第9話 それぞれの四月

 青空法廷の日から一週間が過ぎた。

 それぞれが複雑な思いを抱えたまま、新たな年度を迎えていた。


 中でも上田徹の心の内は複雑であった。

 娘、舞の心を晴らそうと彼なりに思惑を繰り広げた日々を思い返せば、己(おのれ)が復讐心に突き動かされて居たに過ぎないのではないか。


 報復とは負の連鎖に外ならない。

 一度それに囚われてしまうと、生半可の事では抜け出せなくなる。

 幸いにして、徹は青空法廷のせいも有ってか、鉾先を収める事が出来た様である。


 加えて、舞にとっていか程の事を成し得たのか、忸怩(じくじ)たる思いが彼をして旅立つことを決意せしめた。


 仕事上のことでは有ったが、以前から東京の支店に赴かねばならい事情を彼は抱えていた。

 それを先延ばしにして居たともいえる。


 さて、ここ数か月で最も傷ついたのは誰であろう。

 上田徹の胸には吉住アツ美の顔が浮かんだのであろう。



「待ちました」

「うん、それ程でも」

「まさか、徹さんが看板にハンカチを結わえ付けるとは思っても居ませんでした」

「直ぐに分かったのかな?」

「はい、『ピッコロ、T.U』。自信が在ったのですか、私がここに来る事に」

「そうでもないよ。来なければ来ないで尻尾(しっぽ)を捲いて退散するするつもりだった」

「一体、どれくらい待ったのですか?」

「それはいいだろう」

「少し、顔が緩んだように思えます」

「色々有ったからな」

「それで、今夜は?」

「君に一度は謝って置かなければと思って、もう直ぐ、僕は居なくなるから。俗にいう立つ鳥跡を濁さずってとこさ」

「どこかに?」

「うん。しばらく東京の支店に行くことにした」

「そうですか」


 アツ美も又、複雑な思いを抱えていた。

 事の初めはどうであれ、一時は父親以上の存在であった徹である。

 仲たがいのまま日々が過ぎ去って仕舞って居た。


「悪かったね」

「う~ん。それはお互い様だと思いますけど」

「無理して言ってないか」

「どうだろう。それで、どれくらい行ってるんですか?」

「うん。一年程掛かるだろうな」

「一年か。私が卒業してしまいますね」

「大学へは?」

「どうかな。行けない事も無いけど。一応、進学校だから」

「変に思わないでくれよ、君に何かしてあげたいんだけど~」

「却って負担になるかも~。・・・帰ってくる頃にはあの廃工場も人手に渡っているかも知れませんね」

「そうだね。取り壊しに成らない事を祈るよ」

「あれ~、まだ、未練が有るのですか?」

「大人をからかうなよ」

「私が有るって言ったら~」

「もう、よそう」




 上田家の面々は布施駅の2番ホームにいた。


「父さん、あんまりお酒は飲まないでね。東京には金もっちゃんは居ないんだからね」

「分かってるよ」


 徹は妻、綾の顔をしげしげと眺めた。

 浮気のあるなしは分からず仕舞いだったが、さほど気には留めて居なかった。

 在ったとしてもお互い様であるからして、今更、どうのこうのとは考えて居ないようだ。

 だからと言って、後は好きな様にとは思っては居ないだろう。

 後ろ髪を引かれる思い、無きにしも非ずと言った所で有ろうか。


「後の事は頼むよ」

「はい、あなたも身体には気を付けて」

「うん」

「舞」

「はい」

「結局、僕の空回りだったけど、これでも~」

「分ってます。父さんなりに頑張ってくれたんでしょ」

「まぁ、な。・・・愛」

「はい」

「舞の事を頼むよ。哲司くんにもよろしくと伝えて置いたから~」


 上りの電車がホームに入って来た。

 徹は車中の人となり、見送る家族を尻目に電車が動き出した。


『あれっ、アツ美さん』


 愛は一番線のホームの階段脇にアツ美を見つけた。


『来てたんだ。おいそれとこっちには来れないもんな』



 綾と舞は永和へ戻る為に一番線ホーム向かったが、その頃には既にアツ美はそこを離れていた。


 愛が改札を抜けると、気落ちしたような足どりのアツ美を見つけた。

 勢い駈け寄った愛は、その背中に、

「アツ美さん」

「えっ」


 振り向いたアツ美の顔がにやけて見える。


「来てたんだ」

「うん。電話なんかして来るから」

「迷惑だった」

「どうかな?」

「歩きながら話そうか」

「そうだね」


 アーケード街を北に向って二人は歩き出した。

 愛は布施の家に、アツ美はベーカリーへと。


「広志くんの様子は?」

「一時はあの日の舞さんを見たせいで落ち込んでたけど、今は、それなりに~。元のやんちゃに戻った訳やないけど、元気かと云えば元気やな」

「そうなんや」

「舞さんは?」

「うん。まだ、よう分らへん。しばらく、様子を見て無いと」

「学校は?」

「通信教育を始めるって。大橋先生が責任を感じて骨を折ってくれたみたい」

「・・・今更やけど、何処かで止められたかも知れへんね」

「えっ、・・・そっか。そうかもね。それに関しては私にも責任が有るやろな」

「一番は本人たちやけど」


「あれから父さんとは?」

「一度だけ」

「生意気言うけど、踏ん切りを付けたん?」

「誰の娘が言うてんのやろ」

「これでも、物分かりがええ方なんやで」

「ピッコロでね」

「場所は聞いてないけど」

「愛さん、性格が悪~なってへん」

 アツ美と徹が廃工場で会ってたとなると、事は複雑になる。


「父さん、なんて?」

「悪かったって」

「それだけ?」

「そんでも、胸にドスンと来たけど」


 二人はベーカリ―の前で分かれた。

 この先、余り顔を合わせる事は無いだろうが、却って、互にとって好都合だったのかも知れない。

 四月と云う時期は誰しもに新たな舞台を用意して居る者だ。


 愛は一度布施の家に戻り、念入りに戸締りを施して永和の家に向かうつもりで居た。

 家族団らんの思い出が染みついて居る布施の家は、しばらく、主を持たなくなる事になる。


 

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