。

 眼鏡を外せばいいという考えは、そんなときに吹き飛んでしまう。もしかしたら安全な場所で眼鏡を外さなければ、向こうから奴等がやってくるのではないかという恐怖があったからだ。アントンの慎重さはそうしたところでも出ていた。

 おまけに砂漠は時間の進み方が違うようで、昼間に眼鏡をかけたにも関わらず、向こうは夜であることがあった。そんなとき、視界の悪い砂の向こうから何かの獣のような声がすることがあった。月明かりを頼りに進もうとしても何も見えず、そして正体のわからぬ獣の存在を感じてはそれ以上進むこともできなかった。そんなときこそアントンは慎重に眼鏡を外し、今日の探索を中止にせざるをえなかった。

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