第5話

 あの告白から、五ヶ月が経った。


 今は夏ざかり。編みこまれた光の線が、ビルを出た俺の瞼をじりじりと焼く。


 俺は夢里ゆめさとさんに「異性として好き」と伝えてから一週間後、SNSからログアウトした。それから今に至るまで、一度もログインしていない。


 あれだろう。

 俺はきっと、夢里さんを傷つけたのだ。


 傷つけた、という言い方はおかしいかもしれない。しかし彼女は俺のことを『友達』と思っていた。二人でダイレクトメッセージを交わしたし、お互いの声を送り合ったこともある。落語のまねをした音声メッセージに、彼女はケラケラと笑ってくれただろう。あの、レモンティーのような笑みを咲かせてくれたことだろう。


 なのに俺が……一方的に関係を壊してしまった。

 あの関係は、執筆と戦う彼女にとってオアシスのようなものだったかもしれないのに。


 俺は、壊した。


 くそっ! 思い出せばいまいましくなり、俺は駐輪場のフェンスを蹴っ飛ばす。通行人がざわついた。ヒソヒソという波にはきっと、俺への悪態が混じっている。


 この五ヶ月、ずっとそうなのだ。


 あの時のバカな俺を思い出しては……俺は、自分自身を殴り続けている。自分を殴れないから、ものに当たるときもある。最低だ。


 森野とのLINEもブロックした。俺は完全に、小説世界との縁を絶ち切ったのだ。最近は脱紙を標榜するシステムのプロジェクトに参画した。しかもリーダーだ。やりがいがある。俺はこうやって社会に貢献すればよいのだ。少しずつ少しずつ……。貢献すれば、きっと社会は良くなっていく。そして見えない形で、少しだけではあるけれど、夢里さんの幸せに繋がっていくのだろう。

 それは風が運んでくる、かすかな夏の香りに似ていた。


 部屋に帰る。


 ダイニングの電灯をつけ、郵便受けに入っていた広告をテーブルに放る。部屋の中にはもうんとした湿気が立ちこめている。エアコンを20度でつけた。リモコンを静かに、ソファーの上に置いた。窓の外からは子供の笑い声が聞こえてくる。そうか、今日は近所で小さなお祭りがあったのだっけ。そういうのも、いいよな。とか、思った。


 俺は小説を書いた。


 短編ではない。長編だ。プロットは設けない。キャラクターも設定しない。もう、適当なホームに入線した適当な電車に飛び乗るようにしてタイピングを繰り返した。どうでもいい。どこからでも物語にしてやる。矛盾上等。とにかく今、書きたい。



 月が変わり、葉月へと入る。



 俺はずっと長編を書き続けていた。蚊がプーンと飛べば、横笑いでニヤリと応えてやった。いい応援だ。あとエピローグだけ。……うん、書けた。書けてしまった。

 俺はその原稿を、推敲もせずに手近な新人賞へと応募した。

 応募して、コーヒーを飲んで。五分後にまた、書き始めた。

 今度は、プロットをつくった。


 そうして俺は、一ヶ月に一作という気狂いなスピードで長編を脱稿させていった。プロットを充実させるために映画脚本のハウツー本を読んだ。小説のプロットを映画の流れに置き換える。そこには往々にして法則がある。それを読みとった。掴んだ。俺は自分で言うのもなんだが、いつしかプロットの魔術師になっていたらしい。


 ……そんなの大げさだって?


 そうじゃない。

 俺は久しぶりに原稿を書き始めてから二年と少しで、雷激小説大賞の――、



 銀賞を受賞した。



 編集部に呼ばれた。

 白と灰色がほどよく混ざり合った、モダンな応接室だ。ラノベ新刊のポスターが貼られてある。編集者Aはひょろりと細いやつだった。横蹴りが最大の弱点みたいなやつだ。そいつが、にやりと前歯を見せた。


言一こといちさんって、あなたのことだったんだね」

「そう、ですが。なにか?」

「いえ……。ところで夢里ゆめさとりゅうさんって知ってる?」


 その固有名詞を聞いて、俺の小腸がうなりを上げる。


「執筆中はあまり本を読めていなかったのですが、彼女のことなら知っていますよ」

「これ、彼女の新刊なんだけど後書き見てみな。あいつ、何回アドバイスしても消さないんだもんなー、まったく」


 そうか、夢里さんは書き続けていたのか。

 この業界の一線で、バケモノに喰らわれずに生きていたのか。


 後書きに目を通す。そこにはたしかにこの一文があった。



『本作を、お父様お母様、編集のみなさま、(省略)そして、言一さまに贈ります』



 ガタン!


 俺が立ち上がると同時に、オカムラの椅子が後方へと倒れた。


 生きるときが来た。

 本当に、生きるときが来た。


 それは、今だ――。

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