水晶宮の都 ②

「あ……、こ、これは……!?」

 その不可思議な光景にアントンは自分の目を疑った。そうして目をこすろうとしてようやく眼鏡の存在に気がついた。ツルのない眼鏡の存在に、アントンはハッとした。フレームの部分を掴むといとも簡単に取り払われ、それと同時に目の前の荒野と水晶の都市はたちまちのうちに消え失せていた。アントンは呆然と立ち尽くし、テーブルの向こうにはさきほどのあの小汚い老人が――ムスタヴィ老が感慨深い目で自分を見上げていた。現実に戻されたアントンは、混乱と気恥ずかしさのままにソファに座り込んだ。

「す……、すまない。いま……、いま……」

「そうですか。あなたさまは見ることができたのですね」

 ムスタヴィ老はなんとも言いがたい表情をした。

「その眼鏡は、眼鏡であることよりも、その水晶に価値がある代物でしてな」

「水晶で? でも水晶なんて……」

「それ自体は、不思議なことではありませんや。そうでしょう?」

 彼もさんざんだれかに話してきたことだ。

 もともと、眼鏡がいまでいう視力の補助として使われ出した頃は、リーディングストーンと呼ばれる石を使っていた。それは主に石英や水晶で出来たレンズで、ルーペのように文字の上に乗せて使っていたものだ。実際、現在でもレンズに水晶を使ったものは存在する。これもその一種だと言いたいのだろう。しかし、それでも。

「この水晶は」

 ムスタヴィ老はアントンを無視するように口を開いた。

「百年ほど前に、ある砂漠で発見されたものです。もともとはそれよりもずっと昔、砂漠に住んでいたとある魔術師が持っていたものでした。この時代に魔術師――などと言われるでしょうが、実際そう名乗っておりましたからな。実際、彼には違法な……殺人や、それこそ呪術を使用したといった嫌疑がかかっており、当時の警察が何度も探したといいます。ところがある日、突然彼は蒸発しました。家の中に残された物品はほとんどがガラクタばかりだったといいますが、金品の類は周辺の者たちによってあっという間に持ち去られてしまいました。そうして持ち去られたもののなかで、この水晶だけは特別でした。なにしろ本人が、この水晶は特別で、美しい都市へと向かうことができると公言していたのですからな」

「……」

 アントンは目を丸くしたが、ムスタヴィ老は構わずに話し続けた。

「多くの人々は信じておりませんでした。いえ、信じてこの眼鏡をかけたとしても、魔術師が言うようなものは見えませんでした」

「そ、それは……あなたも?」

「はい。わたしには見えませんでした。これをかけても、普通に見えただけです。しかし、この不思議な水晶を手に入れた人々のうち、わずかな人々は――なにかに魅せられたように、この水晶を手放すことはありませんでした。たとえ騙されていると説得されても無駄だったといいます。そのわずかな人々が言うには、美しい水晶の都市が見えていたと。もちろんその人々が、なんらかの精神的な病を患っていたという噂もあります。しかし実際のところ、彼らは何度も砂漠に足を踏み入れて実在しない都を探そうとしたり、むりやりに水晶を手放した後も、何かに後悔し続けるように過ごしたといいます。彼らには何が見えていたのか、わたしにはわかりません。しかし、もしかしてと思うのですが……、その都市とやらは砂漠にあったのではと思っています」

 アントンはもう少しで頷いてしまうところだった。

「わたしには手に余るものです。これはどうか、あなたが持っているべきものです」

 ムスタヴィ老はそう言うと、テーブルに置かれた眼鏡をケースに丁寧にしまってからもう一度差し出した。そのとき、アントンは差し出された手が震えているのを見た。もしかしてこのムスタヴィ老も、その都市を見たのではないだろうか。そうして彼の手に余ると判断して、この水晶の眼鏡を持ってきたのではなかろうか。いずれにせよこの不可思議な眼鏡を持て余しているのは事実のようだった。

「いや……、いや、ちょっと待ってくれ」

 アントンは自分の眼鏡をかけ、勢いよく部屋を飛び出した。そうして僅かばかりの金を包んで持ってきたとき、老人は既に荷物をまとめて外へと出ようとしているところだった。アントンは金を差し出したが、ムスタヴィ老は少しだけ嫌がった。アントンも口止め料として断固として譲らず、老人は青ざめながらも結局は礼を言って受け取っていった。

 アントンは老人が行ってしまったのを見送ってから、取り残された家のなかで深いため息をついた。なんとか自分を落ち着かせようとスーツのポケットに手を入れて、ギョッとした。ポケットの中にはどこから紛れたかわからぬ砂粒が入り込んでいたのである。あわてて自分のスーツを手で払うと、ぱらぱらと細かな砂粒が床に落ちた。真っ青になって髪の毛を触ると、砂粒のカリカリとした感触が爪に入り込んだ。あわててバスルームに駆け込んでシャワーを浴びると、タイルの上に砂粒が落ちていくのを感じた。

 ――あれは、まぎれもない現実だったのか?

 アントンの胸のうちでは、恐怖よりもまだ見ぬ冒険心と興味が上回った。なによりあの壮麗な都市が素晴らしいものに思えて仕方が無かった。

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