第11話 近くに居る人③
「ただいま…。」
今日は、裏口からではなく、表の事務所の方から家に入る。親にちょっと聞いてみたいことがあったからだ。
京香の父は、東野市で、小さな工務店を経営していた。表通りの正面の入り口には、「時屋工務店」という大きな看板が掲げられている。社長の父親の他に、従業員はたった一人だけで、マサさんという気のいい20代の若者だ。事務仕事は全て母がやっている。最近大きな仕事の案件を受注することは少なくなってきたと、父がこぼしていた。元請けから仕事を回してもらうことが多い、いわゆる零細の下請け企業というやつだ。
はぁ~と言って、事務所の丸椅子の一つに座り込んだ京香を見て、父親が心配そうに声を掛ける。
「どうした? 京香。」
母親は、事務仕事が忙しいのだろう、手を止めることなく、
「おやつならゼリーがあるわよ。昨日戴いたの。冷蔵庫に入ってる。」
京香は、うん、と返事をした後、
「あのさあ、簿記って知ってる?」
そう両親に尋ねる。
「えっ!」「えっ!」
両親が声を揃え、大きな声で反応したので、京香は戸惑う。しかも、母親は、さっきまで忙しそうにおこなっていた手元の作業を止めて、京香の方へ顔を向けた。口をあんぐり開けている。
「アレ? 私、何か変なこと言ったかな?」
父親が、まるで何かに感動したように、立ちあがって、
「お前!立派になったなあ! 父さんは嬉しいよ。お前がまさか、父さんの会社のことを考えていてくれたなんて!」
「え、え?」
京香が目を点にしているのを見た母親は、はぁ、な~んだと、ため息をつき、また仕事に戻ろうと、視線を業務用のパソコンに戻す。そして、それほど間を空けずに作業を開始する。視線は画面を向いたそのまま、立ち上がっている父親に向かって、
「あんた、ぬか喜びしちゃダメだよ。京香の顔を見なよ。そんなたいそうなこと、これっぽっちも考えちゃいないよ。おおかた、いつものパターンだよ。」
父親は、母親の忠告を受け、
「そうなのか? 京香、お前、簿記の資格を取って、うちの工務店の手伝いをしてくれるんだよな?」
「え、え? 私が簿記の資格を取ると、お家の仕事の役に立つの?」
「ほらね。」
母親がパソコンのキーボードをカタタタと打ちながら言う。父親は、静かに椅子に座り直し、
「そうか…。」
と、残念そうに呟いた。そして、一応理由を聞いておこうと思い、
「どうして、簿記に興味をもったんだ、京香?」
「ええと、あの、ちょっと…。」
京香が言葉を濁す。相変わらず仕事をしたままの母親が、
「お父さん、ちょっと考えたら分かるだろ、この子の行動なんか単純なんだから。どうせ雷二郎くん絡みの案件よ。」
京香は目を丸くして、
「どうして分かるの? お母さん!」
あのね…。そう言って、また仕事の手を止めて、京香の方を向いた母親は、
「いったい何年あなたの母親をやってると思うの? 京香がビアノを始めたのもそう。ピアノを辞めたのもそう。東校に行ったんだっておそらく…。」
「いいでしょ別に。何だって。それよりさっき、どうして、簿記の話をしたら、あんなに驚いたの?」
母親は、ああ、と返事をすると、
「簿記ってのはね。お店や会社の経理の仕事なんだ。まさに今、母さんがやってる仕事。」
「えっ! お母さんが!」
「そうだよ。どこの現場で何を買ったとか、軽トラックのガソリンがどうとか。ようは、仕事でお金を使った記録を付けるって思えばいいよ。」
「ふ~ん。じゃあ、お母さんも簿記の資格をもってるの?」
「そうだね。ただ、あんたが小さい頃は、紙でやってたけど、今はコレがあるからね。」
そう言って、パソコンをポンポンと叩く。
「無理に資格なんか取らなくてもいいかなって思うよ。で、雷ちゃんと簿記が、どう関係あんのさ?」
「雷ちゃん大学行かないって言い出してさあ。」
お父さんが、割り込んでくる。
「えっ! あの雷二郎くんがか! 彼が大学行かないで誰が行くってんだ?」
とっても小さい声で、京香がゴニョゴニョ言っている。
「え~と、あたしとか、ムガくんとかかな…。」
三島家では、雷二郎は、神童のイメージで通っていた。あながちそれは、ハズれではなかったが…。母親が先を促す。
「それで?」
「雷ちゃん、下妻のおじさんみたいな税理士になりたいんだって。で、高校のうちに簿記の資格をとるんだとかで…。」
「税理士!だったら、なおさら大学出た方がいいんじゃないか?」
さっき京香が屋上で抱いた疑問と同じ疑問を父親も浮かべたようだ。
「私も初めて知ったんだけど、税理士さんのとこで何年か働くと大学出てなくてもいいみたい。」
母親がそれを聞くと、少し複雑な表情を浮かべ、
「あの子…。それでいいのかな…。小さい頃からずっと、そんな大人みたいな考え方で生きてきて、高校生とか大学生とかって一番楽しい時期なんじゃ…。」
母親のその言葉に引きずられ、京香も考える。
(確かに雷ちゃんだから、当たり前みたいに考えてたけど…。雷ちゃんは本当はどう思っているんだろう…。)
父親も引きずられていたようだ。
「雷二郎くんが、野球続けててくれればなあ…。わが、東野ジュニア初の全国大会も夢じゃなかったのになあ…。もう一回やんないかなあ、野球。」
父親は、野球好きで、地元のリトルリーグのコーチもしていた。京香もあの頃、雷二郎の試合を見に行くのが、とても楽しみだった。
この話題も一段落しかけた感じがしたとみた京香は、自分の部屋へ行こうとして、靴を脱いで母屋の方へ通じる通路に足を掛けたが、何か思い付いたように、振り向くと、
「ねえ、お母さん。私にも簿記できるかな?」
部屋に戻った京香は、先程母親が口にしたからという訳ではなかったが、久しぶりにピアノが弾きたくなり。壁側にあるアップライトピアノの蓋を開ける。えんじ色の鍵盤カバーを寄せると、久しぶりに白と黒の配列が目に入る。ピアノの上に乗せてある楽譜の中から気分にあったものを見つけると、右手だけで初めの部分を弾き始める。
(ピアノを辞めたのも…。)
母親の言葉が蘇る。
そっかあ、お母さんは、気付いていたのか…。雷二郎が、ムガと暮らすようになってから、忙しい日々を送るようになり、以前のように京香のピアノの発表会に顔を出すことが減ってしまった。不思議なもので、そんなことが数回続いただけで、京香のピアノに対する情熱は、まるで、シャボン玉が弾けるように消えてしまった。母親には、
「私、ピアノに限界を感じちゃった。」
と、その時は辞める理由をそう告げたが、実際は雷ちゃんが見に来てくれない。それが一番の理由であった。
何だか右手だけの演奏では、物足りなくなってきた京香は、ピアノに正対し、きちんと左手を添えて演奏を開始する。少しブランクがあったにも拘わらず、京香の手は鍵盤の上を滑るように動いていく。
曲は、バダジェフスカの「乙女の祈り」 京香は、何を祈って弾いているのだろうか?
久々に仕事場に聞こえてくる京香のピアノの音色に耳を傾けながら、父親が、
「京香に簿記は向いていると思うか? ※早苗。」
時屋早苗・・・京香の母
そう京香の母に尋ねる。
「正直向いてないと思うわ…。でも、ピアノだって向いていた訳じゃないのよ…。」
父親はびっくりして尋ね返す。
「おいおい、こんなに上手なのにか?」
「ええ、あの娘は、けっして生き方が器用じゃない。時に人様に迷惑を掛けてしまうような短慮な面も見られる。ただ…。」
母親は父親の方を向き、
「あの娘には、自分が決めたことから逃げないという、馬鹿正直な面があるの。今回も、相も変わらず雷ちゃんの為みたいだけど…。多分合格するまでやり遂げると思うわ。」
「そうか、羨ましいな…。ここまで京香に思ってもらえる雷二郎くんが。」
母親が、そう発言した父親をじとーっとした目で睨んでいる。
「あなた、昔モテなかったでしょ?」
「はい? 何だよ早苗、藪から棒に。」
「雷ちゃんが、うちの京香を選ぶとは限らないのよ。まったく…。願えば恋が叶う!なんて、思っちゃあ駄目なんだからね。もし京香が雷ちゃんに選ばれなかったときのショックは、相当なもんよ。いい、その時はあたしたちでフォローするのよ!」
「そ、そうか…。確かにそこまで考えなかった…。早苗、お前、昔モテただろ?」
京香の母親は、にっこりと笑い、
「当然。」
そう答えた。
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