第3話 幼馴染
人と人の間を縫って、光る獣を見ないようにして、暗闇の中を進み続けて、息を切らせて。もう走れないとなったところで、それが見えました。
てっぺんに、一本の木の生えている、小高い丘。お母さんとの約束の場所。リンゴの木のある丘のふもとに、たどり着いたのです。
「こんなところで何してる」
「ひっ……」
突然、横から声をかけられて、足をもつれされてしまいました。疲労の貯まった体幹では、体制を整えることは叶わず、地べたに尻餅をついてしまいます。
「なんだ、アニーかよ」
意外にも気さくに話しかけてくる、その人影には見覚えがありました。左手に松明、右手に抜き身の剣。厚手のロングコートに、何より目立つケトルハット。
「ルダン……どうしてここに」
こんな時間に、街の外で会うなんて。彼もまた、街から逃げて来たのでしょうか?
「どうしてってそりゃ、見回りだよ」
「見回り?」
「夜の見回り。時間になったから帰ってきただけだ」
ランタンの光で照らされる、当然といった様子の表情。
実際のところ、彼にとっては今夜も、何の変哲もない日常の一部に過ぎないのかもしれません。つまり、彼は街で何が起こっているのか、わかっていないのでしょう。彼はあの街中に青白い獣が蔓延っている、異様の風景を知らないのです。
「しかしお前、ほんと懲りないのな」
「いいえ、今日は違います。私は街から逃げてきただけです」
今日は、いつものように街を抜け出したわけではありません。ちゃんとした理由があって、お母さんに言われてここにいるのです。
「いいから、もう帰るぞ。流石に夜は危ない」
ルダンは右手の剣を鞘に戻し、私に向けて手を差し出してきます。この手を握れば、私は街に戻ることになってしまいます。お母さんとの約束を破ることになってしまいます。
「……その、ルダン」
信じてもらえないと思いつつも、説明するべきか悩んでしまいます。彼は私を、信頼してくれていないように思えます。別に、彼に限った話ではありませんが、私は、誰とも関わってこなかったから。悪霊が出たとか、約束で逃げてきたとか、あれこれ説明したところで、無駄かもしれません。
どうせ、そうなのだったら。そう思って、私は真っ直ぐに、彼の姿を見据えます。ほのかな光を放つ、松明の炎を見据えます。
「予備の松明、持ってませんか?」
ごめん、お母さん。私も、やっぱり心配だから。
約束を破ることになっちゃうけど、一度だけ、街に戻らせて。
◇◆◇◆◇
月明かりが照らす町の中。不気味なほどの明るさと、静けさを割く夜風の音が、光景の異様さを引き立てています。
「なんだよ……これ」
喉の奥から漏れ出たようなルダンの呟きを耳に入れて、ああ、お母さんは正しかったのだと理解できました。開きっぱなしのドアの横や、石畳の路上、民家の間の土の上。とにかく、街中いたるところに、寝間着姿の人影が転がっていたのです。
「しっかりしろ、おい」
ルダンは人影を一つ一つ揺り動かしては、声をかけていますが、ことごとく返事はありません。脈を図ったり、呼吸を見たり。いろいろなことを試みては、困惑の表情を浮かべ続けていますが、事態を飲み込めてはいない様子です。
私だって、全てを理解できているわけではありません。だけど、今やるべきことはわかっています。
「ルダン。私、お母さん探してきます」
私は右手の松明を握り、決意を固めます。お母さんの服装は、覚えています。いつもとは違った格好ですが、だからこそ見つけやすいはず。
「待てよ、一人だと危ないぞ」
「それは、そうですが」
でも、ルダンに今から説明していたら、手遅れになってしまうかもしれません。もし、この事態が悪霊の仕業で、お母さんが今も奴らと戦っているかもしれないなら、私は今すぐに駆け付けたいのです。
「俺も一緒に行く。案内してくれ」
「…………」
でも、それなら、確かに心強いです。もし、協力してくれるなら、単純に危険も少ないですし、ルダンだって、松明はもっていますから。
「ガルルルル」
私がそう考え込んだ瞬間、泳がせた視界に、青白い何かが映りました。
青白い何かは小さく唸り声を上げて、民家の陰がら姿を現しました。
それは、位置にして、ルダンの背後、数歩ほどの距離に佇む、青白い狼のような獣でした。
「後ろ!」
次の瞬間、私は言葉を間違えたことを悟りました。
私の警告を聞いたルダンは、松明をその場に落としながら、腰の鞘に手をかけてしまいました。
彼が、素早く右手で抜剣すると同時に、狼が彼に飛びかかりました。彼が、狼の首筋目掛けて振りぬいた剣は、その青白い体毛を、通り抜けてしまいました。
ルダンが、目を見開いたのがわかりました。
「ぐおおっ!」
間一髪のところで、彼は横向きに転がって狼の突撃を避けます。ガキンと剣が石畳を打つ音。
彼は、右手に握った剣を取り落としてしまったのです。
「なんだ? 右手が」
彼はすぐさま膝立ちになって、左手で右腕を握ります。その手首は力なくだらんと垂れ下がり、指と指の間は開いていました。
そして、ルダンとすれ違った狼は、既にもう一度、彼の方へ向き直っていました。
「ルダン!」
無意識のうちに、私の身体はルダンへ向かって進み始めていました。右手の松明を狼へ向かって投げつけて、私は身体を飛び込ませます。狼が大袈裟に飛びのいて、ルダンから視界を外したのがわかりました。
「なにを」
「いいから!」
私はルダンの右手を握り、彼の身体を持ち上げます。彼のコートをぎゅっと抱きしめて、胸を突き出して密着させます。厚手のコートは思ったよりも固く、少しだけひんやりとしましたが、気にすることではないでしょう。問題は、後ろの狼の方です。
「おい……」
「喋らないで」
私は小声で、ルダンの発言を遮ります。飛びのいた狼が、一瞬こちらを見て。訝しげな表情を浮かべたのがわかりました。それから、私が投げつけた松明と、ルダンが落とした松明を交互に見て、首をかしげるようにしています。
私たちがしばらく息をひそめていると、狼は辺りを一通り見回し終えた狼は、私たちのいる場所から離れていきました。私は、素直に息をひそめてくれたルダンに心の中で感謝しながら、彼から離れて胸をなでおろします。
「どういうことだ?」
「お母さんがくれた首飾りのおかげ。でも詳しいことは分からない」
「そ、そうなのか」
ひとまず首飾りの効力は本当であるらしいということと、やつらに普通の武器は効かないということを確かめられたのはいいのですが。私だって、今起こっている事態を完全に把握できているわけではありません。
「わかってるのは、突然、街にさっきみたいな悪霊が現れて、私たちを襲い始めたってこと」
「そんな……何で言ってくれなかったんだ」
「信じてくれないと思ったから」
私なら、街が危険な状態にあるなんて言われても、帰りたくないから嘘を付いているのだと思ってしまいます。だったら、説明するだけ無駄だと思うのは、普通のことではないでしょうか。
「信じるさ、幼馴染だろ」
「……そう」
幼馴染だからって、それが理由になるのでしょうか。別に、毎日顔を合わせているわけでもないのに。私にはわかりませんが、ひとまず、それはいいのです。
「それより右手、大丈夫?」
「そうだ、ちょっと変なんだ。肘から下が動かないっていうか、感覚がないっていうか」
そう言うルダンは相変わらず、右腕をだらりと垂れ下げています。肩は平気なようですが、言う通り、身体に異常をきたしているようです。
「ひょっとして、さっきの悪霊の仕業?」
「まさか……って言いたいところだけど、そうかもしれない」
彼は悔しげに口角を歪めつつ、右腕を揺らしています。先ほどの悪霊がルダンの右腕をかすめたから、その部分が動かなくなったと、そういうことなのでしょうか。流石に、確かめようがありませんが、もしそうだとするなら……彼に無理はさせられません。
「できるだけ私から離れないで。それから、やつらには炎が効くらしいから、次、もし襲われそうになったら松明を使って」
「わかった。悪いな」
「いい。私一人じゃ、何もできないから」
私は足元の松明を拾って、ルダンの左手に手渡します。私一人でできることなんて限られていますから、人数が多いに越したことはありません。少なくともお母さんと合流するまでは、彼に一緒にいてもらったほうが良いはずです。私のこの手だけじゃ、何もできる気はしません。
「なあ、アニー」
「なに」
私が少し離れた場所にある、自分の分の松明を拾っていると、ルダンが口元に微笑を浮かべていました。何か、この状況で面白いことがあるのでしょうか。
「いや、いつもより親しみやすい口調のままでいいのかと思ってな」
「口調? ……あ」
言われて気付きます。他人を相手にしているというのに、いつの間にか、敬語が崩れてしまっていました。
「ありがとうございます。うっかりしていました」
「言わなきゃよかったな」
「行きましょう。お母さんを探さないと」
からかうような彼の言葉には、反応してやりません。あくまで彼と私は他人同士。必要以上のコミュニケーションをとるより、お母さんを見つける方が先決です。
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