幽谷にて

雨野榴

幽谷にて

 八月の昼下がり、三年半ぶりの祖父母の家は記憶よりもずっと寂しげな静寂のなかで俺の到着を待っていた。

 周囲に並ぶ枝打ちを忘れた杉のおかげで厳しい日差しはかなり遮られているが、今日にかぎって谷を渡る風は弱々しい。点々と水溜まりが目につく地面からは、じっとりと肌に絡みつく湿気が湯気となって服の下まで絡みついてくる。昨日雨が降ったのだろう、近くの川の激しい水音が蝉も鳴かない正午の山中に響いていた。

 インターフォンを押す前に蒸れた空気を大きく吸い込むと、どこかで嗅いだ覚えのある香りが鼻腔を通り抜けた。懐かしい。これは……そう、墨汁。死んだ植物の濡れた香りはこういうものなのかもしれない。

 額の汗を拭って再びインターフォンに指を伸ばした時だった。

「おお、来ちゃったな」

 家の陰からそう言いつつ現れたのは、人間大のよくできた日本人形。いわゆる市松人形ではなく衣装人形といった見た目で、着ているものが簡素な洋服である以外は面持ちも結い上げた髪も尾山人形そのものだ。前回ここへ来て初めて見た時は思わず声を上げてしまったが、今回は少し心臓が跳ねる程度だった。

 俺は努めて明るく笑いかける。

「久しぶり、ばあちゃん。裏にいたんだ」

 祖母は木に白い塗料を塗った体を器用に動かして家の表に出てくると辺りを見まわし、

洋子ようこ弘志ひろしは?」

「父さんも母さんも今回は来ないよ。俺だけって伝えてたでしょ」

「ほうじゃったかな」

 かくりと首を傾げる祖母を見下ろしながら、少し息苦しさを感じて心持ち強めに肺に空気を送った。

「たちまち入りぃよ。暑いじゃろうが」

 引き戸を開け、祖母がこちらを振り返る。その目に感情を読み取るのは難しいが、やや弾んだ声音からは孫の来訪を喜んでいる気配が伺えた。祖母の背中から薄暗い玄関に並ぶ靴へと視線を落とすと、蜘蛛の巣まみれの靴箱の陰で小さなヤスデが丸まって乾いていた。久しぶりのこの家の香りに、何か遠い記憶が蠢いた気がした。




 十年近く前から認知症に悩んでいた祖母は去年体を人形にした。近所に人形師がいて、その人に頼んだらタダで用意してくれたらしい。そのことを知ったのは両親とともにここへ帰省した三年前の正月だった。

 初耳だったのは両親も同じで、特に実の娘である母は祖母を泣いて怒鳴りつけた。というのも、狼狽える母に人形になった理由を聞かれた祖母は最初こそ「この方が動きやすい」や「綺麗じゃけ」といったことを言い訳がましく呟いていたが、やがて半ば怒りながら「ちゃんとあんたらにも言うた」だとか「こうせんとだめなんじゃけぇ」だとかついさっきとは違うことを言い始め、挙句それを母に指摘されると「知らん」と言ってそっぽを向いてしまったのだ。それが母にはこたえたらしい。俺も父も認知症なんだから仕方ないと宥めたが、内心で正面から祖母の相手をするのを諦めてしまったのは同じだと思う。

 それでも、俺は祖母のことが好きだった。幼い頃からよく叱られたものの、それ以上に一緒に畑で野菜を収穫したり近くの山の麓まで散歩したりした思い出が鮮明に残っていた。なので、祖母に話しかけることは減っても何か言われたら必ず返していた。

 だから今回は俺だけでここへ来ることになった。

 台所へ引っ込んだ祖母を横目に仏間へ向かう。そこはいつも帰省した時に荷物を置いている部屋で、襖一枚隔てたその隣が居間だった。電気の消えた仏間の床を、クーラーが効いている居間から流れ出たらしい冷気が這い回っている。

「あれ?」

 ふと気付いて部屋を見回した。ここには以前仏壇があったはずだが、今は影も形もない。天井近くの壁に掛けられていた先祖の遺影もなくなって、釘だけが所在なさげに列になって突き出ている。祖父母だけで動かせるとは思えないので、人を呼んで模様替えをしたのだろうか。

 居間には、去年手術をしてからすっかり痩せてしまったという祖父がいるはずだった。それでとりあえず祖父に仏壇のことを聞こうと襖を開けてみたが、今度は祖父までもその姿がない。部屋の中央の食事にも使う大きな座卓の周辺には、床の間の前の座椅子とともにいくつかの日用品が散らばっているのみ、静物画のような空間でただ点けっぱなしのテレビだけが流れゆく時間を健気に主張していた。

 もしかして庭の畑にいるんだろうか。体力の衰えた祖父が炎天下でうずくまる様子を想像して慌てて窓の方へ駆け寄った時、背後で声がした。

誠一せいいちか。いらっしゃい」

 祖父の声だった。見過ごしていたのかと怪訝に思いながら振り返ったが、やはり定位置の座椅子にはいない。その代わり、床の間に飾られた掛け軸が以前見た松の絵から変わっており、そこに描かれているあぐらの老人はまるで祖父の……

「今回は誠一だけじゃったなぁ。まあゆっくりしぃよ」

 絵になった祖父が俺をにこにこしながら見ている。不思議ともう俺も驚かなかった。なので、

「じいちゃん、絵になったんだ」

 そう軽く聞き返せた。

「手術続きじゃったけぇ、よいよ体も動かんし。洋子には一応電話したんじゃけど」

「母さんからは何も聞いてなかったよ」

「ほうか……洋子らはどこ行っとるんじゃった?」

「沖縄。俺はバイトにちょっとかぶってて行けなかったし、この前免許取ったからこっち……あ、あのさ。仏壇、どうしたの」

 すると祖父は少し驚いたように肩を震わせて一瞬言葉に詰まり、

「……ばあちゃんがボケてきたけぇ、線香でも倒したらいけん思ってたちまち処分した。位牌だけわしらの部屋に置いとぉ」

「ふぅん」

「まあ気にせんでえい」

 そのまま祖父は絵の中で横になると、テレビで流れている高校野球の中継を何も言わずに見始めた。祖父はこういう人だった。人と喋るのは嫌いではないが、何も話さずにいるのも苦にはならない性格。俺の気質も似たようなものなので、祖父と一緒にいるのはそれなりに心地良い。

「ところで、チャンネルって変えられるの?」

 ふと頭に浮かんだ疑問をふわりと吐き出してみると、祖父は黙って掛け軸からこちらに腕を伸ばし、厚さのない手に掴んだリモコンをひらひらと振った。

 適当に荷物を解いて庭に出ると、農具をしまう木組みの棚の隙間に猫が寝ていた。さっきは気付かなかったが、恐らくはずっとそこにいたのだろう。この家の飼い猫のチャコ。この家では飼う猫すべてにチャコという名前を付けており、このチャコの前に飼っていた猫もやはりチャコという名で、俺が小さい頃はその先代とよく遊んだものだった。そいつが死んだと聞いた時はそれは悲しく、少しして家にネズミが出るのでまた猫を飼う、そして名前をまたチャコにすると聞いた時にはよく分からない不快感に襲われた。今ならその理由も分かる。

 チャコは俺が近づく足音に一瞬目を開けてこちらを見やったが、すぐに興味なさげに元の姿勢に戻って目を閉じた。そっと額を撫でると気持ちよさそうに頭を指に押し付けてくる。そういえば昔は先代と同じく玄関横の小屋に紐で繋がれて飼われていたチャコが、どうして今は放し飼いになっているのだろう。

 振り返り、湯気に煙る広い庭をぐるりと見回す。谷間の奥のこの家は隣の家からも随分離れて建っていて、真っ直ぐここへ続く道へ目をやっても人工物はほとんど見えない。庭と呼んではいるがその境界は曖昧で、あちこちが雑草に覆われた野原やその片隅にある小さな畑の全てを一度の滞在で眺め尽くしたことはもうずいぶんないと思う。どこがどう変わろうと俺がそれを知る機会はきっと訪れないし、今となっては祖父母に聞いても答えは出るまい。

 抜け駆けを楽しむように一匹のヒグラシが鳴き声を林にこだまさせ始めた。妙な頭の重みを感じて祖父母の家を見上げ、伸びた影がすでに付近を覆い尽くしていることに気付く。

「お前、暑くないのか」

 チャコに尋ねると、こちらの心配を嘲笑うかのような大きなあくびが返ってきた。




 祖母は夕食を作り過ぎた。

「じゃけ、洋子と弘志は帰らん言うたじゃろが!」

「そんなん聞いとらんよ!」

「なんべんも言うとったよ!」

「知らんわそんなこと!」

 昔からよく喧嘩をする二人ではあったので別に目の前でそれが起こっても気にすることはないのだが、今回は内容が内容だけに黙っているのも心苦しかった。

「私は主婦なの!家のこと全部しとるんじゃけ文句言うな!」

「ほいでもこの前もようけ作って結局捨てとったじゃろが」

「前っていつよ?」

「……あの、じいちゃん。いいよ、俺たくさん食べるし。ばあちゃんも、明日のご飯は俺も手伝うよ。最近はよく自炊するから」

 やり合う二人の間にどうにか言葉をねじ込み、山盛りの野菜炒めに箸を伸ばす。野菜炒めには畑の野菜が使われており、明らかに味付けが以前より濃いという点を除けば美味しいと言えた。

 なおも若干の苛立ちは伺えるが、二人も食事を再開した。掛け軸に食べ物が次々と吸い込まれていく様子はまるで新手の手品で、つい目で追ってしまう。箸につままれた酢の物は絵の中に入り込むとこれも日本画風の絵に変わる。しかし、形も色使いも間違いなく酢の物の絵なのだがあまり美味しそうに見えず、それを頬張る祖父の表情もどこか物足りなさそうに映った。

 祖母は関節のぶつかる硬質な音とともに白米を食べながら、

「誠一がようけ食べてくれて助かるわ」

 そう口に出すうちに本当に気分も良くなったようで、やがてテレビ番組に文句を言ったり祖父の取りやすいように皿を近づけたりと忙しそうに動き始めた。すぐに言い争うが少しすれば双方けろりとして普段の会話に戻るのは昔のままだった。ただ、祖父の心境としては難しいものもあるように思われた。

 それは俺が野菜炒めを半分ほど平らげた時のことだった。

 祖母がふと時計を見上げて「あれ」と声を上げた。

「洋子と弘志はまだ帰らんのかね。どこ出かけとるん?」

 一瞬居間を満たした緊張を、祖父のため息混じりの声がひょいと絡め取る。

「今回は誠一だけ来とるけぇ、洋子と弘志はおらん」

「ほうじゃった?」

 それからまた何事もなかったかのように続けられる食卓の端で、俺は絵になった澄まし顔の祖父が透明なガラス板の向こうにいるような錯覚を覚えていた。祖父母の日常生活が完結するこの家は、いわば二人にとっての、二人だけの世界だ。歪んでゆくそこに安寧を見出そうと居場所を探した時、祖父にとって床の間にかかる掛け軸はもしかしたら月が覗く窓のように見えたのかもしれない。

 家の変化。世界の変化。そして二人の変化。二人は多分、なすすべなく形を変えていく生活の中でどうにか世界を維持しようとあちこちを変化させているのだ。そうしてできた二人だけの歪な空間で、俺は一人何をしているのだろう。

 箸と食器と祖母の体の音に包まれて、俺は自分の体が圧縮されていく幻覚を見た。俺がついに見えないほどに小さくなって消えてしまっても、祖父母は何の反応も見せずに淡々と食事を続けていた。

 食事を終えて台所に空の食器を運び終えると、俺の後ろをついてきた祖母が「あ、いけん」と呟いた。

「どうしたの?」

 食器に水を流しながら尋ねると、祖母はうんざりした様子で人形の端正な顔を揺らした。

「風呂、焚き忘れとるわ」

「いいよ。シャワーあるでしょ」

「ほう?ならええんじゃけど」

 食器の片付けは普段からやっているはずと、祖母に後を任せて俺はシャワーを浴びることにした。正直、このまま祖母のそばでその言葉を聞き続けていれば遠からず自分が適当な返答しかしなくなるような気がしていた。それはただ聞こえないふりをするよりも冒涜的に思われたのだ。

 湯船は空のはずなのに浴室は白く霞んでいた。そもそも熱気らしい熱気も感じないのに湯気だけが揺蕩っている状況はどこか釈然としなかったが、一人になった途端に急に重さを増した体を癒せるのならばどうでもよかった。

 シャワーのぬるま湯を頭に受けながら考える。予定では二泊三日の滞在だった。その一日目が終わろうとしている今、まさかこんな居心地の悪さを持て余すとは思わなかった。記憶の中にある祖父母の家での経験はもっと鮮やかで、非日常に心躍らせる異世界への旅行だった。成長した今もそのままの感覚を得られるとは思っていないが、それでも理想と現実との乖離は自覚していた以上に疲労となってのしかかっているらしい。

 場合によっては明日帰るのもありかもしれない。そんなことを考えた瞬間。

 カチャ、と何かが金属を叩いたような音がした。音の源へ首を巡らせると、浴室の窓に行き当たった。元から少し空いていたものの、それでも網戸は閉められていたはずだが、いつの間にやらそこに隙間ができている。蚊が入るのも嫌なので閉じようと手を伸ばした時、腕の横をこちらに向かって目に見えない空気の塊が撫でた。

 驚いて腕を引っ込めたが、いくらじっと待ってみても先程のような感触はない。しかし、海藻のように揺らぐ湯気のなかに視覚では捉えられない何かが潜んでいることが直感的に感じられた。それは小さく、大きく見積もってもスイカ大だろう。強いて言えば、チャコのような猫。もっとも透明なのではとても猫とは呼べない。

「何か……いるのか?」

 通じるとは思わなかったが、とにもかくにも刺すような静寂に耐えられず声に出してみた。すると、俺の前方、閉じられた浴槽の蓋中心付近の湯気がゆらりと不自然にたなびいた。そこにいるのだ。

 もう一度「そこなのか?」と湯気の動いた辺りに問いかけると、今度は反応こそなかったが何者かの存在感が少し増したような気がした。そこでようやく、俺はその何かに敵意がないらしいことに気が付いた。透明な存在はただじっと俺のことを見つめており、観察箱を覗くように俺が何かしらの動きを見せるのを待っているらしい。そうと分かれば背中の筋肉は自然と弛む。相手がこちらに求めているものは分からないが、それならば少なくとも俺が危険な目に遭うことはないように思われた。

 唾を飲むと、俺はうっすらと湯気の奥に揺れる何者かに近付こうとして腰をかがめた。しかし、なおもこちらを眺める視線を肌に感じながら改めて手を伸ばそうと肩に力を入れた途端に、居間から響いてきた祖母の怒鳴り声が浴室を揺らした。

 驚きつつ耳を澄ますと、微かに祖父の声も聞こえる。また喧嘩らしい。二人の怒声はくぐもっていて詳しく聞き分けることはできないが、母音から推測するとどうやら薬を飲んだかどうかで言い争っているようだ。唐突に声が止まる。どちらかが言いたいことを言い終えたのだろう。

 はたと思い出して蓋の上を振り返った時には、湯気とともにあの不確かな存在感は綺麗さっぱり消えていた。




 三人分の布団が敷かれた部屋の片隅、いつも自分が寝ていた窓際の布団で目が覚めた。外では蝉がわずかな涼しさに感謝を捧げるように合唱している。クーラーのお陰で室内は涼しいが、すでに日は昇っており差し込む日差しに照らされた太ももは熱い。

 スマホで時間を確かめると七時半前だった。俺は一瞬二度寝しようかと迷ったが、祖母の料理を手伝うという約束を思い出してだるい体を無理やり起き上がらせる。今頃南国でバイキングでもしているはずの父と母を想像してため息をひとつ、それでもここにいることも特別には違いないと自分に言い聞かせて襖を開いた。

 居間に入ると、すでに朝食を食卓に並べ終えた祖母が開口一番、

「あ、おはよう。そろそろ起こさんと思うとったんよ」

「あ……と、ばあちゃん、朝作ったんだ……」

 思わずそう言うと、祖母は「そりゃ作るわね」と不思議そうに首をカタリと曲げる。はっとして祖父の方を見ると、わずかに俯いていた首を謝るように小さく下げた。

 皿に盛られた料理は多少多くとも昼食に回せばいいとして、炊いてしまった三合の白米の残りは冷凍するしかなかった。だが、食後にラップで包んだ白米を抱えて冷凍庫を開けた俺の目に飛び込んできたのは、すでにそこをみっちりと満たしている肉や油揚げやキャベツの使いさし、その他もはや種類も分からない食材らしきものの山だった。

「ばあちゃん、これ何……?」

 とりあえず目に入った茶色い何かをつまみ上げて尋ねると、

「何じゃろ。えーっと……豚バラじゃろかな」

 だとすればこの色はもうだめだ。いや、これがもう使えないのなら、その下にある膨大なストックの数々は。

「……ちょっと冷凍庫整理しようか」

 絞り出すようにしてそう言うと、祖母はケロリとした様子で「ほう?そんなに満ぱんかね」と俺の手元を覗き込んだ。

 それから午前中を使って冷凍庫の中身を処分することになった。一つ一つ祖母に確かめても「何じゃろ」しか返ってこないので、結局表面近くの一部を除いて他はまとめて捨てることになった。どうやら祖母は使いきれない肉や魚を取り敢えず調味料に漬け込んで冷凍していたようだが、それが解凍されることはついぞなかったということらしい。十回以上祖母の「手伝てつどうてくれてありがとうね。やろう思うんじゃけどもう歳じゃけしんどくて……」を聞きながら、冷凍庫をとりあえず空にした。

 冷凍庫の底には得体の知れない濁った液体が溜まっていた。それに触れてしまい思わず声を上げる俺を尻目に、祖母は平気でその液体の付いた冷凍肉をゴミ袋に放り込んでいく。最初はよくやるなと感心したものの、祖母が「ちぃと閉めるよ」と言って液体を触った手で冷凍庫の蓋をバタンと閉じた時、違うと気付いた。

 人形になったことと関係あるかは分からないが、祖母にはもう清潔や不潔といった感覚があまりないのだ。と言うより、汚いものを汚いと認識することが難しくなっている。

 冷凍庫にものを入れ直して昼食の準備を始めた時、それは確信に変わった。戸棚から取り出したフライパンが汚れていたのだ。

「あれ、このフライパンしまう前に洗った?」

 そう聞いた俺に、椅子に掛けて俺の背中を眺めていた祖母は平然とこう返した。

「ああ、それはキッチンペーパーで拭くだけでええけね」

 瞬間、ぞくりとした。そうとしか説明できない悪寒のような、あるいは不快感が背中を走った。俺はかつて、フライパンを泡の湧き立つスポンジでごしごしと擦っている祖母の姿を見ていた。もしくは、料理の後は石鹸で手を洗い、それから手を拭いてようやくこちらを振り返り笑いかける祖母の姿。その祖母がそんなことを言うはずはないのだ。

 というか、人形が祖母でいいんだろうか。

「でも、手伝うてくれて嬉しいわ。もう歳じゃけぇ、料理するんもおおごとじゃけねぇ」

 三度目になるその祖母の言葉を聞きながら、俺は今この瞬間に決定的な何かを掛け違えたという焦燥感に喉を震わせていた。それから朝の残りの米と刻み野菜を炒めている間も、脳内には人形姿の祖母の無機質な指先がちらついて離れなかった。

 昼食に作ったチャーハンを食べ終えた祖母が「洗濯物干してくるわ」と部屋を出た後、俺は堪らず祖父に相談した。

「ばあちゃん、いつからあんなだった?前来た時は同じことを何回も言うくらいだったと思うんだけど……」

 すると祖父はしばらく俺をじっと見つめ、相変わらず食欲のそそられない見た目のプチトマトを口に放り込んだ。そして雨垂れのような輪郭線をうねらせて、ようやく口を空にした祖父はポツリと、

「あんまり本気で向きうたらいけん」

 そう言って茶碗に箸を置いた。

 祖母が戻る前に食器を多めの洗剤で手早く洗い終えると、俺は助けを求めるように庭に出てチャコを探した。俺にはもう、昔のようにあろうとした自分が間違っていたことが分かっていた。それでもせめて、こちらのこととは無縁に生きる猫に慰めを与えて欲しかったのだと思う。

 まだ湯気が足元を這うなかでチャコは変わらず棚に寝ていた。もしかしたら一晩中小屋に繋がれることなくここにいたのかもしれない。その無防備な姿に安堵を覚えて、そっと頭を撫でる。

「お前はずっと可愛いだけだな」

 俺の手に首の横を擦り付けながら、チャコは細目でこちらを見上げてきた。それはどこか哀れみを孕んでいるように見えたが、それすら今の俺には心地良かった。チャコの柔らかな毛並みに指を埋め、このまま指先から数万本のか細い糸になってほぐれていけたらと想像した。

 突然、チャコが上体を持ち上げた。俺はあの感覚が指から消えたことに落胆したが、直後、チャコが頭を向けている家の裏手の方に何かの気配を感じて反射的にそちらに目を向けた。

 すでに水溜まりは地面に吸い込まれて消えており、庭には手入れが絶えて久しい青草が痛いまでの鮮やかさで生い茂っている。しかし影に沈んだ裏庭の辺りは、反対に黒一色の巨大な塊となって陽炎の向こうにうずくまっていた。その中で何かが浅い呼吸を繰り返しているようにも思うが、日差しに慣れた目にはすぐには像が結ばれない。

 いったん目を閉じて目頭を揉むと幾分か景色の見え方がましになった。それで再びしっかりと影を睨んだ時、「うん?何しとんの」という声とともに影の一部が伸び上がった。祖母だった。

「いや……チャコ撫でてて。というかばあちゃん、いつからそこにいたの」

「さっきよ。植物に水やらんといけんけぇ」

 俺は「そっか」と呟きつつ、釈然としないものを感じていた。あの気配は祖母のものだっただろうか。祖母は体こそ人間ではなくなったが、その息遣いくらいは流石に判別できる気でいた。

 チャコを見下ろすと、その視線は相変わらず影の中に注がれている。一方で祖母はというと、日光の下へ出て庭をきょろきょろと見回していた。そんな祖母を見ていると、ふとこんな考えが胸に去来した。もう俺がまともなことばかり言おうとしても意味はないのかもしれない。奇妙に心が軽くなった。

「ねえばあちゃん」

 一向に水を撒く様子のない祖母に言う。

「そこにいるの、何?」

 すると祖母は俺の眼差しを辿って家の影を見やり、「何って」と呆れたように俺を振り返った。

「そりゃ、チャコのことかね」

 名前を呼ばれた猫が二匹、片方は俺の傍らで、もう片方は相変わらず自分と溶け合った闇の中で仕方なさそうに小さく鳴いた。




 意識してみればチャコはどこにでもいた。流石に今代のチャコではないので、恐らくは先代や先々代のチャコ。それどころか、目に見えない気配だけの何かは時には猫のように足元を抜け、またある時には鶏のように庭草の新芽をついばんでおり、正体すら一様ではないようだった。

 廊下の片隅に積み上げられた何に使うのかすら分からない道具をつつきながら考える。ここにいる限り、何者であれ変化からは逃れられない。そういう決まりなのだろう。

 反対に、変化を受け入れてしまえばそれまでの違和感が嘘のように家のあれこれが気にならなくなった。特に祖母の相手をする上でそれは何よりも安寧を与えてくれた。

 どうやら祖母は、以前はなかった様々なこだわりを手に入れたらしかった。例えばハンガー。以前は物干し場に吊るしたままにしていたのが、今では廊下の押し入れに毎回全て取り込んでしまっている。そうかと思えば洗い終えて乾いた食器を入れる棚はてんでばらばらになっていて、昼食の片付けに朝の記憶を頼ろうとしたのが馬鹿らしくなった。そういう細かにかつ不規則に張られた祖母のルールには、ぶつかるたびに丁寧に頭をかがめて避けて歩くのが正解だった。

 壊れたラジオの笑い声のようなヒグラシの鳴き声が押し入ってくる居間で文庫本をめくっていると、一時間は無言を貫いていた祖父がぼそりと言った。

「誠一は真面目じゃな」

「どういうこと?」

 意味を掴みかねたので紙から目を上げる。すると祖父は、「いや。もうええんじゃ」と諦めにも慈しみにも見える微笑みを浮かべた。それからはまた微動だにせずに絵に徹しはじめたので、俺も足の間でころがる先代以前のチャコを撫でながら再び文庫本を開いた。

 夕食も朝食と同様、冷蔵庫や冷凍庫の残り物を使えばそれなりのものができた。祖母はやはり台所のすみの椅子に居座って「でも誠一が料理できる子でよかったわ。私だけじゃと料理もおおごとじゃけぇ」と繰り返していたが、その頭の上でナマコのような透明の何かがホーホーと鳴きながら飛び跳ねるのが面白くてかなり気が楽だった。

 落ち着いて考えれば、祖母の言動は確かに正常な人間のそれとは離れたところも多いが、それでも人型の存在が動くのに正真正銘の予想外などそうそうありはしない。大体、祖母はもう人形なのだ。腕が取れようが首が落ちようが、人形なのだから不自然ではない。祖父とて多分、巻こうと思えば巻ける。いや、この家自体が変わりゆくものである以上、もはやこの家にあってありえないことなどあるのだろうか。別に雨が地面から打ち上がるわけでもなし、軒下から足が生えて二、三歩動くくらいならば笑って済ませる自信がある。

 夕食の最中、互いの頭の上のチャコらしきものを笑い合っていた俺と祖母とは対照的に、祖父はずっと黙っていた。心配になり体調が悪いのかと聞くと、祖父は脈絡もなく「誠一は明日帰るんよな」と問い返した。

「そうだけど」

「ん、ほうか」

 それきりまた何も言わないので俺はますますよく分からなくなり、

「明日、帰らないほうがいい?明後日でも一応大丈夫だけど、必要ならまだ延ばして……」

「いや、もう一回確認したかっただけじゃけ、何でもないんよ」

「そう……」

 祖父のどこか煮え切らない曖昧な物言いに苛立ちにも似たさざなみが胸に広がったが、それは庭で採れたというキュウリを齧るうちすぐに霧散してしまった。外で響くヒョウヒョウというかん高い声も俺の心を落ち着けてくれた。今夜は涼しいので、クーラーを消して窓が開けられていた。

 俺たちがやり取りをしていた間、祖母は本物の茶運び人形のように同じ動作で黙々と食べ物を口に入れ続けていた。唇の端から漏れていたその一部をティッシュで拭うと祖母が何か言おうとしたので、「飲み込んでからにして」とその顎を指で押さえなくてはならなかった。

 空になった食器を洗い終えて今日は準備してあった風呂に入っていると、また浴室の網戸がガラリと開いた。もしやと思いじっと耳をそばだてていると、案の定何かがその隙間から滑り込んでくる音がした。それは椅子の上に陣取ると、昨日と同じように何もせずこちらの出方を伺っている。

 昼から考えていることがあった。

「お前、チャコなんだろ」

 問いかけると、目に見えないチャコが微かに鼻を鳴らした。

「俺がまだちっさい頃一緒に遊んでくれてた、あのチャコだろ。先代の」

 相変わらず俺の言っていることをどれくらい理解しているのかは怪しい。だが、このチャコは俺が何を言おうがそこにいてくれるという不思議な確信があった。昔この家に来るたびに俺が撫でまわし、時に嫌がられ、そして一緒に昼寝をしていたチャコがそうだったように。

「お前、まだいてくれたんだな……成仏できてないとかじゃないよな」

 チャコの反応はない。チャコが死んだのは俺が中学生になった年の春で、年老いて満足に動けなくなっていたある朝ふらりと姿を消してそれきりと聞いている。そのまま重い体を抜け出してこうして歩き回っているのがチャコの幸せならいいのだが。そういえば今飼われているチャコとは、子猫の頃こそよく遊んだが、ここ五、六年は帰省の折に時々撫でてやるだけの触れ合いだった。向こうからすれば覚えているかどうかも怪しいこんな人間に自由に頭を撫でさせてくれるのだから、あいつも先代と同じく優しい猫だと思う。

「俺、ここに来るたびお前と遊ぶのが楽しみだったんだよ。ありがとな」

 透明なチャコがナアと鳴いた。ふとその声があの懐かしい鳴き声とは少し違う気がしたが、多分あまり重要なことではない。この猫が先代だろうが先々代だろうがそもそも猫ではなかろうが、今この瞬間にはそれも些細な問題だった。

 チャコは俺が何も言わなくなったのを出番の終わりと判断したのか、やがて湯気を揺らしながらふわりと浮き上がり、そよ風になって夜の外気に溶けていった。湯船から立ち上がると、わずかではあるが谷間の冷気が火照った肌を心地よく包み込んでくれた。

 その夜、幼い頃の夢を見た。

 実家と祖父母の家が奇妙ではあるが違和感なく混ざり合った家で、俺は両親と祖父母とチャコとともに暮らしていた。俺はまだ子供で両親も若いのに、祖母はすでに人形で祖父も掛け軸、そしてチャコも今のチャコだった。

 両親は隣の部屋に姿が見えている祖父母がまるで存在しないかのように振る舞っていた。俺はただただそれが理解できず、野生動物から慎重に距離を取るように両親からゆっくりと離れて祖父母の方へ向かった。

 両親のそばから祖父母のいる部屋へ歩くだけで家はその様相を一変させた。ドアは障子に変わり床は畳に、その縁と縁の隙間から草が伸びて小さな花が咲いていく。壁も白い壁紙が泡立って土壁となり、そこに大小様々なしみが咲いては枯れてゆく牡丹のように踊っていた。

 天井に生えた梁から突き出る枝の陰で、祖父母が微笑んでいる。俺はその足元で欠伸をするチャコを抱き抱え、裸足のまま庭へ駆け出していく。畑にはいつの間にか先回りしていた祖母がいて、抱えたボウルに収穫したナスやトマトを載せていた。

「誠一も採るか?」

 祖母が差し出す鋏を受け取ろうとして、俺はチャコが透明になって消えていることに気が付いた。俺は慌てて辺りを見回す。すると風景はすでに見慣れたものではなく、雲母を散らした紗幕のもとで青白く光る夜の砂漠になっていた。

「綺麗じゃろ」

 掛け軸の祖父が傍らに浮かんで言う。祖母を見上げると、硬質な顔が月の光を反射して泣いているように見えた。

 ふと足下の砂に目を落とせば、猫の足跡が前に向かって延々と続いている。冷たいが柔らかな風がその小さな窪みに砂をこぼし込んでいた。




 六時半に目が覚めた。

 真綿に包まれたような体はまだ素直に言うことを聞いてくれないが、脳は意外なほど明瞭に情報を処理していく。日差しの強さからして今日も晴れ。睡眠時間はおよそ七時間半。昨日の状況から逆算すれば、祖母はそろそろ朝食の準備にかかるはずだ。

 重い体を引きずって起き上がった時、足の指と指の間に何か細かなものが大量に挟まっているのに気が付いた。手で払うとそれは簡単に布団の上に落ちていき、いくつかの小さな山となる。手のひらに乗せてまじまじと見つめてみた。

 真っ白できめ細かな砂が朝日を浴びてきらめいていた。

 祖母はすでに台所に立っていたものの、幸い料理はまだ作り始めていなかった。しかしその準備はしていたらしく、昨日の夜に洗い終えて重ねてあった食器をどこかへ片付けたうえで今は何かを洗っていた。

「おはよう、ばあちゃん。今日は手伝うよ」

 俺の声に振り返ると、祖母は驚いたように頭を震わせて、

「誠一が?手伝うてくれるんか」

「うん。何作ろう……それ、洗ってるの、何?」

 近づいて覗き込むと、祖母は小さな鍋を洗っていた。見覚えがある。ただし、俺の記憶の中ではその中には料理が一品入っていたはずだった。昨日の夜、俺が冷凍庫にあった豚肉とキャベツを使って作ったコンソメ煮が。

「中身、どうしたの?」

 我知らず固まっていく全身の筋肉を軋ませるようにして尋ねる。何だろうか、この感覚は。俺はもう祖母に、この家に身を任せてその空気に馴染みつつあったはずではないのか。しかし祖母は俺の動揺を知ってか知らずか、呆れたような笑いとともに再び手を動かし始める。

「いつ作ったか分からんもんじゃけぇ、ほったよ」

「は?」

 反射的に俺の口から飛び出た言葉に、祖母どころか俺自身も驚いて身を強張らせた。 真空になった脳内で慌てて言い訳を組み立て始めるが、思った以上に自分でも混乱しているらしく意味のある内容すら出てこない。ほった、つまり、捨てた?

 こちらを見る祖母の胡乱な目に気付いてようやく浮かんだ言葉は、流石に今度は言わなかったが「仕方ないだろ」だった。まだ何が起こったのか分からない様子の祖母が小刻みな音を立てながら口を開閉させている。その顔を見て、動揺が幾分か収まり冷静になった頭にふつふつと湧き上がるものがある。怒りと苛立ち。この不快な熱を無視し続けるのもいい加減馬鹿らしくなってきた。もうまともでないのは俺も同じなのだ。

「それ、俺が昨日作ったやつだよ」

「あ……え?」

「言っただろ。作っといたよ、ここに置いとくよって」

 しかし祖母の言葉は相変わらず要領を得ない。「えっと……」や「でも……」を何度かもごもごと呟いては、しきりに視線を上下させる。そしてしばらく固まった後、どうにか発したのはいつものあの文句。

「……知らんかったけぇ」

 また俺の腹で熱が温度を上げた。

「ばあちゃんが忘れるのも覚えてないのもしゃあないけどさ、自分が何でも忘れがちなのは分かってるわけじゃん。じゃあこういうことになった時ごめんの一言くらい言えてもいいんじゃないの?」

「でも古いもんじゃったら……」

「いやだから俺が昨日作ったやつなんだって。さっき言ったでしょ」

 俺の嘲りを隠そうともしない声音に、祖母も態度を変えて若干の怒声を覗かせる。

「そんなん聞いとらんわ。私がまた作ればええじゃろ!」

「そういうこと言ってんじゃ……!」

 もう俺は肺の中の熱気を吐き出したくて仕方がなかった。何なのだ、この人間は。こんなにも会話ができない相手が人間なのだろうか。悪いのは人形の体なのか、認知症なのか、あるいはこの家なのか。祖母は重ねて何かを言おうとしているが、こちらはもうその言葉を真っ向から咀嚼する気も失せている。

 やはり祖母に合わせるなどという幻想を抱いたのがそもそもの間違いだった。これを自暴自棄と言うのだろう。そんなことを考えながら祖母の言葉を遮ろうと口を開いた、その瞬間だった。

 鼓膜を直接叩かれたかのような破裂音が台所に鳴り響いた。

 突然のことに、双方の動きが止まる。そっと音の出所に視線を滑らせると、ちょうど俺と祖母の中間辺り、壁沿いに設えられた戸棚が目に入った。その扉が半開きになって揺れている。

 いや、それだけではない。目には見えないが何かいる。それはあのチャコたちのような両手に乗りそうな大きさではなく、もっと背が高い、佇まいからして明らかに人の形をしている。姿の見えない人間が、俺たちの間に立って異様なまでの存在感を放っていた。

 はっとして祖母を見た。

 一瞬、人型の空気を通して懐かしい顔が見えた気がした。皺だらけの、人間の体をしていた頃の祖母の顔。だが、声にならない声とともにもう一度振り向けた目にはもう人形の祖母しか映らない。

 それでも見えるものはある。顔色などもはや無いようなものだが、それでも真っ青になってという表現がふさわしい程に祖母は愕然としていた。濡烏の髪を少し乱して、祖母は微かだが目に分かるほどに震えていた。

 祖母は怯えていたのだ。

「あ……うわ……」

 それが俺の口から漏れる声だと気付いた時、例えようもない苦い感情が濁流となって俺の体を押し流した。それは渦巻きながら暴れ回り、俺を枯れ葉のように上下左右に弄ぶ。考えることすらままならない不明の泥の中で、祖母の心細そうに揺れる瞳だけがぼんやりと浮かんでいた。

「ごめんね」

 その言葉に我に返った時、俺は再び早朝の台所に立っていた。すでにあの何者かの気配は消え、若干黄色い日差しが蛍光灯よりも明るく流しを照らしている。その前に佇み、日本人形の美しい相貌がこちらを見つめていた。

「あ……あの人は?」

「あの人って誰よ?」

 祖母は心底不思議そうにかたりと首を傾げると、改めて蛇口を捻って鍋を洗い始めた。その物言わぬ背中はむしろ荘厳で、薄い煙のようなものがその周りを羽衣のように漂っている。俺は未だに身体中の神経に食い込んで自分を責め苛む棘をどうしようもできず、囁くような声で「朝ごはん、作ってくれる?」と聞くのが精一杯だった。

「そりゃ作るわね」

 祖母は振り返りもせずに答える。俺は斜光に浮かぶ後ろ姿をしばらく見つめて、廊下の方へ踵を返した。

「ごめんなさい」

 台所の出入り口でそう祖母に言うと、やはりこちらを見ることなしに「うん」とだけ返ってきた。

 居間へ行くと、祖父がじっとテレビ画面に食い入っていた。俺もその番組を何分か見るともなく見ていたが、やがて胸が落ち着いてきたその倦怠感のままに祖父に問うた。

「ねえ、じいちゃん」

「ん」

「あれ、じいちゃんだったの?」

 何となく、漠然とそうだろうとは思っていた。だが、本当はそれを聞いてはいけないだろうことも分かっていた。それでも、この曖昧とした端境に揺らぐような瞬間にだけは、祖父が許してくれる気がしていた。

 祖父は何も言わず暖かな眼差しをテレビごしのどこかに注いでいる。俺ももう口をつぐんだまま、静かに祖父が本当にいる場所のことを考えていた。少しして居間に何が誘ったのやら今のチャコがふらりとやって来たので、俺はティッシュで作った即席の猫じゃらしやお手玉を使って、祖母が朝食を運び始めるまでチャコと遊んでいた。

 姿の見えるチャコや見えないチャコが隅で思い思いに寝転がったり飛び跳ねたりするなか、俺たちはいつものように食事をした。網戸を抜けた朝のまだ涼やかな風が、些細な口喧嘩をする祖父母の頭上に垂れた蛍光灯の紐を小さく揺らしていた。




「あら、今日帰るんか」

「そうだよ。昼前くらいかな」

 そう返すと、祖母は「早いねぇ」と独りごちつつ座卓を拭く手を動かし始めた。それを見つめながら、俺はすぐ後ろに掛かっている祖父にそっと尋ねる。

「ばあちゃんが人形になったのって、結局何でなの?」

「言わんかったかな」

「うん」

 すると祖父はしばらく首を捻って唸っていたが、やがて「まあええか」と頷いた。

「わしが言うたんよ。人の体じゃ不自由じゃろて。ほいたら、人形になれそうじゃ言うけぇ、してもらえってなぁ」

「じいちゃんが言い出しっぺだったんだ」

「まあ、思うとったんとちいと違うたが」

「どういうこと?」

 俺の問いかけに、祖父はどこかもじもじとしてつま先を掻いていた。それでも、膝の上で眠る今代のチャコを撫でながら辛抱強く待っていると、祖父はついに堪えかねたようにくすりと笑い、

「わしぁ、市松人形みたいなんが似合う思うたんよ」

 ひそひそと二人で笑いあう俺たちを見て、祖母も「何じゃ仲良さげに」と呆れたように微笑みながらため息をついた。

 居間の畳は一昨日と比べると明らかに緑色を濃くしており、ところどころに芽のような凸凹や苔らしいしみが浮いてさながら大洋に散らばる島嶼だった。さっきそこに落ちた埃が縦横無尽に転がるのを見て、米粒ほどのチャコの仲間が無数にそこで遊んでいるのに気が付いた。

 この家は俺の生活する世界とは隔絶されている。それは決して嘆くべきことではなく、ただそのような生活があるというだけのことなのだ。小さな谷間に築かれた、祖父母が根を下ろすマコンド、あるいは木々に抱かれたバブルクンド。俺はここの住人にはなれず、客人としてこの場所を愛さねばならない。

 もうそろそろ、この家からは離れるべきなのだろう。

「また来るよ。次はちゃんとやる」

 どちらへともなくそう言うと、祖母は「誠一は真面目じゃねぇ」と笑って立ち上がり台所へ消えていった。残された俺と祖父が並んで見つめるテレビから流れた高校野球のサイレンが、湿気を増し始めた谷間に喨々と響き渡っていく。

 朝が終わろうとしていた。

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幽谷にて 雨野榴 @tellurium

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