第3話 おばけ橋
背後から、かすかに声が聞こえてきた。
「オネガイ・・・タスケテ・・・」
ぼくは、思わずふりかえった。
「だ、だれ?」
誰もいない。
やはり、橋の向こうには、霧が立ち込めているだけだ。
気のせいか。そうだよな。
だって、このあたりは禁足地だぜ。
街の人は、誰も寄り付かない場所だ。
空耳にちがい・・・
「タスケテ・・・オネガイ・・・」
なくない!
空耳なんかじゃない。
確かに聞こえる。
助けを求める声だ。
まさか!
誰かが川に流されているのか ?
ぼくは、あわてて橋から身を乗り出し、
悪臭の立ち込める川をのぞきこんだ。
いない。
いない、よな。
「タスケテ、よ・・・」
か細く、震える声だった。
「な、なんだ?」
ふと、誰かに見られている気がして
辺りを見回したが、誰もいない。
ふわっ。
どぶ川に立ち込めた悪臭の中に、
これまでかいだことのない香りが鼻をくすぐる。
でも、あれ、だんだん、悪臭が気にならなくなってきた。
とてもじゃないけど、深呼吸はできない、けど、
もう一度。
もう一度、嗅ぎたくなるような、どこか懐かしい香り・・・。
何か・・・いる!?
「え、あ、まさか、おばけ・・・じゃないよな?」
そんな非科学的なものがあるはずがない。
断じて、だ。
何度も言うけど、ぼくは、そういうのは信じないタチだ。
でも、じゃあ、あの声は一体なんだって言うんだ。
ドッ、ドッ、ドッ。
心臓が早鐘を打ち始める。
「誰だ・・・。そこに・・・そこにいるんだろ!?」
恐怖を振り払うかのように、ぼくは声を荒げて言った。
突然、目の前の空気がゆらめいた。
橋の上に、若い女の子の姿が浮かび上がる。
透き通るような肌に、風に揺れる長い緑の髪。
口元は、黒いマスクをしていて、よく分からない。
目は淡い茶色で、悲しみに満ちていた。
「きみ・・・君は・・・誰?」
ぼくが、そう尋ねると、
彼女は、目を伏せながら、今にも消え入りそうな声でぶつぶつ何かを言い始めた。
「・・・・・・い。・・・・・・大嫌い。なんて大嫌い。人間なんて、大っ嫌い」
「ちょっと、待ってよ。急に、嫌いだなんて。ぼくがなにを———」
その言葉を言い終わらないうちに、彼女はこう続けた。
「人間なんて大嫌い!!!なのに・・・でも、もう・・・私たちの力じゃ、どうしようもなくて...」
君も、人間だろ?とツッコミたくなる気持ちもあったが、
尋常じゃない彼女の語気に気圧された。
「きらいきらいきらいきらい、でも助けて!!!!」
彼女は、助けを求めているんだ。
おばけ・・・じゃない、よな。
だったら!
震える脚を一歩踏み出し、
彼女に一歩近づいた。
一歩近づくと、少女は身をすくめて、一歩下がった。
彼女もまた、おびえているようだった。
「ぼくは。ぼくは、君を傷つけることなんてない!何か・・・、何か困っているなら、教えてくれ」
ぼくは、震える声をなんとか落ち着けながら、言葉を絞り出した。
「人間が私たちをきり倒して...放っておいて...だから、私たち、怒ってるの!人間が憎い!!」
少女の語気がまた少しずつ強くなる。
その目に怒りの炎が灯った。
「でも、このままじゃ・・・森が・・・森の、みんなが。一体、誰を頼ったらいいのよ!」
突然、遠くで大きな音が鳴り響いた。
バリバリ。ドーン!
何かが倒れる音だ。
地面が揺れ、川の水面が波打つ。
普段は穏やかな川面が、今は大蛇がうごめいているようだ。
「なんだ?地面が揺れ––––––」
「ひゃっ!」
少女が叫ぶ。
恐怖に満ちた声だった。
「もう、始まっちゃった・・・私たちの怒りが・・・もう、手遅れ。私の。私たちの森が」
少女の透明な涙が、頬を伝って緑の髪に吸い込まれていく。
バリバリバリッ。ズシーン。
遠くでまた、何かけたたましい音がとどろいた。
おわっと。
気を抜いたら、転がりそうだ。
大地が唸るような低い振動は、まだ続いている。
足元がふらつき、思わず橋の手すりを掴んだ。
錆びた金属特有のザラッとした感覚が手に伝わってきた。
ぼろっぼろだけど、何もつかまないよりはマシか。
「一体、何だっていうんだ!」
ぼくは、恐怖と焦りで声が裏返りそうになりながら叫んだ。
少女は初めてユウの目をまっすぐ見つめた。
その目には、恐れと希望が混ざっていた。
「森に・・・来て。私たちの声を、聴いて。でも・・・」
少女の姿が薄れ始める。
周りの空気に溶けていくかのようだ。
「でも、人間は嫌ぃ...だから...」
そう言い残して、少女の姿は消えてしまった。
少女の放っていたであろう不思議な香りも薄れて、
また川の強烈なにおいがあたりに立ち込める。
うっ。
鼻を貫くような刺激。
ズーン。
バリバリバリッ。ズシーン。
わわわ!
今度はさらに大きい揺れって、
まじかよ、おいおいおい!
橋が後ろから崩れ始めてるって。
聞いてないぞ。
やばいやばいやばい。
どうする。
どうするよ!!
瞬間、ユウの頭に、おじいちゃんの言葉が蘇る。
[ワシは、杜人じゃからじゃ]
おじいちゃん、一体なんだっていうんだよ。
森が・・・森があるの?
この霧の先に?
橋の崩落は、すぐそこまで迫ってる。
あぁ、もう!
考えてる暇はないってことかよ!
ぼくは川の向こうを見つめた。
不気味な霧が、橋の向こうには立ち込めていた。
「行く・・・しかないのか...」
額の汗を手でぬぐった。
本当に、川の向こうが安全なのか危険なのかも分からない。
それに、さっきから聞こえるあのでっかい音。
ただごとじゃない。
でも、ここにいたら自分もあのドス黒い川の中へ落ちてしまう。
もしこの橋の向こうにも世界が広がっているのなら・・・
[時がきたらわかるじゃろ。ユウ・・・いつか、ユウも旅に出る宿命じゃ。森で待っておるぞ]
宿命・・・か。
ったく!
おじいちゃん、ぼく、行くよ。
行けばいいんだろ、行けば!!
ぼくは、橋の向こうのたもとをめがけて走り出した。
ぐっ!!
ギリギリ、間に合うか。
跳ぶしか、ない!
ふざけちらせよっ!
うりゃあっっっっ!
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