第2話 飛び出した光

 七日後に、十五歳の誕生日を控えて。私は今、夜の草原にいます。


 家出ではありません。ただ、お母さんが寝ている間に外に出て、たまにこうして寝転がって、夜の空を眺めているだけ。その空の下にある草原と、東に見える山脈を、眺めているだけなのです。


 現状に不満があるわけではありません。ただ、最近特に、お母さんは私のために頑張りすぎているような気がするのです。薬師の仕事で、漁村を歩き回っているのはもちろん、家にいる時も、ほとんど作業部屋にこもりっぱなしです。まるで何か、焦っているみたいに。


「お父さん、帰ってこないのかな」


 夜空の果てを眺めながら、私は呟いてしまいます。お父さんが私の、十五歳の誕生日には帰ってくるという話は、お母さんから聞いたものです。私は、お父さんの顔を見たこともありません。

 私が生まれた時にはすでに、どこかに行ってしまっていたのか。私が物心つく前に、どこかに行ってしまったのか。

 それさえも私は、わからないのです。


「お母さんは、頑張りすぎだよ」


 私は一度身を起こして、髪を指で整えながら、姿勢を変えます。

 私が手伝いをすると言っても、何故かお母さんは許してくれません。

 そりゃあ、私だってご飯くらいなら手伝えもします。実際、朝ごはんと夕ご飯は、お母さんと一緒に作っていますし、昼ご飯はそもそも自分で済ませています。

 それでも、お母さんは昼ご飯を取る時間がないほど、働き詰めの生活を送っています。忙しくしているときは、作業部屋に入らないでとも言われていますし、なにをそんなに苦労して作っているのか、教えてもくれません。


「私、なんか寂しいよ」


 頭を片腕で抱えるようにして、横を向きながら、私は、ぼやきます。

 ただ元気に暮らしているだけでいい。そんなお母さんの気持ちを、否定するつもりはありません。私は、一人が好きなのも本当ですし、この白い髪を、恨めしく思ったこともありません。


 でも、そんな風に思えているのは。この白い髪を誇りに思えているのは、ほかでもない、お母さんのおかげです。お母さんが私のそばに居てくれているから、私も楽しく生きられているだけなのです。


「居なくなったり、しないよね」


 どうせ、いなくなるまでは分からないので、考える意味がないとも思います。お母さんと離れることになったら、その時考えればいいとも思います。ですが、やっぱり不安ですし、今の、他に誰も頼れる人がいない状態は、怖くて、寂しいです。

 そして、私を支えてくれているお母さんを、支えてくれている人がいないというのは、もっともっと、寂しいです。


「お父さん、帰ってこないかな……」


 頭の後ろに両手を回して、少しだけ身を反りながら、リンゴの木の葉を眺めます。さっきと同じようで、少しだけ違うぼやき。お父さんが帰ってくれば、今のこの気持ちも、全て無くしてしまえるでしょうか? 答えはわかりません。


 確かなことは、この、ひんやりと冷たくて、海を望むことのできる草原の、小高い丘のリンゴの木の下に、私がいるということ。もし、一人になったら、こんな風に冷たい日々がまっているのでしょうか?


「……くしゅん!」


 寒い。身体を駆け巡った寒気にくしゃみをして、目を強く閉じて、開いて、私は反射的に身を起こします。

 そうして、鼻をこすりながら、遠くの方に……

 丘から見える東の山脈のてっぺんに、一際高くそびえた岩山へと、目の焦点を合わせた、その時でした。


「えっ?」


 岩山の頂点からほのかな妖しい光が現れ、夜空へ向けて飛び出した。

 視界に入ったその光景が、私の目に焼き付いて。私は、その、妖しい光を目で追いました。ずっとずっと、目で追って、こちら側の空へ向けて、大きな光が迫ってきていることがわかりました。

 そして、夜空を飛ぶ大きな光から、いくつもの光の球が分離して、地上へ向けて、降ってきていることにも気付きました。無数の光は、ゆらゆらと揺れて、ゆっくりと降り注いで、丘から見下ろせる港町、ルセチーナの方へ、落ちようとしている気がしました。


「……っ! 帰ろう」


 幻想的な光景に、感動することもできたのだと思います。不安のなかに現れた、常軌を逸した奇跡に、思いをはせることもできたのだと思います。ですが、それ以上に、どうしようもなく、私の頭を埋め尽くしたのは。


「お母さん……!」


 お母さんに、何かあるかもしれないという、強い焦燥感でした。


◇◆◇◆◇


 街へ戻ると、皆々が空を見上げていました。深夜だと言うのに、ほとんどの家が明かりを付けて、ある人はランタンを持ち出して、ある人は窓から身を乗り出して、空から降り注ぐ、無数の光の球を、待ち構えていました。


「お母さん!」


 そんな中、私は家に戻る前に、お母さんの姿を見つけました。お母さんは街の中を走り回って、白い髪を左右に振りながら、辺りを見回していたからすぐにわかりました。


「アニー!」


 お母さんの声で、私たちは互いに駆け寄ります。私が胸に飛び込むと、お母さんは酷く安堵した様子で、私の背中を抱きしめてくれました。

 それと同時に、私は、お母さんが異常なほど、焦っていたことを感じ取りました。私を抱きしめるお母さんの胸の鼓動は、全力で走り回った後の様に、早鐘を打ち続けていました。


「お母さん?」

「アニー、家に戻るわよ。急いで」

「う、うん」


 どうしてそんなに焦っているのか聞こうとしましたが、尋ねるまえに、私はお母さんに手を引かれて、言う通りにしました。

 とりあえず、お母さんは無事だった。私は、そのことに一旦安堵しましたが、お母さんの顔には焦りが浮かんだままでした。一体、何が起こっているのでしょうか?


 私たちは路地を抜けて、立ち尽くす人々の間を抜けて、街外れへと走ります。少しして、見慣れた道に出ることができました。道の先には、レンガ造りの、私とお母さんの家があります。


「中に入って。早く」

「わかった」


 質問する隙は無いようなので、今は何も考えず、言う通りにします。


「アニー、お母さんはちょっと物を取ってくるから、ここに居てくれる? 決して窓はのぞき込まないで、ここで待ってて。わかった?」

「え……うん……」


 家についても相変わらず、お母さんは焦っている様子です。それも酷く、今まで見たことが無いほど。一度は落ち着いた私の心も、再びざわめいて来ました。何か知っているなら教えてほしいという気持ちと、お母さんの邪魔をしてはいけないという気持ちが入り混じって、結局私は、作業部屋に入っていくお母さんの背中を、見送ることしかできませんでした。


「何が起こってるんだろ……」


 作業部屋の扉が閉まって、私は廊下に立ち尽くします。ここで待っていてとは言われましたが、そのうち足が疲れてきました。流石に、椅子に座るくらいは、してもいいですよね?

 私は居間のほうに向かって、テーブル横の椅子に腰かけます。


 この位置からは丁度、窓が見えます。カーテンは閉まっていないので、見ようと思えば外も見られます。お母さんには窓を覗き込まないでとは言われましたが、近くで見るのでなければ、いいのでしょうか?

 でも、約束の穴を付くようなことをするのも、何だか悪い気がしたので、私はしばらく、テーブルの前に座っていました。


「きゃあああ!!」


 突然の、甲高い悲鳴に、私は肩を跳ねさせます。

 それは外から聞こえました。それも、窓の付いている、通りの方向から。私はその一瞬で反射的に、窓の方を向きました。お母さんとの約束を忘れて、窓の外を見てしまいました。


「ガルルルル……」


 窓のすぐ向こう側には、青白く光る、狼の顔が張り付いていました。


「えっ、えっ!?」


 こちらへ向けてうめき声を鳴らす、謎の狼に驚いて、私は椅子から転げ落ちそうになります。なんとか、背もたれ側から倒れてしまいそうになるのをこらえて、私は床に座り込みます。そうして、尻餅を付いて後ずさり窓際の狼から距離を取ろうとします。


 その時でした。


 窓際の狼が、窓をすり抜けてしまいました。半透明でほのかに光る鼻が、目が、頭部が窓の縁を抜けて、そのまま、身体がするりと室内に入ってきてしまいます。


「ひっ……!」


 悲鳴をあげようとしましたが、息が詰まって声が出せなくなってしまいました。喉から響く、か細い呼吸音を聞いて、心拍が上がっていくのを感じます。その間にも、狼は私のことを青白く光る瞳で見据えながらのそりのそりと近づいてきます。


 狼に迫られて、私の背中は壁に付いてしまって、ついに後ずさりさえもできなくなってしまいました。廊下の方へ抜けるには、狼の方へ進む必要があって、そうしようとしても足が動きません。


 一体この、不気味な獣はなんなのでしょうか? どうして、壁を抜けてきたのでしょうか? どうして、こちらを見据えてにじり寄ってくるのでしょうか?


「アニー!」


 叫び声。目の前に光る何かが飛んできて。姿勢低く、こちらを見つめていた狼が、背後の壁に飛びのきます。直後、陶器のような何かが割れる音。目の前に光が……炎が広がっていきます。炎は、床の板材を焼きながら、こちらへ向けて迫ってきます。


「こっちへ!」


 張られた声と共に、視界が浮きます。脇腹に手をまわされて、後ろに強く引かれます。


「あっ」


 丁度部屋から引きずり出された瞬間。先ほどまで、私がいた場所に、炎が広がっていきます。炎は壁や天井を焼きながら、部屋中に広がっていきました。


「消さないと、家が」

「ダメ! 早く外に出るわよ!」


 頭上から響いた怒声。つられて見上げたところでやっと、先ほどから聞こえていた声が、お母さんの声だったのだと気付きました。

 お母さんは、先ほどから打って変わって、物々しい格好をしていました。胴には厚手のギャンベゾン、左手には松明。自慢の白い長髪は、革製のコイフの中に隠れてしまっています。


「お母さん?」

「アニー、よく聞いて」

「う、うん」


 革手袋のはまった右腕で、私の肩を押さえてこちらを覗き込むお母さん。ざわめき続ける心の中も、お母さんの声を聞けば少しだけ落ち着けられました。しかし結局何が起こっているのか、全くもってわかりません。


「さっきの狼ね、悪霊なの」

「悪霊って……お化け?」

「そうよ。それもただのお化けじゃない。触れた生き物の魂を奪ってしまう、悪い幽霊」


 耳に入った言葉を、そのまま飲み込めはしませんが、この状況で、冗談を言われているとも思えません。だったら、一度無理やりにでも、信じてしまった方がいいのでしょうか。


「悪霊には炎が効くわ。それから……」


 お母さんは首元に右手を突っ込んで、首飾りのような何かを頭の上から外しました。銀の紐の先に、オレンジ色の小瓶のようなものが付いたそれを、軽く握って私に差し出します。


「この首飾りの近くに居れば、悪霊からは見えなくなる」

「えっ、だったらお母さんが」

「ダメよ。私はやらなきゃいけないことがあるの。これはアニーが持っていて」

「わ、わかった」


 簡潔な説明を頭に入れて、どうにか理解しようと試みます。ひとまず、このペンダントがあれば悪霊には襲われないと、そういうことでしょうか。でもだからって、私一人でどうすれば……


「街外れの平原、りんごの木のある丘のてっぺん。そこで待っていて」


 ……どうやら、お母さんはそこに後から来てくれるようです。ここは危ないから先に避難しておいてと、そういうことなのでしょう。


「わかった」

「いい子ね。じゃあ、走って!」


 お母さんの激励で、私は街の外へ向けて走り出します。人々の悲鳴や、足音、獣の唸り声の響く中、私は走ります。


「お母さん、大丈夫だよね」


 振り向かず……と言いたいところでしたが、一度だけ振り返ってしまいました。遠くに映った後ろ姿。お母さんは襲われようとしている町の人に、松明を預けたり、自分で振り回したりして、青白く光る獣たちを追い払っていました。

 率先して街の人に呼びかける、その横顔は随分頼もしく見えました。


「……行こう」


 私は松明をもっていませんし、悪霊たちになにかできるわけでもありません。だったら今は、避難するべきです。避難して、お母さんの到着を待つべきなのです。


 私一人じゃ、何もできないんですから。

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