第5話 霊王


「お前が親玉か!」


 なんとか、間一髪のところで直撃を免れた人々は、謎の人物へ向けて勇む声を上げます。


「ダメ! そいつに松明は」


 狼たちの襲撃を乗り越えた人々の中に、怖気づく者はいなかったのでしょう。お母さんの警告も虚しく、皆々が松明を掲げて、あるものは投げつけながら、王冠を被ったそれに挑みかかりました。


「煩い」


 その人物はマントの中に右手を入れ、何かを抜き出したかと思うと、挑む人々に振りかざしました。それは、丁度彼の背丈ほどある、抜き身の直剣のように見える何かで、遠目からでもわかるほどの、圧倒的なリーチがありました。

 まず、投げつけられた松明が剣に触れて消えました。炎を失ったただの棒は、彼の身体を通り抜けて地面に落ちました。


いち


 次に、松明を振り上げた男性が、三歩先から剣の餌食になりました。剣に体を通り抜かれた男性は、勢いそのままに膝から崩れ落ちました。


「二」


 王冠の人物はそのまま一歩踏み出して、まだ四歩分は離れていた女性を切り伏せました。


「三、四匹」


 続けて、まるでリズムでも取るように、引き下がろうとした二人組が切り伏せられました。外傷はありませんが、まるで魂が抜けたように、二人は地面に倒れました。


「五匹」


 最後に、松明を投げつけていた男性が、後退りしながら餌食になりました。踏み込みを加えた突きを食らって、男性はのけぞりながら倒れ伏しました。


「二人とも、火を消して」


 あっけに取られていたところで、お母さんの声が聞こえました。消し方の分からない私の代わりに、ルダンが松明の先に鉄のカップをかぶせます。消火の音は、ほとんど響いてはいません。これで、気づかれていなければいいのですが。


「どうやら、ネズミはもう一匹、残っているようだ」


 その声で、お母さんが息を飲んだのがわかりました。私は、お母さんに声をかけようとして、口を押えました。今私がしゃべったら、全員の位置がバレてしまう。もしあいつが、悪霊と同じ何かなら、首飾りのおかげで、私たちの姿は見えていないはず。


 でも、それを確かめようとして、お母さんの方を向いた瞬間、気がついてしまいました。お母さんの顔に脂汗が浮かんでいることに、謎の人影が、こちらをみてしまっていることに。


 瞬間、お母さんの目が、決意に満ちた色に変わりました。物凄く嫌な予感がしました。こちらにむけて、一瞬だけ笑みを浮かべたお母さんの手を、私は掴むことができませんでした。


「旧知の仲だって言うのに随分なご挨拶ね、霊王」


 そして、お母さんは歩を進め、私たちから離れていきました。


「たわけ。貴様ごときに思い入れなどないわ」


 まるで知り合い。お母さんは、私の記憶にない人物を霊王と呼んで、まるで知り合いのように会話を始めました。普通に見れば真っ直ぐと、しかし、少しだけ横に逸れながら歩いていくお母さん。おそらく、私たちの方から、視線を外そうとしてくれているのでしょう。


「だが、その潔さは認めてやろう」


 嫌な予感はますます大きくなって、頬を汗が伝ったのがわかりました。このままではいつか、息を漏らしてしまいそうです。私はゆっくりと息を吸い、気持ちを落ち着けます。大丈夫、きっと、お母さんは大丈夫。大丈夫だから。


「その魂、頂くぞ」


 見開いた目に、あってはならない光景が移って、息が詰まります。近くへ寄ったお母さんへ向けて、霊王が剣を振りかざしたのです。叫び声を上げそうになったところで、後ろから口を押えられます。横目で見ると、ルダンが私を押さえていました。


「ここから東の、山の頂」


 お母さんの言葉で霊王の動きが、剣が、お母さんの傍でピタリと止まります。言葉一つでどうしてと思い、霊王の方を見ると、彼は眉をひそめていました。彼にとって、何か都合の悪い言葉だったのでしょうか?


「何のつもりか知らんが」

「王城から続く橋を渡った塔の上に、あなたの身体が残っている」


 瞬間、霊王は明らかに目を見開きます。その巨体が、剣を握る手が、震えています。私には何のことなのか見当もつきませんが、霊王は確かに動揺しています。


「それに、聖なる水を打ち込めば、この悲劇は終わる」


 その言葉を聞いて、ようやく私は思い当たります。首元の小瓶を手に握り、その中身を覗いてみれば、確かに中には、オレンジ色の液体が入っていました。これが、聖なる水なのでしょうか?


 だとすれば、この言葉は、霊王に向けたものではないのかもしれません。お母さんは、霊王にばれないよう、私たちに情報を伝えようとしてくれているのかもしれません。


「この町の人間にいる人間は、これですべてのはずだ」

「馬鹿ね。すでにあの子に託したわ」


 もし、だとすれば、信じたくはないけれど。お母さんは既に諦めているのかもしれません。あるいは、言葉通り託そうとしているのかもしれません。あとは私たちに任せると、そういうことだとすれば、お母さんの行動に、辻褄があってしまいます。


「あとは、東へ向かうだけよ」


 今すぐにでも叫びたい。走って行って、お母さんと一緒に逃げたい。でも、そうすればお母さんの覚悟が、私たちに託した何かが、無駄になってしまうのだとわかっているから。飛び出すことはできません。今の私には、なにも、できない。


「反逆者が!」


 お母さんの傍にあった直剣が、直上へと素早く持ち上げられます。次に映る光景を察するより早く、その勢いが反転します。止めさせたくて、飛び出したくて、それでも何もできなくて。目を見開くことしかできない私の目の前に、その瞬間は訪れました。


 お母さんの体が、直剣の先に、触れてしまいました。膝をついてのけぞり、後ろ向きに倒れていくお母さんと、目が合いました。その目は、その口元は、いつものように優し気な笑みを浮かべていました。


 そして、どさりと音を立てて、崩れ落ちたお母さんの目は、閉じられてしまいました。


◇◆◇◆◇


「お母さん、起きて……お母さん……!」


 肩をゆすり、首を起こし、胸に額を擦り付けても、帰ってくるのは微かな呼吸と、心臓の音だけ。

 たしかに生きてはいるはずなのに、全く生気の感じられない顔。私の声が届いていないことを嫌でも思い知らされます。


「私、一人でなんて生きられないよ……」


 霊王が姿を消すまで、私たちは息をひそめ続けました。頬を湿らせるほどに視界を滲ませても、浅い呼吸で喉の奥を詰まらせても、大きな声だけは漏らさないように、奴に気づかれないように。

 そうして、奴が空の彼方、東の山頂まで飛んでいくの見送るまでは、その場から動かないように努めたけれど。


「こんな首飾り託されたって……!」


 こんなことになるなら、あの時ルダンの腕を振り切ってでも、お母さんを助けに行けばよかったのです。

 きっと、その後すぐあの剣に襲われたとしても、お母さんと一緒なら怖くなかったはずです。

 一度約束を破ったのなら、何回でも破ればよかったのです。


「ああぁ……ああああ」


 お母さんを抱いて空を見上げ、こらえていた声を吐き出します。

 いつまでも止まらない涙を、恨めしいほどに明るい月明かりが照らして、目の前が瞬いて、何も見えません。

 それはまるで私の心のようにぐちゃぐちゃで、満足に声も発せなくなっていきます。

 喉を詰まらせるその苦しさを、取り除こうにも息が詰まって、言葉にならない声が途切れては、そのそばから吐き出されていきます。


「アニー」

「何も……言わないで」

「そうも、いかないだろ」


 滲んだ視界の向こう側に、ケトルハットの輪郭が写って、言葉で突き放そうにも思いつかなくって、私は近づくその肩を跳ね除けることができませんでした。


「ここで泣いていくのはいい。今は好きなだけ泣けばいい」


 彼は、私を抱きしめたわけではありませんでした。それをするには、腕の数が足りなかったから。

 だだ、彼は私と向かい合ってまだ動く左手を、私の肩に載せました。革のグローブの親指のフチが、私の頬を少しだけ擦ります。


「涙が止まったら教えてくれ、そのあとやるべきことは、わかってるだろ」


 ルダンは一度だけ、掌を私の頬に沿わせて、通り過ぎる親指で、涙を拭ってくれました。

 それは片目だけ、一瞬だけのことでしたが、やけに視界が澄み切って、月明かりに照らされたルダンの顔が見えました。


「……そうだね」


 久しぶりに、彼の顔をしっかり見たような気がします。

 私やお母さんとは、明らかに違う目元や鼻筋から違う顔。ですが、その口元に浮かんだ笑みは、どことなくお母さんに似ている気がしました。

 彼は眉毛を困ったように垂れ下げながらも、お母さんが、いつも私を見てくれる時のような、慈しみに満ちた表情をしていました。


「分かった」


 別に、彼に励まされたわけではありませんが。


「霊王に合って、こんなこと、やめさせればいいんでしょ?」


 お母さんが、私に託したのですから。


「だったら、私、行くよ。あなたや、街の人のためじゃない」


 今私がやるべきは、それだけなのです。



「お母さんと、ほかでもない、私のために……東へ!」

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