水晶宮の都

冬野ゆな

水晶宮の都 ①

 アントン・コムニーは子供の頃から眼鏡をかけていたので、彼の大きな特徴になっていた。

 必要があっての事だが、たまたま日本で安価で見栄えのする眼鏡が手に入ったおかげで、とびきりのお気に入りになったのだ。日本の漫画が何作か流行ったのも大きかった。漫画のジョークに倣って「眼鏡が本体だ」などと弄られていたが、アントン本人も容認していた。わざと眼鏡を外しておくと、みんなが慌てたふりをして「おい、どうしたアントン。何も言わなくなっちまった!」と眼鏡に向かって言ったりするのだ。そうして「僕はこっちだ!」とわざと怒ったりして楽しんでいた。とにかくアントンという男と眼鏡というのはほとんどイコールになっていたし、彼自身もまたそのジョークを好んで使っていた。

 だが、他ならぬアントンが奇妙な死に方をしたあのときから、友人たちはそういったジョークに対して強い拒否感を示すようになってしまった。


 とにかくアントンは自分自身でも、愛すべき特徴である眼鏡を好んでいた。自分専用の眼鏡はもとよりいくつも持っていたし、同時にコレクターでもあった。自国のブランドは限られていたから、特に日本を中心に、海外のブランドものや有名メーカーが出したものを中心にしていた。それだけではない。有名なデザイナーの最新作、アンティークの眼鏡、さらには世界的ロックバンドのボーカルがかけていたというサングラスから、高名な画家や宇宙飛行士がかけていたという眼鏡、そしてリーディングストーンと呼ばれるルーペの元祖に至るまで、こと眼鏡という枠組みのなかで様々なものを収集することに注力し、至上としていた。

 なかには有名な殺人鬼がかけていたという眼鏡まで存在した。以前、著名な殺人鬼マニアとの激闘の末に落札して勝ち取ったものだった。好敵手との緻密な攻防戦を誇らしげに語ったときは、友人たちは「こいつはもう本物のマニアにちがいない」と確信していた。

 そんなアントンだが、よく友人相手にはこんなことも言っていた。

「僕としては、早く拡張現実型の眼鏡が出ないかと思ってるんだがね」

 それを聞いた友人たちは笑ったものである。

「拡張現実の眼鏡か……、確かにまだゲームのVRもゴーグルだから、もっと手軽な時代がくるといいよな」

「漫画やアニメの世界にはまだほど遠いかな」

「ああ、でも、有名なスポーツ選手が最新型のサングラスをかけてるってのを見たことあるぞ」

 友人の言うそれは眼鏡というより眼鏡型の端末で、視界の片隅に心拍数やスピードなどが表示される代物だ。

 そんなとき、アントンはにやりと笑ってこう言うのだ。

「知っているよ。もううちにあるからね」

 そうして彼は、アスリートたちの最新型スマートグラスを手にして得意げに語るのだった。

 しかし一方で、アントンは心の底では古いものにも目を向けたいと思っていた。こればかりは市場に出回るのを待つしかなかった。新しいものはどんどん作られていくが、古いものはもうそこで終わりだ。骨董品や美術品のように、だれかが一時的に所有することはあれど、本当の意味で自分のものになることはない。ゆえに、アントンは古い眼鏡の方にも興味を持っていた。その性質を商人たちはよく知っていたのだろう。彼の家にはときおりバイヤーたちが出入りすることもあった。

 もちろん、ブランド店から最新モデルを持ってくる営業もいれば、有名なだれそれが使っていたというような逸話を持つアンティーク品やレア物を持ってくる古物商もいた。アントンは顔には出さなかったが、古物商たちを相手にするときはよくよく相手を見ていた。相手が詐欺の可能性もあって、たいてい騙せないと知るや引き下がるが、なかにはしつこくつきまとってくるようなのもいたからだ。アントンは古いものに手を出す反面、慎重に事を運んでいた。


 そんなときだった。

 ひとりの奇妙な古物商が接触を図ってきたのは、本当に唐突だった。

 彼は約束もないままアントンの家へとやってきて、チャイムを鳴らした。アントンはちょうど家にいて、暇を持て余しているところだった。まるで自分自身、チャイムが鳴るのを待っていたと言わんばかりの頃合いだった。それでも怪訝に思って「はい」と返事をすると、相手は古物商をしているムスタヴィだと名乗った。聞いたこともない名前だったが、これもまた運命だとばかりにアントンはドアを開けた。

「失礼。あなたさまが珍しいもののコレクターだとお聞きしまして」

 目の前に現れたのは老人だった。目には深く刻まれた皺があり、どことなく浅黒い肌に白い髭を生やし、ターバンめいた古い帽子をかぶった姿は、ホームレスと見紛うほどだった。上には真新しいオレンジ色のジャケットを羽織っていたが、そのちぐはぐさが余計に際立っている。おまけに持っていた大きな荷物もところどころすり切れている始末だ。

「すまないが、僕は眼鏡専門のコレクターでね」

「それならばあなたにとっても悪い話じゃありませんや。古い……、逸話のある眼鏡を持ってきたのです」

 こういった古物商はよく現れた。これは失敗だったかとアントンは思ったが、とにかくそのムスタヴィ老を家にあげることにした。

 眼鏡と聞いては、一度見てみないことには判断できないからだ。

 いままでだって、珍妙なものを持ち込んできた古物商はたくさんいる。それでも古いルーペを手に入れられたのは、そうした古物商からだ。実際に見てみないことにははじまらない。いざとなれば警察を呼べるようにもしてあった。

 アントンはムスタヴィ老を客室に通すと、挨拶もそこそこにさっそく持ち込まれた品を見てみることにした。テーブルを挟んで向かい合ったアントンは、見下した態度になってしまいそうなのを必死にこらえた。

「こちらです」

 古いケースの中から出されたのは、これまた古いタイプの眼鏡だった。よく知られた眼鏡とは違い、ブリッジも耳にひっかけるツルもない。ルーペ状のものが金具で固定されたような形だ。古いものではあったが、珍しいかと言われるとそうでもない。特にアントンからすれば見慣れたタイプでもあった。やはり見誤ったらしいとアントンは小さくため息をついたが、ムスタヴィ老は表情を変えなかった。

「わたしが説明する前に、どうぞ手にとってかけてみると宜しいでしょう。あなたさまがもしも本物だとするならば、いったいわたしがなにを持ち込んだのかすぐにわかるでしょうから」

「かけてみろって?」

 苦笑しながらアントンは眼鏡を手にとり、自分の眼鏡をとって隅に置いた。なにか妙なことにならないうちに、この老人を追い出す手段を考えようとした。

 だが、たちまちのうちにそんな考えは吹き飛んでしまった。

 アントンは目を見開いた。

 眼鏡をかけた途端、彼の家は取り払われ、ただひとり砂嵐の吹きすさぶ砂の荒野に立っていた。いや、実際にはとつぜん尻餅をついていた。さきほどまであったソファは無くなり、テーブルの感触も消え去っていた。ハッとしてなんとか立ち上がる。アントンは突然そこに放り込まれたように、熱波と風に晒されていた。靴の底にはさきほどまでいた絨毯の平たい感触ではなく、柔らかく降り積もった砂の感触があった。わずかばかりに足を動かせば、分け入るように砂の中へ足が沈む。吹き付ける砂嵐は体に当たり、小さな痒みのような痛みさえ与えてくる。それはすべて現実だった。たとえ老人がアントンに砂をぶつけていたとしても、視界までジャックするような技術を持ち合わせているとは思えない。慌てて、遠くの方を見る。どこまでも続く砂の荒野の向こう側に、なにかが突き出ている。石柱のようなものがいくつも天に向かっており、最初は石造りに見えたそれは明らかに都市のようだった。もっとよく見ようとすると、そこで砂嵐が一時的にやんだ。その向こうから現れたのは、美しい水晶の都市――かくも心をざわめかせる壮麗な都市がそびえ立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る