第26話 崩れはじめる砂の塔

---- 風北夏美 ・竜神雷二郎 小学5年生の夏


「あ、アレかあ。いやぁ~派手っていうか、何というか…。夏美ちゃん?」

濃い紺一色の制服、胸の真ん中には白い十字架マークの刺繍がちょこんと縫い付けられている。長いスカートの二人は、通りの向こうの家を見て思わず顔をしかめる。

「酷い…。可哀想…。」

並んで歩いていた夏美が足を停めてしまったので、仕方なく智里も足を停めて、その家を見つめる。二人が見つめるのは、この辺りにあるごく一般的な住宅の一つであったが…。その建物を取り囲む塀には、これでもかというぐらいの張り紙が、乱暴に貼られている。一部は敷地内に入って貼ったのであろう。住居の壁部分にも貼られている。そして、壁には張り紙の他、スプレーでの落書きも見られる。

「借りた金を返せ!」

「死んで詫びろ!保険金で払え!」

「早く家売れ、コノヤロ!」

など、借金の取り立てであろうという文面の他、

「ここの母親のホストに貢いでの借金です!同情不要!」

「ホスト狂いで!借りた金返さない家です。」

個人の事情をここまで書いてしまってよいものなのだろうか? 夏美が一向に動こうとしないので、智里は、

「ほら、夏美、行くよ! こんなことするのって、ヤクザとかじゃない? 鉢合わせしたらヤダよ。」

そう智里に声を掛けられた夏美は、うんと、返事をし、歩き始める。智里は話題を変えようと、

「そう言えば夏美、今度ソロパートやるんでしょ、聖歌隊の? あんた、背も高くて綺麗だし、映えると思うなあ。あ、歌も、もちろん上手だと思うよ。」

「ありがと。智里の方は? ボルダリングの関東大会、いいとこまで行けるって聞いたよ?」

「エヘヘ、そうなんだよ。でも、夏美もセンスあったから、続けても良かったんじゃない?」

「お父さんが駄目って。けっこうアザだらけになるでしょ、それ見て反対されちゃった。」

「おやまあ、大事にされてますこと!」


 仲良しの智里と別れた夏美は、自宅の門をくぐる。この辺りでは一、ニの邸宅の広さを誇る夏美の自宅は、門から住居までも少し歩く。ふと、二階を見上げると父の書斎に明かりが付いているのが見える。

「お父さん、いるのかな?」

この時間帯に、父がいるのは珍しかったので、夏美は、そんなことを考えながら家へ入った。

「ただいま。」

「あら、お帰り~夏美。」

母親の声が台所の方から聞こえる。

「お父さんいるの?」

夏美も台所へ聞こえるよう、少し大きめの声にして尋ねる。

「お家でお仕事だって。」

母親からの返事をもらい、父が在宅していることを知る。聖歌隊のソロのこと自慢しちゃおうかな? そう思った夏美は、自分の部屋に行く前に父の書斎を訪ねる。コンコンとノックをしてみたが、返事がない。

「お父さん、ただいま。お部屋にいるの?」

返事がない。ドアノブに手を掛けようとしたが、思い止まる。風北家のルール、「勝手にお父さんの部屋に入ってはイケナイ」を思い出したからだ。お父さんのいるときは、書斎に入ることも少なくはないので、夏美は、このルールの意味が、誰かが勝手に仕事場のものに触って、物が失くなると困るからだ。という意味で捉えていた。実際、父が不在の時は部屋に鍵がかかっていたし、夏美も勝手に入ろうなどと思ったことはなかった。ただ今日は何故か、もう、勝手に物を触って失くしちゃうような分別が付かない小さい頃とは違うんだから、いいよね! という感覚で、再びドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。


「クソッ! また今日もか!」

とにかく塀にある手の届く位置の張り紙を、出来るだけ剥ぎ取った雷二郎は、チャイムを鳴らしてから、玄関のドアを開ける。

「こんにちは、竜神です。ムガの母さんいます?」

返事はない。いつもと同じで、ムガの母親が不在と確信した雷二郎は、大きな声で、

「ムガ、いるか~?」

と、呼び掛ける。返事がない。えっ!ムガもいないのか? そう思いながらも、もう一度、呼び掛けると。微かに、雷ちゃんという声が聞こえた。散らかって物が散乱している廊下を器用に物を避けながら、声が聞こえた方まで行くと、二階へ続く階段の最初の段にうずくまって泣いているムガを見付けた。

「ムガ! どうした、ムガ!」

「お母さんが! お母さんが出て行っちゃった…。ウ、ゥゥ…。」

「また、帰って来るって。この前もそうだったろ?」

「違うの雷ちゃん。今日は手紙があったの、ボク、ウ、ボクにウゥ…」

ムガの嗚咽がまた激しくなる。雷二郎はムガの背中をさすりながら、

「ムガ、大丈夫だ。大丈夫だから!」

「雷ちゃん…。」

ムガの目から止めどなく流れる涙を見ていると、雷二郎も辛い気持ちになってくる。

「雷ちゃん…。ボクに、ボクに鈴木さんの家へ行けって、お母さんは、もう帰って来ないからって。そう手紙に…。」

「?!」

ムガからテーブルの上にその手紙が置きっぱなしだと聞いた雷二郎は、そこまで行き、ムガの母親が書いたという手紙の文面を読む。最後まで読み進めると、文末に。

「元気でね、ムーちゃん。」

元気でね、だと! どうしてそんな勝手なことがてきるんだ!!! 雷二郎の脳裏に昔のあるシーンが鮮明に思い出される。自宅の玄関。そして、明日香を連れた母親が家を出て行くシーンだ。

「じゃあ、元気でね、雷二郎。」

フザケルナ!!!

雷二郎は、ムガのところに戻ると、側に座り。

「大丈夫。大丈夫だから! 俺が何か考える。心配するな!」

どのくらいの間、そうしていただろう? ムガかようやく落ち着いてきたので、

「ムガ、電話は使えるか?」

と、雷二郎が尋ねる。その後、電気は昨日、電話はもうだいぶ前からが止められている事を聞かされた雷二郎は、

「ムガ、少し待ってて。下妻のおじさんに連絡して、いろいろ考えてもらうから…。一回家に戻って電話してくる。すぐ来るからな!」

そう、言い残して雷二郎は自転車に股がると、大急ぎで自宅へ向かう。父は今日もいない。東京で、またあの若い女の人と会っているのだろう。家に辿り着くと、先に京香の携帯に連絡する。ムガも雷二郎も携帯を持っていなかったが、京香はすでに携帯を持っていた。

「あっ雷ちゃん? どした~。」

「京香、頼みがある! ムガん家に行って、ムガの側に居てやってくれ。」

「そんなに慌てて、どうしたの?」

「ムガの母親が出ていってしまったんだ。今回は本当になんだ。もう戻ってこないと思う。」

「えっ!」

電話越しに、京香の母親の声が聞こえる。京香、そろそろピアノの時間よ。

「あたし…今日は…。うん。分かったよ。雷ちゃん。」

「悪いな京香。俺は下妻のおじさん連れて行くから、それまで頼む!」

「いいよ。雷ちゃんの頼みだもの。」


 下妻のおじさんを連れて、ムガの家へやって来ると、外壁にあった心無い言葉で溢れた張り紙は、綺麗にすべて剥がされていた。京香の自転車が止まっている。おそらく京香が全部やってくれたのだろう。

 その後、下妻さんが色々なことをムガに聞きながら確認し、丁寧に、この後の事を進めていくようだ。雷二郎と京香は、散らかっている家の中を一緒に片付けている。

「京香…。ごめんな。今日ピアノだったんだろ…。電話の時、お母さんの声が聞こえてた…。」

「いいのよ。雷ちゃん。たまにはピアノさぼりたいなあって思うときあるもん。それが、たまたま今日だったってこと。」

雷二郎は、それが嘘だということを知っていた。京香はピアノが大好きで、一度も休んだことがないことを。

「うちも母さんが出ていっちゃっただろ? だから、ムガのこと放っておけなくて…。京香にも迷惑かけちゃった。」

「大丈夫。昔から知ってるよ。だいたい雷ちゃんの言うことは、正しくて、それで、カッコ良くて…。」

最後のカッコ良くての辺りは、ほとんど呟くような声だったので、雷二郎には聞こえていなかったが、

「これからも、迷惑かけるかもしれないが、よろしくな京香。」

顔を赤らめた京香は、

「もちろんよ。雷ちゃん。」

「ありがとう。そういえば、家の回りの張り紙も全部取ってくれたんだな? オレ、急いでいたから、残して行っちゃって…。」

京香は不思議そうな顔をしている。

「えっ? 私じゃないよ。てっきり雷ちゃんがやったんだと思ってた…。」

「そうなんだ…。」

その時、下妻さんから声が掛かる。

「雷二郎、京香ちゃん来てくれ!」


ムガは泣き疲れたのか、自分の部屋で寝てしまっている。京香は、先程帰ったばかりだ。

「雷二郎…本当に出来るのか?」

「うん。ムガがここにいるには、それしかないんだろ?」

下妻は腕を組んだまま、

「義兄さんには、俺からも言ってみるが、そこまでしてしまったら、お前のこれからの生活は、かなり制約されてしまうぞ。それに、正直、ムガくんは他人だろ?」

「下妻さん。ぼくにとっては、僕を置いていった母さんや、東京であの人に会ってばかりの父さんより、ムガの方が家族みたいなもんなんだ。」

下妻は、何か否定する言葉を言い掛けたが、首を横に振って、それを取り止めると、視線を雷二郎に戻し、

「そうか…。お前ならやり遂げてしまいそうで、そう思ってしまう自分が恐ろしいんだが…。じゃあ、今から言うことをしっかり身に付けろ、まずは数字だ。いいか、」

その後、下妻さんから家計が破綻しないよう毎月の返済額や、それぞれの支出にはきちんとバッファを持たせることを教わった。それから、必ず自分に毎月の家計簿を見せることや、困ったことが起こったら、早目に自分に相談するよう約束も交わした。

下妻さんが家に戻るので、玄関まで見送りに来た雷二郎は、頭を下げ、

「僕の我がままを聞いてくれて、ありがとうございました。」

下妻は、頭を上げるよう雷二郎にいった後。視線を雷二郎から外し、

「ごめんな…。ほんとは俺が、お前とムガくん二人の面倒を見ればいいんだろうけど…。すまないオレは、麻央をきちんと育てて…。」

「下妻さん。大丈夫です。いざというときは、なりふり構わず母さんや父さんにタカりますから!」

笑顔の雷二郎を見ると、下妻も踏ん切りが着いたのだろう。

「じゃあ雷二郎、また!」

「はい。麻央ちゃんにもよろしく!」

下妻の後ろ姿が見えなくなると、ふうと一息付いて、ムガの部屋に向かう。この後、辺りは暗くなる。電気が止められたという昨日は、ムガは、どうしていたのだろう…。明かりの無い部屋で、一人で泣いていたのだろうか…。

 ムガの部屋にそっと入ってみると、ムガはぐっすり眠っているようだ。 起こして自分の家へ連れて行くべきか? それとも自分がここで一緒に眠ろうか? やっぱり起こすのは悪いな…。そう思った雷二郎は、カーペットの上に横になり、自分も目を閉じた。今日の雷二郎は、目一杯ムガのために駆けずり回っていたので、それなりに疲れを感じていた。程なくして、雷二郎もムガ同様、静かな寝息を立てはじめた…。

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