第2話 秘密と罪 

 稔流みのるの心臓は、ドクンドクンと重苦しく、音が聞こえそうな錯覚がするほど大きく脈打った。

 母に気付かれないように、少しの音も立てないように、自室へと逃げ戻った。


 どうして、そんなにも後ろめたい思いをしなければならなかったのだろう?

 稔流自身もわからなかったけれども、自分が信じていた世界が、音も無く壊れたようなような気がした。


 父よりも強くて格好いいと思っていた母は、あの夜とても弱く見えた。

 温和で優しいけれどもちょっと抜けていると思っていた父は、どんな時でも笑顔でいられる強さと嘘を持っていた。

 

 稔流は、封じ込めていた秘密と不安を、誰にも打ち明けることも相談することもなく、1年近く口にしなかった。

 ただ、次の誕生日が来る前に、やっと休みが取れた父とふたりきりになる機会があったから、たずねた。



「みのりは、どうして死んだの?」



 父は言葉にまり、わずかかな動揺どうようが稔流にも見て取れたけれども、いつまでもかくしておけることではないと思ったのだろうか、冷静に話してくれた。


「……稔流もみのりも、とても小さく産まれたんだよ」

 発育良好な赤ん坊は、2500グラムから4000グラムくらいの体重で生まれてくる。だが、稔流とみのりという双子は、千グラムを下回る超低出生体重児だった。


「双子がお腹にいる妊婦さんは、本当に体調に気をつかうものなんだよ。赤ちゃんが育つ子宮っていう場所は、赤ちゃんひとりを育てるように出来ているから。…本当に、お母さんは頑張がんばっていたんだよ。稔流もみのりも元気に生まれて来てくれるように」


 それでも、早産となった。

 妊娠経過は順調だったのに、ある日突然みのりだけ血流が悪くなっていると言われ、緊急きんきゅう手術となった。


「稔流の方が少し大きくてね、産声うぶごえも上げることが出来たんだよ」


 でも、小さい稔流よりももっと小さかった《みのり》は、そうではなかった。

 産声うぶごえを上げることなく、止まっていた心臓が再び動き出すこともなかった。


 産まれてきたのに、生きていなかった。


「お母さんが悪い訳じゃないんだよ。お医者さんの力不足でもない。…誰も悪くなくても、悲しくてつらい出来事に出会ってしまう……そういうことも、あるんだよ」


 もうすぐ7歳になる子供に語って聞かせるには、難しい話だったのかもしれない。

 でも、小さく産まれて小さく育った稔流は、さっしのいい子供に育っていた。


 母の所為せいではない。そんなことは看護師かんごしである母は当然わかっていたはずだ。

 それでも、何の罪もない小さな小さな我が子がが死んでしまったのに、誰も何も悪くないだなんて、そんな残酷ざんこくに母は耐えられなかった。

 

 そうして愛情深い母は、自分の娘の死産という事実と悲しみを、他の誰でもなく母親である自分自身の所為せいにした。


「妊娠がわかった時にね、お父さんもお母さんも、大喜びで名前を考えたんだよ」


 男の子なら「みのる」。女の子なら「みのり」。

 父の名前が「ゆたか」で母の名前が「真苗まなえ」なので、輝くように実る稲穂いなほをイメージした。


 双子で、性別も丁度良く男の子と女の子と判明して、どちらも採用するつもりで漢字は「稔流」と「実梨みのり」にした。

 「稔」も「実」も、一文字だけではどちらも「みのる」だと思われてしまいそうなので、送り仮名の漢字を「」と「」にして区別した。


「でも…、お母さんは『梨』の字を考えた自分の所為だと思ってしまったんだよ」


 「みのる」の送り仮名に「」を選んだのは父で、「みのり」の送り仮名に「」を選んだのは母だった。

 「梨」は果物の「なし」だ。「なし」を「り」と読む名前の人はきっとたくさんいるのに、母は後から知ってしまった。


 葦を「アシ=悪し」と読むのは縁起えんぎが悪いからと「ヨシ」と呼ぶように、梨は「無し」につながるからその音を避けて「ありの実」と呼ぶのだと。


 遙かな昔から、日本人はこういう縁起担えんぎかつぎや言葉遊びをして来たのだから、生まれる前から決まっていた名前に「なし」が入っていたからと言って、命が無くなることと結びつけるのはこじつけでしかない。それでも。


、なんて、もう付けない――――)


「お父さんは、どうしてながれるの『』にしたの?」

「長いの『なが』という日本語の語源…元になっているのは、流れるの『なが』なんだよ」


 長くみのり続けるような人生を…と。

 それならば、「梨」だって、金色に似た大きくて甘い果実が実りますように、という願いが込められていたはずなのに。


「そうなんだ。…ありがとう、お父さん」


 そう言って、稔流みのるはこの話を終わらせた。 小学1年生の子供が、こんなそつのない態度を取るのは不自然なことなのだと、当時の稔流は気付いていなかった。


 いつ、誰に言われたのだろうか。


――――この子は物わかりが良すぎる。苦労をするよ――――


 もっと、色々なことを聞けばよかったのだろうか。

 稔流しか生き残らなかった、稔流だけを育てるしかなかった7年間を、父と母はどんな気持ちで生きてきたのか。


 でも、聞いても大人である父は、子供である稔流が傷付かないような言葉だけ選んで、嘘をいてでも稔流を安心させようとする、そんな気がしたから。


 自ら話を終わらせた稔流は、誰にも何も言えなくなった。


 父は言っていた。元々母親の子宮はひとりの子供が育つように出来ている、と。それなら……


――――ぼくは、みのりの分の命まで、ひとめにして生まれて来てしまったんだろうか――――


 そんなことはないと、分かっている。知っている。

 でも、母が理屈では割り切れずに自分を責めていたように、本当はかくれて泣きながら《みのり》を想っていたのに、稔流の前では誕生日を笑って過ごしていたように。


 稔流もまた《双子の妹を殺した》という罪を、ひっそりと、小さな体と幼い心に背負せおった。

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