第2話 郡と幸子(興信所の事務員)との繋がり

 興信所の事務員の名は幸子。

 恐らく、彼女の親は幸せに成るようにとその名を付けたので有ろうが、現実は真逆であった。

 詳しくはさて置くが、幸子は高校を中退して職に就き、弟の面倒を見る事に成った。

 弟とアパートで二人暮らしである。

 彼女が就職したのは小さな縫製工場であった。

 そこは時給制で賃金も安く、日々の暮らしもままならぬ状況に追い込まれていた。


  幸子は家計の足しにとネオン街でアルバイトを始めた。

 始めた頃は週末や都合の良い平日の夜に限られていたが、次第に夜のバイトへと傾倒して行き、やがて、昼の仕事がおろそかになり、結局、縫製工場を辞めるに至った。


 時給が倍ほども違えばそう成るのも自然の流れで有ろうか。種に染まれば赤くなる。幸子の生活のリズムは変わり素行も変貌して行った。


 幸子は小さな飲み屋が軒を並べる路地に、いつしか出入りする様に成って居た。


 この深夜も幸子は酩酊し馴染みの店の扉を開けた。


「女将さん、ビール」

「さっちゃん、だいぶ飲んでるようやけど、大丈夫なんか?」

「だいじょうぶ。ひと眠りしたら醒めてしまうから~」


 角兵衛の女将は眉を顰(しか)めながらもカウンター越しにビール瓶とグラスを差し出した。


 酩酊して居ては手もとが覚束ない。

 幸子がグラスにビールを注いでいると、


『コットン』


 グラスを倒してしまった。

 泡を含んだ液体がだらしなくカウンターを伝わって行く。


「郡はん、手もと!」


 女将はカウンターに肘を付いていた郡に声を掛けた。

 郡は素早く肘を上げ、幸子を一瞥した。


「へへぇ~、ごめんな・さい」

「・・・」


 郡がグラスを取り上げると、女将はカウンターの中から布きんを掴んだ手を伸ばしビールを拭き取った。


「濡れてまへんか?」

「どうってことない」


 幸子は突っ伏していた顔を持ち上げ郡に眼を向けたが、おぼろげにしか映って居ないようだ。

 郡はその顔をしげしげと見つめている。


『まだ、若いのに随分やな。・・・おやっ、どっかで見た様な?』


 どうやら郡は幸子に見覚えが有るようである。


「女将さん、この子の名前は?」

「確か、下の名前は幸子やったと思うけど・・・」


 郡は記憶を辿って居る。

 その顔がハットした。思い出したようである。


「郡はん、どないしたんですか?」

「なに、この子に見覚えが有ってな」

「隅に置けまへんな。こんな若い子に覚えが有るなんて」

「勘違いしないで下さい。そう云うんじゃないんで。前にこの子の親とちょっとしたことが有って」

「仕事ででっか?」

「まぁ、そんなとこです」


 そうこうしている内に幸子は眠って仕舞っていた。



「さっちゃん、さっちゃんてば!」


 女将が幸子の肩を揺さぶって居るが、幸子は一向に眼を覚まさない。


「困ったな~。今日は用事が有ってグズグズしてられへんのやけど~」


 思案顔で居た郡が口を開いた。


「女将さん、この子を俺に預けてくれへんか?」

「なんで、又。郡はんに限ってそんな事は無いと思うけど」

「な~に、聞いて置きたい事が有ってな」

「そうでっか」



 幸子が眼を覚ますと見知らぬ部屋に居た。


『ここはどこやろ?』


 見覚えのない男が壁に寄りかかりうたた寝をしている。

 自分の身なりに乱れはない。

 幸子が状況を把握できないで居ると、


「おう、起きてたんか?」

「えっ!あんた、だれ?」


 訝る幸子に郡は名刺を差し出した。


「覚えてるか、俺のこと?」


 幸子は眼をこすりながら名刺の文字を見つめている。


 『貸金・・・』


 幸子の眼の色が変わった。

 その名刺と郡の顔が過去の場面と繋がったようである。


「あの時の人なんや。そんでも、ここは?」

「角兵衛の二階や」

「ふ~ん。こんな部屋が有ったんや」

「長いんか」

「何が?」

「今の暮らし」

「いつからやったか、忘れてしもた」

「親は?」

「どっかに行ってしもた。あんたらのせいやろ!」


 もう随分前のことだった。

 幸子の父親は郡の店から融資を受けていた。

 彼の所で借金をすること自体が先行きが危ぶまれている証しだ。


 返済が滞ると郡は幸子の家に取り立てに向かった。

 手荒な事は控えたが、かと言って優しい口調での対応は出来なかった。

 別の部屋にいた幸子の耳にもその声は聞こえていた。


 幸子はその様子を見る為に足を忍ばせた。

 柱の影から半分顔を覗かせた時だ、郡と眼が合ってしまった。

 その鋭い眼光に怯えた幸子は身動きできずにその場で固まってしまった。


 そんな幸子に気付いた郡の連れが、


「なんや、可愛い娘が居るんや。いっその事、この子に稼がせたら返済の足しになるやろ。どうや、河合さん。ええ店紹介してやろか?」

「ええ加減にせぇ」


と、郡は連れを睨みつけ、手振りで幸子にこの場から離れるように促した。


 それから数日後、郡は他の債権者と折り合いをつけ、幸子たちの家土地を売却し捻出した金額から元金を回収すると全てに置いて手を引いた。

 従って、その後の事は知らず仕舞いであった。

 郡は多少気には成って居たが、日が経つに連れて幸子たち事を忘れてしまっていた。


 そして、この角兵衛で幸子と再会したのである。


 郡は幸子にその後の事を訊ねた。

 幸子は渋々では有るが、これまでの経緯を郡に語り伝えた。


 その話に寄ると、元金だけでは気が済まない業者がその後もしつこく回収に訪れたそうである。

 幸子の両親は堪り兼ねたのか、ある日突然、業者だけでなく幸子たちからも姿を晦ました。


 そこまで聞けば郡にも凡その事は分かったようである。

 別に郡にこれと言って落ち度が有った訳では無いが、もう少しの間、幸子たちに関わっていればこんな結末に成らなかったのではと思い至ったようである。


「いつまで今の暮らしを続けるんや?」

「分れへん。止めようにも高校中退の私にまともな仕事が有る訳でもないし」

「俺に考えがある。今ほどは稼がれへんけど、姉弟(きょうだい)が普通に暮らせるくらいの事はしてやれる。このままやと先が知れてるやろ。どうや、こっちの船に乗り替えへんか?」


 俄かに信じられる事では無い。幸子は怪しげな眼で郡を見つめていた。


「なんで、そこまで言うてくれるん?」

「なんでやろな。魚の小骨が喉の奥に引っかかってる様な気分なんや。それに、後味も悪うてな。今直ぐにとは言わへん。気が向いたらそこに電話して来ればええから」


 数日後、郡の下に幸子から電話が掛かって来た。

 どうやら、郡の船に乗り換えるようである。


 ネオン街に別れを告げた幸子は、郡の取り計らいで宮の興信所に勤める事となった。勿論、幸子に郡の息が掛かって居る事は伏せていた。

 郡は幸子に、宮に不審な動きが有れば知らせるようにと言い含めていた。


 ちなみに、郡が桜庭とF中に行く途中に、ガソリンスタンドから真っ先に飛び出した来た勉は幸子の弟である。

 


 




 


 

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