過去の連作にも口語歌はあったが、
いつもより遥かに連作中の口語歌の割合が増えている。
「歴史的仮名遣い」ながらもいよいよ口語の波が押し寄せてきているのを感じる。
多分、口語の歌がなくなれば「歴史的仮名遣い」もやめてしまうのだろう。
とはいえ「今だからこそ文語短歌を詠む」というのは相当に(一種の「抵抗」として)意味がある。
だから「歴史的仮名遣い・文語」の歌が菫野さんの連作から消えることはないだろう。
「いくところまでいってしまった」という遠さが出す凄みとは対極に、
「極めて近いところで歌っている」
という近さ、そして近いからこその「視点の異質さ(まじめな用語なら異化効果とか言うのだろうか)」が際立つ連作である。
いかにもな幻想性を全面に出す反面、現実との繋がりが見え難い「遠さ勝負」ではなく
現実との繋がりをとことん見えやすくした「近さ勝負」へと路線が切り替わったのだろうか。
いかにもな幻想性は減ったものの、
やはり幻想あるいは浮遊感とでも言うべきものが連作を貫いている。
それはある時は「視点を変える・言葉を工夫する」という芸術らしい技巧に支えられている。
しかし、「視点」も「言葉」もとことん平凡で現実的な歌を詠んだとしても、
どこかしらに「ズレ」や「揺れ」があれば十分に「幻想的、浮遊的」なムードは出てしまうものである。
そうした「ズレ・揺れ」をどこかに隠した歌を詠み続けることができる数少ない歌人が菫野さんということになるだろうか。
「・白いページに刷られたことばは骨だからかうしてここにしまつておける」
この歌は極めて単純だ。
素朴ですらある。
一応「白いページに刷られたことばは骨のよう」という直喩のかたちはとっていないものの、
「白いページに」「ことば」が「刷られ」ているという事実から「骨」というイメージを引き出しているという構造は簡単に読むことができる。
「かうしてここにしまつておける」というのはまるで「自然などの現象を神話として説明しようとする古代の人間」みたいで面白い。
「ことば」の「骨」らしさというのは、たとえば漢字やカタカナであれば直線的でコチコチしているからわかりやすい。
しかしそれだけではなく、「(書かれた)ことば」はつねに過去の人間の思考の痕跡である。
「(書かれた)ことば」まあエクリチュールと言えばかえって誤解が増えそうだが、
これは非常に危うい。
というのは「時間を越えられる」故に「リアルタイムでの思考を伝えないから誤解させる」可能性を秘めている。
また、「直接的な対話が不能である」というディスコミュニケーションの性質もマイナスだろう。
「(話された)ことば」と比べて「(書かれた。『刷られた』)ことば」は随分「骨」に近いものである。
物言えず、つねに過去の遺物であり、それ故に目の前の(現在の)現実とズレている。
また、「かうしてここにしまつておける」も実は面白い。
ようするに「本は棺桶だ!」と言っているのではないか。
そこまで簡単に読んでしまえば、
そこにあるのは
「四角い本と四角い棺桶(余談だが、私が見た棺桶は実に四角かったなぁ)」
の単純な「形の上での類似」だけである。
「形が似ているなぁ」で支えられた詩的跳躍は実に楽しい。