後編
「パパ―!ボール投げてー!」
香純が手を振っている。達哉はボールをひょいっと投げると、香純は取れずに転がるボールを追いかけている。
広場はあの頃と何も変わらない。ただただ広くて、芝生がひろがっているだけだ。
あの時座ったベンチは木が痛んで、端の方がボロボロになっている。
確実に10年の時は流れたのだなと感じる。
ベンチに座って空を見上げると、薄暗くなった空に一番星が光っている。
「パパー帰ろー」
気づいたら香純がそばまで来ていて、達哉の手をぎゅっと握って引っ張る。
「口笛吹いてー」
香純と手をつなぎながら口笛を吹いて歩く。
(香織もよく口笛を吹いてと言っていたっけ)
高校を卒業して、達哉も香織も東京の大学へ進学した。近くに家を借りていたので、よく遊びに出かけたり、お互いの家を行き来していた。
二人にとって、この頃が今思えば一番楽しかった時期だ。
そして大学を卒業し、就職して3年目に、ようやく意を決して達哉はプロポーズをした。
行ったこともない高級なホテルに行き、買ったことのないバラの花束をもって、プロポーズをした。一生に一度だからと色々セリフを考えていたのに、緊張のあまりに達哉から出たのは、「結婚してください」の一言だけだった。
香織は涙をポロポロ流しながら、「はい」と答えた。その感動的な場面で、達哉は泣いたところ初めて見たなと考えていた。
そして結婚式も無事行い、晴れて結婚生活がスタートした。
共働きではあったが、家事を協力して行い、すべてが順調だった。
そして2年後に、香純が香織のお腹にやってきた。
経過は順調で、何もかも幸せに包まれていた。
きっとずっとこの日々は続くのだと達哉は信じていた。
陣痛がきたと連絡が来た時、達哉は仕事をしていたが、上司にかけあって早退して病院へ向かった。香織は痛そうではあったが、痛みが落ち着いている時は普通に話すこともできた。
一生懸命習った方法で香織の背中をなでたり、腰を押したりしながら過ごした。どれくらいの時間がたっただろうか、突然香織から声がしなくなり、顔色がかなり悪くなっている。
「香織?香織!」
何度呼び掛けても返事がない。
動揺している間に看護師に促され、分娩室から退室させられた。
間違いなく香織に何か起きている。
そうわかっていても何もすることができない。ただただ二人の無事を祈るだけだ。
しばらくして「おぎゃー」という元気は赤ちゃんの産声が鳴り響いた。
そして香織と赤ちゃんが出てきたかと思うと、香織は危険な状況だからとあっという間に運ばれていった。
地獄のような時間が流れ、その後医師から香織が危篤状態であることを説明された。
「パパ―。香純にも口笛教えてー」
香純が何度も達哉の真似をするが、ただ息がもれるだけだ。
「もう少し大きくなったら吹けるようになるよ」そういうと、香純は頬を膨らませて「もう大きいもん」と言って、また口笛の練習をし始めた。
香織も昔同じように教えてほしいと言っては、うまく吹けずに拗ねていた。
香純はどんどん香織に似てくる。
「明日、ママのところ行く?」
「うん、明日はママに会いに行くよ」
「香純のこと忘れてないかな」
「忘れるわけないよ、香純はママの宝物なんだから」
「そっかぁ」と嬉しそうに香純はスキップしている。
(命がけで産んだ宝物を忘れるわけない)
香純を抱き上げて肩車すると、香織の実家へ向かった。
香織の実家に着いて、ご飯を食べると、香純はあっという間に寝てしまった。
「達哉くん」振り返ると、お義父さんがお酒をもってこっちに来いと手を振っている。
達哉が席に座ると、酒を注ぎながら、「あっという間だよなぁ」といって、しみじみと隣の部屋で寝ている香純の顔を見ている。
「今日は飲もう」
「はい」と達哉は答えると、お義父さんに注がれたお酒を一気に飲み干した。
翌日は香純を連れて香織のところへ向かった。
「ママはこの病院にいるの?」
「そうだよ」
慣れない場所で不安そうな香純を抱っこしながら、病室へ向かう。
「ママだー!」
香純が達哉からぴょんと飛び降りると、まっすぐに香織のもとへ走っていく。
「香純!」香織がぎゅっと抱き上げた。
「会いたかったー!」
「ママもだよ。一週間ずっと会いたかったもん」
香織の横には、生まれたばかりの香純の弟が寝ている。
「香純の弟だよ」香織がそういうと、香純がそっと覗いて、ほっぺをつんと触る。
「優しくしてあげてね」
「香純はもうちっちゃい子じゃないもん、大きい子だから大丈夫だよ」
香純のにこっと笑った顔が、香織そっくりだ。
退院して香織の実家に戻るころには、夕方になっていた。
縁側に達哉が座っていると、香織が横に座った。
「ここからまた大変になるわね」
「そうだな」
「たっちゃん、おむつ替えうまいから頼りにしてる」
「おぅ」
香織は達哉の手を握ると、あの頃と変わらない笑顔で「ねぇ、たっちゃん、口笛吹いて」とおねだりする。
夕暮れの空に達哉の昔と変わらない口笛が響く。
するとパタパタと香純がやってきて、二人の間に座って、二人の手を握る。
二人の影の間に小さな影がうつる。
この温かな小さな手だけは守らなくてはいけない。
綺麗な口笛が寒空に澄み渡っていった。
口笛 月丘翠 @mochikawa_22
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