第10話 俺を信じた。俺の信じた。


「ぐあっ!?」


 人間とは思えないほどの怪力で、ルダンの身体が転がります。


「ルダン!」

「よそ見はよくないぞ」


 直後、腹部に衝撃。少しだけ遅れて、鈍痛。


「かはっ……!」


 私はうずくまってお腹を押さえ、何が起こったのか理解しようとします。見上げようとした頭が、後頭部の髪が、何かに掴まれたのがわかります。


「霊体の目では見えなくとも、生身があればこの通りよ」


 私の頭を持ち上げたのは、小汚いひげを蓄えたひょろひょろな老人の腕でした。霊王はその瞳を青白く光らせ、軽々と私を持ち上げていました。

 なるほど、先ほどまでの苦しそうな姿は、演技だったわけですね。


「今すぐ聖水をこちらへ渡せば、命だけは助けてやろう」

「魂を抜いて……ですか?」

「無駄口を叩くな」


 顔面に迫る拳骨。岩のように固い骨の衝撃が、私の頬骨にめり込みます。そのまま髪を放されて、私は殴り飛ばされます。チカリと明転する視界。気が付くと、仰向けに私は床に転がっていました。


「我は不死身なのでな、勝てるとは思わんほうが良いぞ?」

「随分、死にかけの演技がお上手で」

「ふむ、まだ足りないらしい」


 老人のつま先が、私の眼前に迫って、私はとっさに顔をそむけます。完全には間に合わず、側頭部を蹴られたのがわかりました。私の身体は回転しつつ、遅れて激痛を伝えます。


「アニー! ……くそっ!」


 耳に響く剣閃の音。金属のぶつかり合う甲高い音。ルダンは、お父さんの相手をさせられているのか、駆け寄ってきてはくれませんでした。霊王は再び私の髪をつかみ、無理やり私を立たせます。


「貴様のその白い髪、我の血であろう。どこの阿婆擦れが外に漏らした?」

「お母さんは……そんなのじゃない」

「ああ、そういえばお前、反逆者の娘だったな」


 

 鈍い音。暗転。明転。鈍い音。

 暗転。勢いよくおさえ込まれて、ゆかにたたき付けられたのでしょうか。ひどく、あたまがいたみます。鼻も、めも。


「後代の子孫はどいつも愚かだったが、やつは格別だったなあ。一人の近衛兵にたぶらかされよって、己の使命を捨てて、我の封印を弱めた」

「おかあさんは……」

「お前の親さえいなければ、お前も苦しまずに済んだのになあ。慌てて後始末をしようとした父親も一度魂さえ握ってしまえば、敵を切り伏せろと命じるだけで、このざまだ」


 きしょくの、悪い。

 わたしの……私のお父さんを悪く言わないで。

 お母さんを、悪く言わないで。

 あの人たちを、そんな言い方させられない。

 私の大切な人たちを、馬鹿にしないで。


「もう一度言う。聖水を渡せ」

「…………」


 心の中に燃えるのは、こいつに対する反抗心。

 言う通りにはしたくない、そうすればどうなるかぐらいわかってる。

 隠してくれたみんなの努力がどうなるかぐらいわかってる。


 ……でも、もう、これ以上は、体がもたないから。


「わかりました」


 わたしは胸元に手を入れて、首飾りの紐を握ります。握ったまま手を差し出して、霊王の手へ、重ね合わせます。手のひらを開いて、首飾りの紐を手放して、相手の元へ落とします。


「……ふざけているのか?」


 先に小瓶の付いていない、首飾りの紐だけを手放して。

 そう、聖水はもう私の手の元にはありません。

 私が身に着けていたのは、大した装飾もない、何の変哲もない紐一つだけ。これで、私の役割は終わりです。


「ふざけるな! 貴様らはどこまで愚かなのだ!」


 霊王は私に詰め寄り、襟首を掴んで激高します。


「はて、なんのことでしょう」

「お前の母も! お前の父も! どこまで我の邪魔をする! 限りある生の美しさだの、自由がもたらす愛情だの、わけのわからん御託をならべて、なぜ我を滅そうとする!」


 そういえば、お母さんはいつか、お父さんとの馴れ初めについて、見つけてもらったと言っていました。お父さんはいつか、この塔について尋ねる私に、決意に満ちた返答をしてくれていました。

 もしかすると、私たちがここを訪れるよりずっと前に、お母さんとお父さんは、何かを成し遂げていたのかもしれません。おそらくは、この老人のたくらみを、致命的にくじいてしまえるような、何かを。


「だが、忌々しいあの反逆者の努力も、思いも、全てはここで無駄になる!」

「うぐ……」


 霊王は私の首を鷲掴みにして、身体を持ち上げてきます。踏ん張る力も入らなくなって……つまさきが、床から、浮いていきます。苦しくて、凍えるような寒気が、全身へと伝わっていきます。


「愛など軟弱! 圧倒的な不死の力の前には、全くもって無力なのだ!」


 私は、もう、すべてをやり遂げました。

 あとは……もう、待つだけでいい。

 私は……を待つだけでいい。

 私は……ここにいて……ひきつけていればいい。

 私は……もうやり遂げたから……あとは……

 私は……ここに立っていて……。


 霊王の気を引き付けて、信じて待つだけでいい。

 さっき、塔に立ち入る直前に、ルダンがそう言ってくれたのですから。


「離れろよ。変態」


 声が聞こえたその直後、視界の端に、光る何かが映りました。


「ぐおおおおっ!?」


 霊王の苦しげな声。同時に、床を踏みしめる感覚。全身の寒気が引いて、ぼやけていた意識が元通りになります。頼もしい肌の暖かさで、消えてしまいそうだった意識が、元通りになります。


「母親の思いなど無駄だと? 愛する気持ちなど軟弱だと? 確かにそうかもしれないな。それだけで、お前みたいに人知を超えた卑怯者に対抗するのは無理かもしれない」


 耳元から聞きなれた声。この夜だけで随分頼れるようになった声。みると、私はいつの間にか肩で抱き寄せられて、ルダンの胸の中に居ました。


「でもな、少なくとも、この子の母親が、父親が、この子のためを思って積み重ねてきた行為は本物だ。お前を打ち破るために、もう一度家族揃って顔を見るために。それぞれが取ってきた対策は、お前を打ち破るだけの力を持った」


 胸の鼓動が伝わってくるほど近くで、ルダンは、その右手に持った長剣で、霊王の胸を貫いていました。


「そして、そんな力を俺に託した、この子の勇気は本物だ」


 その刀身はいつか、王様が携えていた両手剣のように、しかし比べものならないほど眩く、オレンジ色に輝いていました。カツンと音を立てながら、床に何かが落ちました。それは、オレンジに光るガラス片。首飾りの先に付いていた、小瓶のかけらが床に落ちて、その光を失いました。


 つまりルダンはとんでもない素早さで小瓶を貫き、その中身を剣にまぶしたのです。


「ぐぐぐ……何故……!?」


 答えは簡単。私が、ルダンに小瓶を託していただけ。どうせ、手をつないてさえいれば、悪霊を退ける効果はあるのですから。いざとなれば、私の身の安全を後回しにして、一人でも霊王を仕留められるよう、信じて託していただけなのです。


「聖水は、いい。こいつの父は……国王付きの近衛兵だぞ……!?」

「ああ、正真正銘本物の、儀礼用の装備を身につけた、な」


 その言葉で私は、玉座の傍を眺めます。そこには、ヒビの入った鎧と、折れた剣を身に着けて膝をつく、お父さんの姿がありました。握られた刀身は、中が空洞になっていました。お父さんは傷だらけでしたが、致命傷は無いように見えました。


「それでも強かったさ。さすがはアニーのお父さんだが……お前はまるでダメだ」

「が、がが、が」


 ええ、その通り。限られた時間の中で最適に動いたルダンと違ってあなたは、首飾りの持ち主がルダンだと気付かず、私にだけ気を取られ、私をいたぶって時間を浪費した。ルダンとは比べものにならないほど、あなたは浅はかだったのです。


「それを、お前みたいな卑怯者が」

「が、がが……が」


 ルダンの突き出した左腕が、どんどんと霊王にめりこんでいきます。めり込むたびに、霊王から光が吹きだして、ピシピシという音とともに、光が散っていきます。


「お前みたいに、往生際の悪すぎる軟弱者が」

「が……やめ……ろ」


 ルダンの、私の肩を抱く力が強くなります。痛くはありません。ただ、頼もしく、安心感を増しただけです。より強く抱きしめられて、私は暖かさに包まれます。私たちを照らす光は、大きくなっていきます。


「俺を信じた。俺の信じた……」

「やめろ……やめろ!」


 次の瞬間、何かが砕けたような音。見れば、霊王の肌が砕けていました。肉が砕けて、骨が砕けて、額の王冠の、宝石が砕けました。

 お母さんが、長い年月をかけて作り上げた、霊王を打ち破る聖なる水。その飛沫を纏った直剣が、霊王の身体を貫いて……


「俺の愛した、その子に触るな!!」


 私たちの居た広間は、眩い光に包まれました。

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